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腕いっぱいの花束に、胸いっぱいの恋歌を p30

「またって、これが初めてじゃないの?」 「…」  今度は唇をぎゅっと引き結ぶ。語りたくないという物堅い雰囲気が伝わってきたので、ぼくは溜息を吐きつつ、質問するのをやめた。 「じゃあ、お前たちが俺をここまで運んでくれたんだな」 「そういうことだ」  宗太の返事に、唯輔は深刻な顔をしてまた俯いた。そのまま重たるい沈黙が流れる。宗太の穏やかな声がそれを遮った。 「ハラ減ってないか? 何か、飲む?」  優しい声かけに、唯輔の顔がほっと和む。 「お茶が冷蔵庫にあるんだ」  起きだそうとしてヨロつく。ぼくは手のひらを見せてそれを制した。 「ぼくが取ってくるよ。あんた、今起きたらまたぶっ倒れるよ?」  さらに病院にまで付き添うのはごめんだと思い、ぼくは早々と立ちあがって廊下の冷蔵庫に向かった。  驚いたことに冷蔵庫の中には、五百ミリリットルのペットボトルの緑茶が一本と、たまごサンドイッチが一袋しかなかった。あとは何もない。空っぽ。 「まだここに住んで二週間も経たないのか」  戻ると宗太がそんなことを言っている。唯輔がこくりと頷いている。 「そろそろ一人で暮らせって家族に言われちゃって。なのに、こんなざまじゃ情けないよな…」  唯輔は小さな子供が大人に気遣うような頑張ったような笑顔を作る。一途な性格が伝わってくるような、なんともいえずいたいけな表情だった。 「だからなの? あんたんとこの冷蔵庫、空っぽだよ」  会話が途切れたので、ぼくはペットボトルを差し出しながら言った。  たまごサンドイッチが一つというのも、いやにリアルでデカダンな感じがする。部屋を見まわしたかぎりスナック菓子なんかもみあたらず、まるで食欲なんかないような、本当に妖精みたいな男だった。 「いくら越したてだからって、あんた、カスミでも食って生きてんの?」 「――サンドイッチ、なかった?」  上目づかいで、本気で心配しているような声で訊く。たった一つのあれが、唯輔にとってはとても大事な食糧なのだ。 「あったよ。でも、マジであれだけだった」 「とりあえずサンドイッチがあれば、それでいいから」  食べるものと飲み物を必要な分だけ必要なときに買う。  まあ、そういう生活スタイルも理解できるけれど、でもどうにもぼくは、この唯輔という人物に精神的な不安定さを感じずにはいられなかった。深い「ひび割れ」のようなものを、感じずにはいられなかった。  それはやはり、ぼく自身がかつてこのような状態にあったからなのか。ぼくも精神的に不安定で、深いひび割れを心にかかえていたから。  それとも、あまりにこの人の顔かたちが綺麗だから、宗太が特別な感情を抱きはしまいかと恐れるあまり、反発感情を持ってしまっているからだろうか。 もし後者だとしたら、ぼくはそうとう性格が悪い。 「でも、よく寝た。こんなに寝たの、ここらじゃ初めてかも。頭がすっきりしてる」  ペットボトルを握りながら、唯輔は真剣な顔で呟く。ぼくは思わず苦笑した。 「これだけ寝てたらね」 「お前、不眠症なんじゃないか?」  突然、宗太が緩んでいた空気を破る。思いもよらないワードにぼくは絶句した。  唯輔もびっくりした顔になって、しばらく茫然と宗太を見つめる。その後で、幼い子供みたいな表情で小さく頷いた。 「よく分かったな…」  あたったんだ…と、ぼくはまたも驚愕とする。――すごい、宗太。 「少しばかり、講義でかじっただけだけどな。普段よく眠れないから、限界が来ると気絶するように眠っちまうんだよな」  自分が言わないまでも、宗太が言い当ててくれたのを感動するみたいに、唯輔が薄い色の瞳を揺らしながら首肯する。  ぼくは心底、宗太に感心した。  こんなふうにこの人は、他人が無意識に出しているSOSのサインを的確にキャッチするのだ。事実、ぼく自身もそれで救われたくらいに。

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