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第52話 闇の中で
「はっ……はっ……」
最後まで怪しむような目つきを変えなかった男からなんとか解放されたあと、蘇芳は気持ちの急くまま最初は早足で、やがて我慢ならなくなって、走り出した。
山の向こうの隣町までは、人の足なら山を迂回して三日はかかる。しかし蘇芳には山を迂回する必要もなく、闇夜でもある程度目が効き、人の足よりもはるかに速く駆けることができた。
——この調子なら、夜が明ける前に隣町にたどり着ける……。
山に入り、頬を滑って行く夜風は刺すような冷たさを帯びる。しかし町中では味わえない澄んだ芳しい空気に、蘇芳は一瞬だけ立ち止まり目を瞑って深く呼吸をした。
その時、微かな気配が背後で動いたのを感じ、蘇芳はハッと身体を硬くする。見えない気配は、しかし蘇芳に襲いかかってはこない。
「……お前、どういうつもりだ」
息苦しい沈黙のあと、低い声でつぶやかれたその響きに、蘇芳は弾かれたように顔を上げた。
「晴弥……!」
聞き間違えようもない、焦がれた声。姿は見えないままだけれど、晴弥はそこから立ち去ろうとはしないようだった。胸が締め付けられたように苦しくなって、蘇芳は浅く息を吐いた。
顔が見たい。触れたい。触れて欲しい。その腕に囲い込まれて苦しいほど抱きしめられたい。
蘇芳の中で一気に抑えていたものが噴き上がってくる。
どこからこちらを見ているのだろうか。何か話してくれれば、声で距離と方角が分かる。
晴弥が何も言う気配がないため、先に焦れてしまったのは蘇芳の方だった。
「あの、物盗り騒ぎ……あなた、ですよね」
口をついて出た言葉に、自分で内心舌打ちをする。責めているように聞こえてしまったら、怒ってどこかへ行ってしまうかもしれないのに、もっと何か別の話題はなかったか。
しかし、短い沈黙のあと、答える声がした。
「だったら、なんだ」
姿を現すつもりはないのだろうか。一目見たくて、声の聞こえてくる方角へ身体を向けた。
「近寄るな」
飛んできた声の厳しさに、蘇芳は胃の底がすうっと冷えるような心地になる。
「どうして……」
声ににじむ拒絶の色に、蘇芳は戸惑った。それほど嫌なら、どうしてわざわざ自分の所在を知らせるように声をかけてきたのだろう。
「それ以上近づけば、俺たちは第二性の方に否応なく引きずられる。お前も覚えているだろう、俺とお前は近づけば匂いで引き合ってしまう。……そうしたら、もうまともにものも考えられなくなる」
あの時がそうだっただろうと言外に含めて言われ、蘇芳は闇の中で顔が熱くなるのを感じた。確かに意識が飛ぶほど、記憶が曖昧になるほど、まるで自分が自分でなくなったかのような痴態ではあったと思う。
晴弥の匂いを思い出すだけで、腰が痺れるような感覚が起こりそうになって、蘇芳は慌てて頭を振った。近寄ったらまたあのように乱れてしまうとしたら、蘇芳も困る。触れたいと思ってはいるけれど、それと同じくらい、ちゃんと言葉を交わして、晴弥のことを知りたいのだ。
第二性の及ぼす力を全く考えてもいなかった自分に恥入りながらも、蘇芳はふとあることに気づいた。
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