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第11話
抱き寄せた少年は、声もなく泣いている。
アクロは途方に暮れて、中空を仰いだ。
狩りは、首尾よく片が付いた。
標的はピュリエンと呼ばれる白い巨蜘蛛だ。
普段は人間が入れない狭い洞穴の奥深くに住み、冬場、吹雪の止む間にだけ地上に姿を現す。
凶暴な性質ではないが、増えすぎると洞窟に住む獣や魔物を端から食い散らかしてしまうため、ある程度の駆除が必要な魔物だ。
獲物としても、ピュリエンは価値が高い。
可食部は少ないが、加工をすれば嵩張らない携帯食料になり長期保存が可能だ。
また白磁のように美しい爪や牙は素材として需要が高く、内臓は薬の原材料になる。
アクロは普段から狩りに対して意欲的な方ではあるが、この狩りに関しては尚積極的にならざるを得ない理由があった。
(そろそろ備蓄が心許なくなってきたからな)
ピュリエンの粉剤は、少年に与えているあの薬にも使っているのだ。
ルードの物資は共有の財産だ。それを私情で使っている以上、アクロは普段以上の働きをしなければならない。
そうして積み上げた哀れなピュリエン、十三匹。
頭だけで大人の手のひら程の大きさの蜘蛛だ。それだけ積み上げられればなかなかの絵面である。
(やりすぎたか? いや、罠にかかっていたのが予想以上に数が多かった。全体の数が増えているんだ……)
例年であれば罠と合わせて五匹も確保出来れば上々なのだが、今回は罠にかかっていたピュリエンだけで九匹。更にその周囲をうろついていた四匹を仕留めて合計十三匹だ。
(よくない兆候でないといいが)
持ち運び易いよう一匹ずつ縄で括り、ルードへ帰還するのだった。
ルードには、長く留まるつもりはなかった。
職人や料理番、子供たちと協力して獲物の解体処理を行い、雪洞に不具合があれば修繕し、雪かきやその他の力仕事をした後は、少年の許に戻るつもりだったのだ。
しかし状況がそれを許してくれなかった。
やるべきことを終え、酋長に狩場の状況を報告している間に、再び吹雪き出してしまった。
その上狩人の殆どが出払ったままで、ルードは明らかに人手不足。
流石に、少年のところへ行くのは諦めるべきかもしれない。そう思いながらも気は急き、ジリジリとした時間を過ごして、夕刻。
立て続けに、数人の狩人が帰還した。
────僥倖だ。
帰還した狩人の中にはカウルもいた。彼の持ち帰った獲物の解体を手伝いながら、夜が更けたらルードを空けることを密かに告げる。その間はルードを頼むということも。
「こんな吹雪では、俺たちにはもう何も見えないさ」
吹雪は更に強くなっていた。
好きにしろ、ということだろう。礼を言おうとしたが、首を振られる。
「アクロ兄の目なら大丈夫なんだろうが、それでも危険には違いない。気を付けて」
アクロは頷き、礼の代わりに彼の背中を強く叩いた。
そうして少年の雪洞へと戻って来たのだが。
どうにも少年の様子が可笑しい。
怪我をしてしまったことは、心配ではあるが、まだいいのだ。
だが────。
「君の泣き方は、心に来るな……どうしたら泣き止んでくれる? 私に、して欲しいことは?」
少年が顔を埋めた肩が濡れていくのを感じながら、小さな頭を撫でる。
何が原因なのかはわからない、だがアクロのしたことで、少年のやわい部分に傷を付けてしまったことは多分、間違いない。
先程、雪洞の中央で立ち尽くしていた少年の姿を思い出す。
あれは、頂けない。
親とはぐれた迷子であっても、あれ程空虚な顔はしないだろう。
諦観。
自分に起こる不条理のすべてを飲み下すことに、少年は慣れてしまっていた。
あんな顔は、子供がするべきではない。
させてはいけなかったのに。
「アンタは、おれを、どうしたいんだ」
くぐもった声。
顔を見ようと思ったが、肩にしがみつく手に力が篭ったので、そのまま耳を傾ける。
「きらいだ、アンタなんか」
「────……」
「大きらいだ、どっか行け、もういやだ、こんな、苦しいの、いやだ、いらない、おれはいらない、何もいらないのに、与えようとするな、勝手に、入ってこようとするな、じゃまなんだ、じゃまをするな、おれは、ひとりで……ひとりで、へいき……」
氷柱からから滴る雫のような少年の独白は、次第に細く消え入り、最後にはしゃくり上げる声に代わった。
ああ、そういうことか、アクロは瞑目する。
この子は今まで、ひとりで生きてきた。
これからも、ひとりで生きていくのだろう。
