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第1話

 こんなところで死んでたまるか。  曇天の夜。松明を掲げた異様な風体の大人たちに囲まれ取り押さえられたみすぼらしい少年は、金色の瞳を刃物のようにぎらつかせた。  解き放たれれば目の前のものが何であれ飛び掛かる獣────少年は正しく、手負いの獣に他ならなかった。  ◇ ◇ ◇  少年は探しものをしていた。  大切なものだ。少年が唯一、守りたかったものだ。それはある日突然少年の前から消えてしまった。隠されてしまった。  憤慨する少年は、しかし無力だった。  だから枷のようだったその場所から着の身着のまま逃げて、逃げて、駆けずり回って、探した。  金銭など持っていないから、腹が減っては盗み、逃げて、物陰で縮こまって眠り、また探す。町を移動する時は商人や傭兵の荷馬車に紛れ込み、小鼠のように立ち回った。  だがそんな生活が長く続く筈もない。  一度目の冬はどうにか越えた。だが二度目の冬はどうか。  夏の終わりに流れ着いた街は、冬の長い土地なのだろう、予想よりも秋が過ぎるのが早いと気付いた時には遅かった。  探し物をしている間に移動の機を逃し、街を移動する荷馬車の姿が途絶えてしまった。  今街にいる者たちは皆、ここで冬を越すつもりらしい。しかも、日に日に人通りが少なくなり、開いている店も減っていく。家々は固く戸を閉ざし、寒さと雪に備えていた。  自棄に浮浪者の少ない街だと思っていたが、それはこの冬のせいかと納得する。  家を持たない者がどれ程いようと、冬が来ればすべて無になるのだ。  死ねば、なかったことと同じ。  盗みを働く小鼠がちょろちょろとしていても、他の街程執拗に追われなかったのは、そういうことなのだろう。  何度か売り物を失敬した果物屋が、売れ残り傷んだりんごを二つ、放置したまま店を閉じたのは、死に逝く者への餞別か。  冗談じゃない、諦めてたまるか。  街を出ることにした。  街の外は危険だ。魔物も出るし、盗賊も出る。だが街にいても、食べるものも手に入らず飢えて凍えて死ぬだけだ。整備された街中よりも、外の方がまだ可能性があるだろう。  少年はごみ捨て場で拾ったボロボロの古い毛皮を纏い、刃の欠けたナイフを持って抜け道から街を出た。  降り始めた雪が、少しずつ景色を塗りつぶしていく。  一口、りんごを齧る。果汁は少なく、少しボケた味をしていた。  置き去りにされたりんごは、空腹に負け見つけたその時にひとつ、食べきってしまった。残りのひとつに、今後の命運がかかっている。  少年は懐にりんごを戻し、歩みを進めた。  朝に一口、夜に一口。  眠る時は風避けになる物陰で、草を見付けては掘り返して根を齧る。そうして進んでいる間に、いつの間にか、少年は灰色の森に迷い混んでいた。  見上げれば、分厚い雲。  立ち並ぶ葉の落ちた木々の枝は朽ちた骸のようで、酷く不気味だ。命の気配を感じられない。  これらは本当に、春が来れば再び芽吹くのだろうか。今目にしている姿からはとても想像が出来なくて、少年は立ち尽くしてしまう。  春が来れば。  春が、来れば。  春は、本当に来るだろうか。  いや、春は来る。世界のどこで、何が起ころうと、春は来る。ただそこに、自分はいないかもしれないというだけの話。  ぶるり、と体が震えた。寒さだけではない。死ぬかもしれない、恐怖。  何度も感じたことがある。父というものに殴られた。母というものに首を絞められた。腐った水を飲み、黴た食物を食い、吐く程追い回され、捕まれば鞭で打たれ、熱を出しても雨に晒され続け、その度にこのまま死ぬのではと思った。  だがこれはまた、何という、圧倒的な、無力感か。  自然の力を前に、この小さな体ではなす術もない。  落ちていく陽。元より分厚い雲の向こうの出来事ではあるが、時の移ろいは灰色の森を容赦なく黒に飲み込んでいく。  明かりになるものはない。今に己の手すらも見えなくなるだろう。  今日はこれ以上進めない。近場で風を凌げる場所を探さなくては。  どれ程うちひしがれようと、少年には立ち止まってはいられない理由があるのだ。  春になったら、また街に戻って、探しものをする。見付からなければ、次の街へ。  きっと、待っている。  あの子は、己に見付けて貰えるのを待っている筈なのだから。  こんなところで諦めていいわけがない。  生きるために動け。  動いて足掻け。  己に言い聞かせながら、少年は木の根元を掘る。  その木は根が大きく張り出していて、少し掘れば体を納めることが出来そうだった。  掘った土で根の隙間を埋めようと思ったが乾燥して水気のない土はボロボロと崩れてしまう。  すきま風は耐えるしかないか、そう思い顔を上げた少年は、暗闇の彼方に信じがたいものを見た。  明かり。  火の、灯りだ。  方向を見失い、街に戻って来てしまったのか。もしくはこんな森の中に、集落があるのか。  人がいなければ、あんな灯りは灯らない。  少年は吸い寄せられるように立ち上がった。  暗闇の中、姿勢を低く、手探りで障害物を避け、極力足音を殺しながら慎重に進む少年の姿は、誰かが見たら四つ足の獣と思うかもしれない。  