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第4話

 頭がぼうとする。  全身が熱くて、重たい。体のどこかがひどく痛い気がするが、熱さのせいでそれがどこなのかわからない。  自分はまたへまをして、鞭で打たれでもしたのだろうか。  ここがどこなのかはわからないが、早く目を開けなければ。立たなければ。  盗られるものなど命しかないが、中にはこの貧相な体に欲情する奴もいる。あれらの方が厄介だ。  貧乏人は対価を払おうとしないし、金持ちは囲い閉じ込めようとする。自由を奪われては目的を果たせない。  ならば少年にとって、それらには何の価値もない。  目をこじ開けようとするが、体は言うことを聞かなかった。  それでも立たなければ。  あの子を──妹を探さなければ。 「……目が覚めたのか、少年」 「っ!!」  唐突に、間近から聞こえた男の声。少年は反射的に跳ね起き、距離を取ろうとした。だがすぐに背中と後頭部を何かにぶつけ、肩の異様な痛みに崩れ落ちてしまう。 「すまない、驚かせるつもりはなかった。まだ動いてはいけない、火傷が痛むだろう」  痛みに悶えながらも少年は自らの状況を把握しようと努めた。  肩の痛みは、焼鏝を当てられた火傷。  熱は、傷を負った時に出る、いつもの奴。  ここは、どうやら大木の根元の(うろ)。枯れ草と柔らかい毛皮を敷かれた上に眠らされていた。  虚を覗き込む仮面の男は、声から察するに、アクロと呼ばれていた、あの男だ。  男は少年に手を伸ばしかけ、しかし躊躇っている。  警戒心の強い少年には、そうするだけで負担になるとわかっているのだ。 「何もしない、これ以上は近付かない。だから落ち着いてくれ、まだ熱が高いんだ」  男はこの手負いの少年を興奮させないよう極力ゆっくりと、低い声で言い含める。  少年は男に構わず震える体を起こすが、足に力が入らず立つことが出来ない。  尻餅をついて肩で息をする度、火傷で引き攣った皮膚が裂けるように痛んだ。 「ぐ……うぅ……っ」  歯の隙間から漏れる呻き声は、痛みよりも寧ろ、威嚇する獣のようで、男は途方に暮れてしまう。 「もしかして、言葉がわからないだろうか」  男はこれまで、少年が意味のある言葉を発しているのを聞いたことがない。  ノマの民は基本的に、共用言語を使う。元は独自の言語があったが、各地を渡り歩いている内に混ざり合い、訛りのある共用言語になったのだ。訛りがあるため人によっては聞き取りづらく、そもそも共用言語に馴染みがなければ、会話は不可能だ。  男はそれを心配したが、少年は荒い息の下、白けたように鼻を鳴らす。 「ばかに、するな。ことばくらい、わかる」  刺々しいが、男にとっては初めて聞く少年の言葉だ。  言葉を交わせたことに安堵の笑みが浮かぶ。 「そうか、よかった。私はアクロという。君の名前を教えて貰えるか?」  少年は答えない。  男を睨み付けながら、木の壁に当たるまでじりじりと後退する。  目線を走らせ、唯一の武器であったナイフを探すが見つからない。あのボロの毛皮も。  取り上げられたのか。 「おれを、どうするつもりだ」  殺すのなら、捉えた時にしていただろう。だがそうはされなかった。  肩を焼くのは、罰だと言っていた。  それから、もうひとつ。  初めて聞く言葉だったが、それがまだ、済んでいないのだろうか。 「ほうちくって、なんだ。おれに、なにをさせたい。アンタにあしでも、ひらけばいいのか」  言ってから、少年はびくりと体を縮こまらせた。 「────、」  そこにいる男の体が、一瞬、恐ろしく膨らんで見えたのだ。  怒っている。  この男は今、怒っているのだろう。  カタカタと勝手に震え出す肩を叱責するように強く掴む。  ぐずり、と皮膚が抉れる感触がした。  不快だった。  痛みを上回るそれに、爪を立てて掻き毟りたくなる。  だがそうする前に、ぬう、と伸びてきた男の手が、少年の手首を掴み上げた。 「よせ」  先程までの男は、もっと柔らかい声をしていた。  近寄らないと言ったのに、虚の中に入って来た。  掴まれた手首は振りほどこうにもびくともしない。  ────怖い。  怒っている大人は、怖い。  力では絶対に敵わない。逃げ場もない、武器もないのに、どうしたら。どうしたら。 「……ゆっくり息を吐け。