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第33話 相容れない存在
大きく息を吸うと、濃い緑の香りを纏った森の清浄な空気が肺に満ちる。
月あかりは煌々と大地を照らし、少し前まではあれほど絶望に満たされていたのに、今は急に視界がはっきりとしたような心地がしていた。
文吉をはじめ蘇芳によくしてくれた町の人たち、そして、鉄郎のことを思い出せば、癒えきっていない傷口が開くような重たい痛みが走る。しかしその痛みも蘇芳の足を鈍らせることはなかった。
行くあてがあるわけではなく、不安がないわけでもないけれど、見つけ出さなければならないと思った。
ただあの瞳に、もう一度見つめられたい。言葉を交わしてみたい。どんな声でどんなことを話してくれるだろう。
ようやく焦点を結んだその気持ちだけが、蘇芳を駆り立てていた。
家を後にするときに持ち出した麻布に、確かめるようにもう一度鼻を近づける。
清々しい香りは蘇芳の脳の奥を蕩かすような、それでいて胸を締め付けられるような、たまらない気持ちにさせた。
発情はおさまり、見た目を変える程度の力は戻ってきた。
しかし、いつまたそれが訪れるのか分からず、まるで患いの発作に怯える病人のような恐れが蘇芳の心にこびりついている。強烈な何かに突き動かされるのとは別のところで、人の前に姿を現すことが最後のところでどうしても怖くて仕方ない。
けれど、蘇芳は人として生まれ、育てられ、あやかしの力が発現した後もミソラの元で何不自由ない暮らしをしていたのだ。それを、いきなり山の中で自力で生きていくのは、どう考えても無理だ。
苦悶の末の選択だった。
何かあればすぐに身を隠せるように、ひと所に定着しすぎないように気をつけながら、蘇芳は再び、人里へ降りた。
着のみ着のままで飛び出してきてしまった蘇芳が、一からまた生活を立て直すのはそう簡単なことではなかった。
どのくらいをどう走ったのか、ほとんど思い出せなかったから、ここがあの町からどのくらい離れているのかも分からない。思い出せたとしても文吉の家に自分のものを取りに帰る勇気もなかった。
——文吉さん……ごめん。
今頃はきっと化け物を見たと、姿を消したのだから相違ないと噂が広まってしまっているだろう。自分にいつも笑顔を向けてくれていた鉄郎の豹変をはじめ、きっと顔見知りだった誰もが怯えた顔をしていると思うと、胸が潰れそうだった。
化け物。決して人とは相容れない、かといってあやかしと共に生きることもできない、半端な存在。
それでも、蘇芳は他に生き方を知らなかった。
細々と薬草を摘んでは薬にして売り、その日その日の暮らしをしのぐ。
蘇芳の薬は確かな効き目があったから、初めはただ同然で持っていかれていたのが次第に真っ当な値段で買い手がつくようにもなった。それでもなるべく人目につかないよう、特定の人と親しくならないよう、人々と距離をとっていた。
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