進むにつれ、視認できる灯りが増えていく。  街ではない。  窓から漏れる灯りではなく、そのすべてが松明だ。集落、だろうか。建物はない。代わりに十あまりの天幕が、木々の合間を縫うように張られている。  一際大きな天幕には何頭もの馬獣が寛いでいるのが見えた。  商隊か?  いや、それにしては馬獣が多すぎる。  荷馬車も、人の力でも牽けそうな小さなものしかない。そもそも商人は、こんな森の中を通らない。 「ノマの民だ……」  街で、噂話を聞いた。 『ノマが素材を売りに来た、近くで冬を越すつもりかもしれない』と。  ノマの民とは、魔物の狩猟を生業とし、狩りをしながら各地を渡り歩く、どこの国にも属さない移動民族だ。  ルードと呼ばれるひとつの一団に、凡そ二十から三十人。それが各地に点々と散っている。  歴史上、幾度も彼らを自国に引き入れようとする動きが各国にあったようだが、その度に各地のノマが集結し、武力をもって抗ったという。  彼らは自由を愛する民だった。  敵意さえ向けなければ無害。それどころか人に害を及ぼす凶暴な魔物も狩り歩く彼らを、各国は不可侵として放置するようになった、らしい。  とは言え、彼らも人の身であるため冬の間は移動を控える。  比較的冬の短い土地の人里近くに構えた拠点に留まり、雪解けを待つのだという。  人里に現れるのは、狩った魔物の素材を売り、そうして得た金で移動生活では入手しづらい物資を買うためだ。  王都から離れる程、魔物は多くなる。魔物が頻出する辺境では珍しくもないノマの一団だが、冬が長いこの地の住人にとっては物珍しく、また歓迎しがたい客人だったようだ。  曰く、ノマの民は教養なく、野卑で野蛮な蛮族である。 「あの姿……まちがいない」  揺れる松明の灯りの中に、異様な風体の人影が見えた。  頭まで覆う土色の外套、そして顔を隠す魔物の骨の仮面。  話に聞いたノマの民の姿そのものだ。  人々はその不気味な姿を忌避し、侮蔑する。  仮面と外套に隠した姿は、酷く醜いに違いない。奴らこそが魔物で、その正体を隠しているのでは。  面白おかしく吹聴される噂話だ。  どうでもいい。  彼らが何者であろうと、あそこには食料がある。  馬獣の天幕のすぐ近く。高く積まれた木箱の中は、恐らく一団共有の物資だ。食料もきっとそこにあるだろう。  盗まなくては。少しでいい。ほんの二、三日生き延びられる分だけだ。  その先はまたその時に考える。とにかく今この時、この飢えを凌がなくては、少年には考えることが出来る先すらないのだから。  暗闇の中を、少年は静かに移動する。  逸る心を抑え木箱の周囲を伺った。一団全体の見回りをしている者以外、専用の見張りはいない。罠もない。  あまりに無防備で、無用心。  きっとこんな森の中、用心する程の相手もいないだ。  これなら、街中でスリをするより余程容易い。  少年は見張りが十分離れたのを確認して、そろりと木箱に近付いた。  武器、防具、魔物の素材、石材、建材に大量の薪、生活に必要な様々な道具と防寒具。暖かそうな毛皮に心引かれたが、今は何よりも食料だ。  それはすぐに見つかった。  加工された肉や魚、干した果実に木の実に茸、根菜や硬く焼いたパンは街で買ったものだろうか。今の少年には、それら全てが宝の山に見えた。  少しだけ。少しだけだ。  手を伸ばした、その瞬間。  ブルルッ、馬獣が嘶き、それとほぼ同時に暗闇から生えた腕が、少年の手を掴んだ。 「────っ!」  悲鳴を飲み込んだ少年は、己の手を掴むひとりのノマの男を見上げて立ち竦む。  近くで見ると、その姿の異様さがより際立った。  仮面の下の瞳が、赤く発光しているようにさえ見える。  男は少年を引き摺るように歩き、集団の中央で燃える焚き火の前に突き飛ばした。  そこには他にも複数のノマがいて、囲まれた少年は逃げ道を失う。 「冬籠りをし損ねた野鼠か」  ひとりが言った。 「鼠獣ならいいが、これは盗人だ」  別のひとりが言った。 「盗人の腕は切り落とす決まりだ」  更に別のひとりが言い、少年の腕を掴む。  聞き取った言葉に血の気が引き、少年は腕を振りほどこうと踠いた。  だが体も大きく力も強いノマには抵抗とも思われない。  少年はその手に噛みつき、拘束が緩んだ隙に走り出そうとしたが、その体はすぐさま地面に叩き付けられた。 「が……っ」  背中に体重をかけられ、呼吸が出来ない。  ちかちかと明滅する視界。  苦しい。痛い。怖い。右腕を伸ばされ、その上で刃物が煌めいた。  ふざけるな。  ふざけるな、そんなものは、怖くない。  例え腕を切り落とされても、少年はこんなところで死ぬわけにはいかなかった。  怖くない。  怯むものか。  合わない歯の根は食い縛ることで押し殺した。声は上げない。涙は流さない。  やるならやればいい、その代わり、隙を見せたらその喉笛に食らいつく。  手負いの獣の金の目は、刃物のように男たちに突き刺さる。 「────待て、長の判断を仰ごう」 「長はまだ帰らないのか」  男たちの中からそんな声が上がり、その直後、周囲がにわかにざわめいた。 「これは何の騒ぎだ」

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