だが幼い子供がそうするためには、知ってはいけないものがあった。
例えばそれは、人の温もりだとか、寂しさだとか、そういう類いのもの。
アクロはそれを与えてしまった。
こどもがひとりで生きていくのに邪魔なものを、教えてしまったのだ。
だが、それでも。例えそうなのだとしても。
あの時、こどもを助けたのは間違いではなかったと、要らないと言いながらしがみついてくる彼に思う。
「君はまだ、こういうものが、特別だと思ってるんだろう」
本来であれば肉親から与えられて然るべき愛情というものは、少年にとって、夢物語のようなものなのだろう。
与えられたことがないのだから、当然だ。
世界は彼に冷たく、厳しく、また無関心だった。それが彼の世界だった。
アクロはそこにひとつ、小さな染みを落としたのだろう。
まっさらな雪原に落とした、一雫の血のように。
ああ、ならばアクロには責任がある。
世界は冷たく、厳しく、無関心なものだけではないのだと、彼に、知らせる必要がある。
人は、愛されていいのだ。
「君が、それを当たり前に受け取れるようになったら、それに縋らなくても、立っていられるさ」
今はまだ手離し難くても、大丈夫だ。
そろりと肩から離れていく少年の顔を覗き込む。腫れた目元が痛々しい。
「ほ、ほんとに……」
「ああ」
「こんなに、くるしい、のに」
「今だけだ。その内それは、温かいものになる」
少年は自分の胸に手を当てて、困った顔をしている。とても信じられないのだろう。
「心配することはない。焦る必要もな、大丈夫」
濡れた頬を手のひらで拭い、くしゃくしゃと少し強めに髪を掻き回した。
「今はただ、私に愛されていればいい」
「…………」
ぎゅ、と少年は顔を歪めて、ぽろりと新しい涙を落とす。
蜂蜜がこぼれてるみたいだな、と思った。
もう一度肩に抱き寄せ背中を叩いてやれば、少年はぐずるように小さく唸る。
「どうした?」
「……おれ、き、きらい、て、言った」
「ああ、まあ、仕方がないな。私は君にひどいことをしたのだろうから」
「ち、ち、がう、うそ、ちがう、きらい、じゃ、ない」
「別に、嫌っていても構わないさ。私が君を甘やかすのには何の障害にもならない」
「きらいじゃ、ないって言っ」
がばっ、顔を上げた少年は、間近にある骨の仮面、その奥の瞳と目が合って、続く言葉を飲み込んだ。
「ふ、泣き止んだ」
少年の口は暫く、開いて閉じてを繰り返していたが、やがてふにゃりと眉を下げて俯く。
「お、おこって、」
「ない。ついでに言っておくが、怪我をしたことも怒ってない。心配はしたが。指、どうだ? もう血は止まってるだろうな?」
少年の手を取り、血が染みた布を慎重に外したアクロは、指先に走る傷を確認してほっと安堵の息を吐いた。
「血も止まってるし、そんなに深くはなさそうだ。この分なら縫わなくてもいいだろう」
「……ぬう?」
「傷が深かったら、な。今回は大丈夫だが、刃物を使う時は気を付けてくれ」
そうして手当てをしている最中も、少年はずっと「縫う」という言葉を気にしているようだった。
今後は刃物の扱いも十分に注意を払ってくれるに違いない。
「そういえば、火を使った形跡がなかったが、食事は? 何か食べたか?」
「……えっ……と……」
「…………少年」
「ほとんど、寝てたから……その……」
「まだ目を離すには早すぎたか……ああ、怒ってないからそんな顔するな。いや待て、違うな、ここは、怒るべきだった。怒る……うん、難しいな」
噛み付いてくる子供を叱るのは慣れているが、叱る前からしょんぼりと項垂れている子供にはどうしたらいいのか。
これが演技であればまだやりようもあるのだが、今この時に限っては絶対に違う。
「やはり怒るのは次からにしよう。勿論、そんな機会はないに越したことはないが、今回は、私の見通しも甘かったからな」
アクロは少年の額を指でつつき、顔を上げさせた。
不安げな顔。
目元がまだ腫れていて、一層憐憫を誘う。後で冷やしてやらないと。そう考えながら頬を包んだ。
出会った頃に比べれば、丸みを帯びた子供らしい輪郭。
手のひらを滑らせたそこを、むにり、とやわく摘まむ。
「ぅ……?」
「あまり心配をさせるなよ。次はちゃんと叱るからな」
「…………うん」
少年は素直に頷いた。
今はその返事を信じよう。アクロは少年の頬から手を離し、その頬をもっと肥やすべく食事作りに勤しむことにした。
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