全部吐いてから吸うんだ。ゆっくりだぞ」  元の声色に、戻った。  少年は、浅く吸いすぎた息を言われた通りに吐き出す。吸って、また吐く。何度か繰り返し、まともな呼吸が戻って漸く、手首を解放された。 「……肩を見せろ。手当てをし直す」 「…………」  少年は逡巡したが、男の冷たい声を思い出し、抵抗はしなかった。  怖かった。  今までだって怖い思いは沢山してきたのに。怖くても、怯みさえしなければいい、そう思って、虚勢を張り続けてきたのに。  あまりに呆気なく、その虚勢を剥がされてしまった。完全に飲まれた。怯んでしまった。  その事実に、少年の心がぼろぼろと崩れていく。 「……放逐とは、特定の共同体、今回の場合は我らのルードから、追い出す、という意味だ」  肩の手当てをしながら、男は静かに口を開いた。 「ここは、我らの拠点の外だ。つまり君への刑は既に執行され完了している。君を匿っているのは私の個人的な行動で、そこに君の言うような……下心は、ないと誓おう。目の前で死にかけているこどもを放っておきたくないだけなんだ。信じて……貰えないかもしれないが」  男の声は聞こえているが、水の膜を通したように遠く感じる。  耳鳴りがうるさい。頭をぐわんぐわんと揺らされているようで、気持ちが悪い。  体は、きっと燃えているのだろう。このまま燃え尽きて、灰になるのだろうか。  もう、眠ってしまいたい。  少年がうつらうつらしているのを見て、男はそうっと微笑んだ。 「春までは、ここでやり過ごすといい。水と食事は提供しよう。少なくとも、ひとりで森を彷徨うよりはずっと安全だ」  手当てを終え、少年の横に水の入った皮袋を置いた男は、虚を出る。 「後で食事を持ってくる。休んでいてくれ」  朦朧とした視界に、離れていく男の背が映り、少年は漸く、体の力を抜くことが出来た。  眠ろう。  こんなの、よくあることじゃないか。  眠ればきっといつものように、すぐに回復する。  強く抱えた膝に顔を埋め目を閉じた途端、少年の意識はストン、と暗闇に落ちていった。 「……怖がらせて、すまなかった」  落ちていく最中に聞こえた、冷たくはない、ひどく陰鬱なその声に、ちくりと。どこかが痛んだような気がした。  きっと、夢だ。  ◇ ◇ ◇  ガン、と。  少年から十分離れた場所で、アクロは仮面に覆われた己の額に拳を打ち付けた。 「私が、怖がらせて、どうする……」  ただでさえ警戒心の塊だったあの子にトドメを刺してしまった気がする。  殺気立っていた筈の少年が一瞬で萎縮してしまった。  抵抗がないお陰で手当てはしやすかったがそういう問題ではない。そんなつもりはなかった。完全にやらかした。  だが、許せなかったのだ。  こどもに、あんなことを言わせた周囲の大人たちが許せなかった。  その感情を抑えられなかったのは、未熟だったとしか言いようがない。  ノマの民は、同じルードの仲間を家族と呼ぶ。  正確にはルードは複数の家族で構成されているのだが、血縁の有無は重要ではない。  皆、苦楽を共にする運命共同体だ。  誰かの家に子供が生まれれば、それはルードの子。ルードの全員で面倒を見るのが当然だった。  子は愛し、慈しみ、育み尊ぶべき存在ではないのか。  内地の人間は、あんなに幼いこどもの尊厳を、踏みにじることが出来るのか。 「否、否、わかっている。そんな人間ばかりではない……」  どこにでも、ノマの中にでも、肉体という器の中がよいモノに満たされた人間もいれば、よくないモノに巣食われた人間もいる。どちらかに片寄らない人間も勿論いて、そういう人間は、存外に多い。  人間の性質は一概に語られるべきものではないのだ。わかっている。  それでも、それでも、それでもだ。  誰かいなかったのか。  あの子に手を差しのべる誰か。  あの子があそこまで頑なになってしまう前に、守ってやれる、誰か。  そう、考えてしまう。  無意味なことだ。現実に、見返りのない親切を知らない少年は、ぼろ布のような姿でここにいる。  彼が晒された不条理の根は、強く複雑に、彼に絡み付いてしまっていた。  アクロは細く長く息を吐き、分厚い雪雲が覆う空を仰ぐ。 「……食事は、食べてくれるだろうか……」  不安でしかない。

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