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第10話

 吹雪は、三日経って漸く止んだ。  その早朝、早目の朝食を揃って終えた後のこと。 「今は止んでいるが、またすぐ吹雪くだろう。今の内に狩りに出る」 「こんなに積もってるのに」 「こういう吹雪の切れ間に現れる魔物がいるんだ。場所の目星は付けてある、問題ない。狩りの後は先にルードに戻るから、こちらに来るのは遅くなるかもしれない。それに……」  身支度を整えたアクロは、寝床に座っている少年を見て言葉を濁した。  それに、本格的に吹雪いたらここへ来ることも叶わない、ということだろう。 「火の使い方、覚えたし。アンタが持ち込んだ食料もあるから、おれは平気」 「……せめて熱が下がり切るまではと思っていたんだがな……」  アクロは諦めたように吐息し、腰帯から取り外した小型のナイフを少年に渡す。 「食材を扱うにも、刃物はあった方が便利だろう。君もナイフを持っていたし、扱い方はわかるな? くれぐれも気を付けてくれ」 「いいの?」 「本当はよくない。怪我をしないか心配だ。が、私がここへ来られない可能性を考えると仕方がない」  これを少年に渡すことで、アクロが不便をするのでは、という意味で聞いたのだが、余計な気回しだったらしい。  アクロは体を屈め、少年の頭をくるりと撫でた。  こつ、骨の仮面が、額に触れる。 「君に、オルシュアの加護があらんことを」 「……そういうのって、普通、見送る方が言うんじゃないの」 「君が言ってくれるのか?」 「おれは、神様なんて信じない」 「ふ、君はそれでいいさ」  後ろ髪を引かれるような様子ではあったが、時間が惜しいと雪洞を出て行くアクロの背を見送った少年は、手の中のナイフを見て低く唸った。 (キヲツケテ、くらい、言えばよかった、かな)  人を見送る言葉を口にしたことなんて、一度もなかった。  雪洞の中は静かだが、採光窓や換気口から外の様子はある程度伺える。  轟々と鳴る強い風が、吹雪を連れて来るのはあっという間だった。  外はまだ十分明るい。  恐らくまだ、昼を回ったくらいの時分だろう。  常であれば昼食の準備を済ませたアクロに起こされる頃合いだ。習慣で勝手に目を覚ました少年は、よろよろと起き上がり、採光窓から外を覗く。  想像通り、荒れ狂う白が周囲の景色を完全に塗り潰していた。  こんな吹雪の中では、一歩先さえ見えないのではないか。そう思ったら背筋が冷えて、少年は慌てて毛皮にくるまった。  寝床に戻って丸くなる。 (あの子は、今頃どうしているだろうか。ちゃんと暖かい場所で、安全に過ごせているだろうか)  自分の体調が安定し余裕が出来てくると、考えてしまうのはどうしても妹のことだ。  少年が泣いてばかりの母親を嫌っているのを知って、涙を堪えるようになってしまった泣き虫な妹。  これまで、何の手がかりも掴めていない彼女は今どこで、どんな風に過ごしているのか。誰といるのか。元気でいるのか。心配で堪らなかった。 (……心配、と、いえば)  もう一度小窓を見上げる。  ここからでは入ってくる明かりしか見えないが、外は相変わらずだ。  風の音は弱まるどころか、更に激しくなってさえいる。 (狩り、終わってるよな……もうルードに帰ってる、よな……?)  外がこんな様子では、きっと今日はもう彼は来ないだろう。  それはいい。  この雪洞と、彼が置いていった物資がある限り、少年の安全は当分の間保障されているのだから、ひとりでどうとでもなる。  だが、吹雪の中にいる、彼は。 (あいつだって、もうルードの雪洞にいる、筈)  アクロがここを出て、もう何刻も経っているのだから。  冬の過ごし方に慣れた男だ。内地の人間より寒さに強い体でもあるらしい。狩り場の目星は付けてあると言っていたし、きっともうとっくに狩りを終えている。例え獲物を狩れずとも引際は心得ているだろう。心配するだけ無駄だ。 (何でおれが、あいつの心配、なんて、しなきゃいけないんだ)  ぎゅ、と強く膝を抱えた。  いや、でも、大人のくせに、お人好しでちょっと抜けてるところがあるあの男が悪いと思う。  雪洞を造っている最中にずるずると崩れ落ちるのを見た時は、本当に死んでしまったかと思ったのだ。  後から聞いたら一日半、ほぼ休憩もせずにルードとここで雪洞を造っていたというのだから呆れる。  こんな季節に徹夜までして。正気の沙汰とは思えない。  ルードを大切に思っているのはわかるが、それならこちらは手を抜けばよかったのに。 『そんなことをしたら、君が凍えてしまう』  それはそうなのだが、それがこの男に何の関係があるのか。  彼が己の身を削ってまで少年を優先する理由が、少年にはわからなかった。  大人はずる賢くて身勝手な生き物な筈なのに、どうして。  理解出来ない。  理解出来ないものは、怖い。  怖い、筈なのに。四六時中彼が側にいたこの三日間、少年の眠りはかつてない安堵の中にあった。  少年が横たわる寝床の側、手の届く距離にずっと彼はいて、少年と同じように、そこで眠る。  それがまるで、守られている、ようで。  このひとがいれば怖いものなど何もないのだと、教え込まれているようで。  不安になる程、安堵した。 (いやだな……)  守られていていい立場では、ないのに。  少年は、妹を守らなければならない。少しでも早く探し出して、守りにいかなければ。  それなのに、期待してしまいそうな自分が、嫌だ。  かつて与えられなかった庇護を、この男に求めてしまいそうな自分に吐き気がする。  脳裏に、あの女の気持ちの悪い笑みが甦った。