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第2話

 篝火に浮かび上がるように現れたのは女だ。  恐らくは、年嵩の女。  その声に、少年の体が強張る。  少年は男が嫌いだが、女はもっと嫌いだった。特に、母となり得る年の女はより嫌いだ。  物理的以外の要因で呼吸が苦しくなり吐き気が込み上げる。  吐き出せるものなど、胃液くらいしかないというのに。  それを悟られないように、少年はひたすら息を殺した。 「長」「長」「長」  少年を取り囲んでいた男たちが、その女を長と呼ぶ。  風貌は他のノマたちと変わりはない。背は高く、長い外套、そして仮面。  男たちに比べてひとまわり小さいだけで、女であることも声を聞かなければわからなかった。 「長、盗人が出た。我らの食料に手をつけようとした」 「女神オルシュアの加護を盗もうとした」 「女神オルシュアは姑息な者を好まない」 「掟に従い、片腕を切り落とそうと思うが、どうか」  畳み掛けるような男たちの言い分に、女は大袈裟な溜め息を吐く。 「やれやれ……今日はいい狩りが出来たから、皆が喜ぶだろうと勇んで戻ったというのに、億劫な」 「長! オルシュアの掟は!」 「まあ待て、アクロ」  アクロ、と。  女が己の背後の暗闇に声をかけた。  ず……と、重たい足を引き摺るように暗闇が動き、そこから、怪物が現れる。  いや、違う。それは、怪物の巨躯を肩に担ぐひとりのノマだ。少年を取り囲むノマたちよりも、さらに大きい。 「お前はどう思う。次代の長として、お前の判断はどうか」  ドスン、肩から降ろされた怪物が微かに地面を揺らす。  巨大な、猪獣のような怪物。少年は知らなかったが、ムルムドという魔物らしい。 「……まだ、幼いこどもだ、長殿」  さぞ恐ろしい声を発するのだろうと思った男の声は、場違いな程穏やかだった。 「このような冬の森にわざわざ分け入り、我らを標的にするとは考えがたい。様相から察するに、やむを得なかったと見るべきだ」  これに噛みついたのは、いまだ少年の背に乗り上げているノマだ。 「子供であれば、やむを得ん事情であれば、罪は許されるのか」 「情状を鑑みるべきだという意味だ。オルシュアは無慈悲な女神ではない」  ゆるゆると首を振る男に、それでも背後のノマは不服そうだった。  改めて聞くと、後から現れた男に比べ、背後のノマは妙に幼く感じた。背丈は大分違うがもしかしたら、少年と大差ない年齢なのかもしれない。  彼らの言葉に、長と呼ばれた女は少し考え、やがて大きく頷く。 「いいだろう。焼鏝を持て」 「長殿」 「断臂(だんぴ)刑は免じる。だが無罪というわけにはいくまい。オルシュアの愛する火精でもって罪人の身を焼き、放逐することで処罰とする」  皆も、それでよいな。  女の口元は朗らかに笑んでいたが、有無を言わせない圧があった。  それぞれの不満を口にしようとしていた男たちは口をつぐみ、頭を下げる。  処罰はすぐに下されるらしい。  少年は膝で立たされ、両腕を男たちに拘束された。  ボロボロの毛皮は剥ぎ取られ、その拍子に、もう殆ど芯しか残っていないりんごが転がり落ちたが、それを気に止める者はいない。  いつぞやのごみ捨て場で拾った大人用の服を被っているだけの少年は、少し襟首を引かれるだけで薄い肩が露出する。  鞭の跡や細かな傷が多く残る少年の肩には、肉が殆どついてなかった。  こんな肩では、骨まで焼けてしまうのではないか。  その場にいた誰もがそう思い、しかし口にはしなかった。  アクロと呼ばれた男が少年の前に膝をつき、口元に清潔な布を近付ける。 「……これを。噛め、舌を噛まないように」 「…………」  偽善者め。  その男の指ごと噛み千切るつもりで布に噛みつき奪い取った。  腕を押さえている内のひとりが──先程少年の背中を潰していたあのノマだ──その腕を捻り少年の頭を強く下げさせる。 「こいつ……!」 「よせ、折れてしまう」 「折れたら何だ、こんな体じゃ、どうせすぐに死、」 「カウル!!」 「何だよ! こんな罪人がどうなろうと知ったことか!」 「決められた刑罰以上に罪人を痛め付けることは、オルシュアの望むところではないね、カウル」  女の声。少年を押さえつける力が弱まった。  少年の背後で焚き火に鉄の棒を入れている女はやるせなさの滲む低い声をぽつり、ぽつりと落とす。 「お前は今、十五だったか」 「それがどうした」 「お前は、飢えを知らない」 「…………」 「飢えは、人間の尊厳を容易く奪うぞ。お前が掘り返した草の根を食らう時、馬獣を潰しきり、弱った家族の肉を食らう時、このこどものような強い意思を、いつまで持っていられるだろうな」  女は火の中から鉄棒を引き抜いた。 「名も知らぬ子よ。お前は我らに対し、一度として許しも、情けも乞わなかった。……敬意を表する」  ◇ ◇ ◇  こどもは、声を上げなかった。  気を失ったこどもの口から取り出した布には血が滲んでいる。歯を食い縛りすぎて、歯茎が傷んだのだろう。  カウルは何も言わなかった。こどもから目を背け、馬獣の元へ行ってしまった。  あの子はもっとずっと幼い頃から、何かあると馬獣の世話をして心を落ち着けようとする癖がある。  きっと今回も、彼らが宥めてくれるだろう。 「長殿、この子の手当てをしても構わないだろうか」  肩を焼かれたこどもは浅い呼吸を繰り返している。  とうに限界だったのだろう、その体は熱を持ち始めていた。  抱き上げれば、羽のように軽い。 「いいよ。いいけど、その後に関与してはいけない。放逐までが刑罰なのだから」 「……わかっている。わかっているが……」  こどもの毛皮から転がり落ちたりんごの芯が、視界に入る。  痛ましさと、幼い頃に味わった耐え難い飢えの記憶に胸が締め付けられるようだった。  今でこそ安定して狩りを行えているが、過去に数年間、魔物の数が激減したことがあり、その頃のノマの民は皆、地獄を味わっている。  飢えは恐ろしい。  叶うなら、未来あるこどもたちに、あんな思いはして欲しくない。 「この状態のこどもを放逐するのは、見殺しにするのと同じではないか……」  長の決定は絶対だ。刑は覆らないだろう。それでも言わずにはいられなかった。 「罪人をルードの中には置いてはおけん。かわいそうだがな。アクロ、お前が連れていけ」  見張りの目の届かない場所までだぞ。  妙に強調された長の言に、男は顔を上げた。 「すぐ目の前で倒れられては、見張りも目覚めが悪いだろう」  長の口元は弧を描いている。仮面で見えないその目は、悪戯っぽく笑っていることだろう。  男は胸に抱いた小さな体を、傷に障らないよう慎重に抱き締めた。 「……わかった」  ありがとう、とは口にしない。  折角の建前を、台無しにするわけにはいかなかった。

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