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第30話 誘惑

 視線を彷徨わせる蘇芳の背中を押すように、そっとミソラが言葉を付け足す。 「苦しいだろう。それを鎮めるには、甲の精をその身に受けるしかない。私なら、お前をつがいにしてやれる」  初めて聞くことのはずなのに、何を言われているのか蘇芳にははっきりと分かった。頭が知らなくても、身体が知っているような不思議な感覚だった。  この身を焼くような渇望感を鎮めるためには、甲のものと交わり、その精を身に受けるのだ、ということ。  以前の蘇芳だったら、そんな生々しい想像は恥ずかしくて到底できなかったに違いなかった。けれど今は、言葉を聞いただけで、胎内がまたずくりと疼くような感じさえある。  他のあやかしや、かつて蘇芳の力を暴走させたあの男たちにされるのは恐ろしくても、ミソラは決して蘇芳の嫌がることや怖いことをしない。その信頼感もあった。  そこまで分かっていてもなお、何かどこか、蘇芳に残った最後の直感が、流されることを拒んだ。  ——このまま、ミソラさまに全てを委ねてしまえば、昔のように何の心配もなく、安全な暮らしが待っている。でも……  あの、ぬるま湯のような、何物にもなれず、誰の役にも立つことなく、ただ庇護されるだけの生活が永遠に続くのだ。  求められることは嬉しい、でも何かが違う。自分が探しているものはそこにはない。  もうまともな思考が残されていない頭で、自分が行くべき道は目の前の強大な存在に頭をたれることではないと頭の中で警鐘が鳴る。胸を締め付けるようなその警鐘に、従うべきだと蘇芳の中の何かが告げていた。  ぐっと唇を噛んで押し黙ったままミソラの方を見ようとしない蘇芳の頬に、ミソラがそっと手を触れる。文吉や鉄郎、町の男衆たちの手とはまるで違う、滑らかで繊細な感触に、蘇芳はびくりと身体を震わせた。  顎を掬い上げられた指の有無を言わせぬ力の強さに、見上げたミソラの弧を描いて薄く開いた口から覗く鋭い犬歯と紅い舌に、蘇芳はひっと息を呑んだ。  ‪—‬—こんなミソラさまは、知らない。怖い……!  身体と心がバラバラの方向を向いているようで、頭がおかしくなりそうだった。  濃厚な花の香りにただでさえ思考が鈍り、この強大な甲に支配される喜びを囁く本能に抗うのが、刻一刻と難しくなっていく。  蘇芳は頭を振りかぶり、ミソラの手から必死に逃れ出るようにあとずさった。その拍子に頬をまた一筋、新たな雫が伝い落ちる。  ミソラが眉を顰めるのが見えた。  ‪—‬—だめだ。逃げられない……!  ミソラほどの力を持つあやかしが本気を出せば、自分などあっという間に貪り食われてしまうだろう。まして自分は身体が限界まで昂り疲弊していて、抵抗らしい抵抗もできそうにない。  蘇芳はかたく目をつむり、襲いくる衝撃に備えた。 「……っ」  しかし、予想に反して、一向に蘇芳の身体にミソラが触れる気配は訪れなかった。  そうっと目蓋を上げた蘇芳の視界に、先ほどまでの猛々しい空気が消え、困ったような、何かに耐えるような苦しそうな笑いを浮かべたミソラが映る。 「いや、すまない。怯えさせるつもりではなかった。お前の魅力はそれほどに抗い難い。それだけ今は分かっておくれ」  まだ少し苦しそうに荒い息をつきながら、ミソラは蘇芳の頭に手を伸ばそうとしたが、その手を引っ込める。 「今すぐにでなくてもいい。いずれ、お前にもわかるだろう。お前の場所は、いつでも開けてある」  ミソラは目を伏せると、来た時と同じようにふっと煙のようにかき消えていなくなった。

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