ぞわりと鳥肌が立つ腕をさする。  期待なんかするな。  何も求めるな。  他者は他者を奪い貪るものでしかない。与えられるのは気まぐれの施しで、春に降る雪より儚い幻だ。  あの安堵に、慣れてはいけない。  少年は寝床を漁り、ナイフを握る。使い込まれた持ち手。鞘を外せば、美しく研がれた刃がぬらりと姿を現した。  結局、信じられるのは自分だけだ。  自分だけでいい。  鞘に戻したナイフを懐に抱き、再び膝を抱えて目を閉じる。  ────ガサッ。  どれくらい、そうしていたか。  顔を上げたが、周囲は既に暗闇で何も見えなかった。  ガサッ、ガサッ。  風の音に紛れて聞こえる、雪を掻く音。  自然の音、ではない。  少年は手探りで、ナイフを握り、鞘を外す。  変わらず吹き荒れる吹雪の中、人が来るとは思えない。  ならば獣か、魔物か。  魔物避けの香は雪洞の中に焚いていたが、その分外には広がり難く、またこんな吹雪では微かな香りなど吹き飛んでしまうだろう。  ガサ……、一瞬音が止み、次には通路を通って来た、何かが。 「少年っ、怪我をしたのか!」 「…………ぇ?」  暗闇に慣れてきた目が、見慣れた人影をどうにか捉えた。 「今火をつける、じっとしていろ」  言うが早いかかまどに火が灯り、雪洞の中を淡く照らす。  火に照らされ浮かび上がった人影──アクロの姿は雪まみれだった。 「なんで……外、まだ吹雪いて」 「そんなことはいい、どこを怪我した、見せてみろ」  何のことを言っているのかわからなかった。  アクロは少年の側に膝を付くと、ナイフを握る左手に己の手をそっと重ねる。  そうされて初めて少年は、自分の手が震えていることに気付いた。  誤魔化すように、首を振る。 「怪我なんか、してない」 「血の臭いがする」  強くナイフを握るが、その指はやんわりとほどかれ、ナイフは結局取り上げられてしまった。  それは、困る。  手を伸ばそうとしたが、アクロの硬い声に叱られているような気がして、動かしかけた手を引っ込めてしまう。  アクロは少年が握ったままの鞘にも目をやって、小さく吐息を落とした。  鞘を握った指から、血が流れている。  気付かなかった。手探りで鞘を抜き払った時に、刃が当たってしまったのだろう。 「驚かせたな、すまなかった」  傷口に布を当てられ、肩に響かないようゆっくりと手を上げるよう指示される。 「血が止まるまで強く押えて、傷口は心臓より上に。そう、そのままで」  ぱちん、とナイフを納めたアクロは通路の奥に姿を消してしまった。  まさか、と。  まさかまた、この吹雪の中を出ていくのだろうか。  どうして。  扱いに気を付けろと言われていたナイフで、怪我をしたのを怒ったのだろうか。  呆れて、面倒になったのだろうか。  殆ど無意識に寝床から立ち上がった少年は、しかし雪洞の真ん中で立ち尽くしてしまった。  どうしよう。  どうしたいのか、自分でもわからず呆然としてしまう。  追わないと。  何を言うべきかもわからないのに、追ってどうする。  そもそも、自分が何かを言ったところで、一体、何に。 「どうした、立ち上がって大丈夫なのか」 「…………っ」  ひく、と肩が揺れて、火傷が引きつった。  ふらついた体を、通路から戻って来たアクロに支えられる。 「ほら、無茶をするな。あと手、上げていろと言ったろう、いつまでも止まらないぞ」 「……お、こって、出ていった、のかと、思って」 「怒る? 私がか?」 「外、吹雪、ひどいから、ぁ、あぶな」  言い切る前に、少年の体はアクロに抱き上げられていた。  そのままかまどの前に連れて行かれ、腰を下ろしたアクロの膝の上に乗せられる。慌てて降りようとしたがそれよりも早く、胴に絡み付くアクロの腕に阻まれた。 「心配してくれたんだな、ありがとう」  とん、とん、と背中を叩かれる。  こんな仕草で、赤ん坊をあやす大人の姿を見たことがある、ような気がした。  自分は赤ん坊ではないと言いたかったのに、何故か息が詰まり、言葉が出ない。 「君の言う通り、外はひどい吹雪だったから、さっきの私は雪まみれだったろう? それを払いに行っただけだよ。何も言わずに行ってすまなかった」  とん、とん。  ゆるやかな心音の速度。  もうずっと早鐘のようだった少年の心音も、宥められていくようだった。  ────ああ。  もう無理だ。  手遅れだ。  とっくに、手遅れだった。  見捨てられたかもしれないと思っただけで、あの場所から一歩も動けなくなった。  この世界にたったひとりで、取り残されたような気分になった。  この男が与える安堵は毒だ。  少年が欲しかったもの。圧し殺し続けた、憧れ。焦がれた分だけ傷が深くなると、焦がれることすら捨てた毒。  決して飲み込んではいけない毒だった。  もう吐き出せない。  吐き出したくない。  毒はとっくに全身に回って、抱き締められただけで目玉が溶け出してしまいそうなのに。  今更これらを、吐き出すのなら。  きっともう、血肉のすべてを吐き出さなければ意味がない。  そうしてその後に残るのは、空っぽになった脱け殻だけだ。  少年は、アクロの肩にしがみつく。  外套のない、いつもよりずっと近い肩。顔を埋めれば、普段は外套の下に隠されている黒褐色の髪が頬を擽った。  背中を撫でていた手が頭に添えられて、するり、するりと髪をすく。  本当に、どうしてこんなことをするのだろう。  どうしてこんな、ひどいことを。  毒を呷った獣はただ踞り、死を待つしかないというのに。

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