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第26話

 スムーの痕跡に導かれ、アクロとカウルがたどり着いたのは深く続く洞穴だった。  入り口がわかりづらかったのは、敢えてそのように擬装しているように思えた。元々人目につかない入り口を、誰かが意図的に隠している。そんな印象だ。  中へ入ってみれば何の変哲もない洞窟に思える。だが薄暗がりの中光る獣の目を慎重に追えば、やがてその異常性に気付いた。  岩壁が、仄かに発光している。  それも、進む程明るくなっていくのだ。 「ここは、源脈か」  柔らかい淡緑に発光する岩肌を唖然と見上げるカウルに、アクロも僅かに緊張した様子で頷いた。 「そのようだ。それも、源洞に程近いのだろう」  活発な精氣に磨かれ発光する自然物は見たことがあるが、暗闇の中、精々手元がぼんやりと見える程度の明るさだ。この場所のように、空間の全容が見通せる程の光源になるなど俄には信じがたい。それだけ、精氣の発生源たる源洞に近いのだ。  アクロもカウルも、源洞を見たことはない。ノマの民にとって、源洞は禁域に等しい。長い旅の途中で遭遇することはあっても、必要以上には決して近付かない、畏怖の対象だ。  他の生物も、本来であれば好んで近付く場所ではないはずだが、スムーの誘導には迷いがなかった。二人の視界に入るギリギリをかすめるように素早く移動していく。  急いでいる。それがわかる。  言い知れぬ焦燥に、胸を掻きむしりたくなる衝動を抑えつつ、カウルは前を駆けるアクロの背を追った。  自分でさえ、こうなのだ。アクロの心境はいかばかりか。  少年の行方がわからなくなってから、アクロの纏う空気が重くひりついている。  狩りの時とは違う緊張感。  恐らく彼は今、憤っている。  穏やかなひとだ。アクロが怒りを露にしているところを、カウルは見たことがなかった。子供らを叱るのは、違うだろう。無理な狩りを行い怪我をした狩人には、心配と悲哀が勝る。  怒りとは、自我だ。  生物が持つ最も強い感情の根底にこそ、自我がある。  自我を持たない人間はいない。即ち、怒りを持たない人間はいない。当然、アクロとて例外ではない。  ない筈なのに、カウルはどこかで、アクロが本当の意味で怒ることなどないと思っていた。  彼は常に支柱のようにルードの中心にいて、家族らを見守っていた。我欲少なく優秀で敬虔、分け隔てなくみなに優しく、穏やかで、献身的。彼はまるで、完璧なノマ、そのものだった。  完璧だと、思っていた。  それは最早、神のように。  そんなことが、ある筈はないのに。アクロは人間だ。そんなことがある筈はない。本人も言っていたじゃないか。完璧であるように装っていただけだと。  怒らないわけがない。大切なものを傷付けられれば、誰だって。  あんな風に、踏みにじられれば。  誰だって。  獣に導かれた先には、ダグがいた。そして少年も。  ダグが、少年に何をしようとしているのか、考えるまでもなかった。反射的に矢をつがえる。  度しがたき卑劣漢め!  憤りの矢が放たれるよりも速く、アクロは地を蹴っていた。放った矢はその背を追い越しダグの右腕を弾き飛ばす。それに一拍遅れて、アクロがダグの顔面を蹴り砕いた。  次の矢をつがえ駆け寄りながら、カウルはぞっと肝を冷やす。  あの速度、そしてあの重さの蹴りを受けて、自分ならば、無事でいられるだろうか。頑丈である筈の頭蓋ごと、中のやわい脳を破壊されて死ぬ。その未来しか見えない。  弾き飛ばされたダグは。  ダグは。  ああ、ああ。今のダグならそう易々と死にはすまい。  吹き飛ばされ、壁に叩き付けられたダグは呻きながら体を起こそうとしている。  ダグの視界を遮るように少年とアクロの前に立ったカウルは、弓を構えながらも背後のふたりの様子を目の端で窺った。  己の外套を少年に被せ血塗れの顔に触れるアクロの手は微かに震えている。  少年はあの時よりもずっと健康そうで、あの時よりもずっと、死に近いように思えた。薄く開かれたままの瞳に光はない、もしかして。  もしかして、もう。 「っけんな……ざけんじゃねえぞ、この陰険クソ野郎が……っ、いつもいつも人を見下しやがって! お前みてえな小僧趣味の変態野郎がよく今まででけえ面出来たもんだな!! やっぱケダモノはケダモノか!! そいつもかわいそうになあ、お前のせいで死ぬぞ、マナクみてえに無様に死ぬ、お前に関わったからだ、お前が殺したようなもんだぜ、ざまあねえなアクロ!!」  よろめきながら立ち上がったダグは、鼻と口から血を飛ばしながらガラガラと吠える。  これが、こんなものが、血の繋がった実の兄か。どこまで醜悪で滑稽なのか。自分の中に、この男と同じものが流れていると思うだけで吐き気がする。 「黙れ屑! やはりマナクの件も貴様の仕業か!」 「ギャハハッ、わかってたろうが、バァアアカ! てめえら生温いんだよ! 疑うくせに拘束もしねえ、俺なら縛り上げた上で両足を折るね! まあ、お陰で簡単に抜け出せたがな、マナクを殺るくらい簡単だった! あいつの間抜けな死に顔、てめえらにも見せたかったぜ!」 「黙れと言ってる! ケダモノは貴様だ、恥知らずが! そんなナリで、まだ人間のつもりか!」 「ああ!?」 「自分の体の状況も目に入らないとは笑わせる!」  片腕を飛ばされたというのにその痛みを差程感じていない素振りのダグに、カウルは鼻を鳴らした。その目には露骨な嫌悪が浮かんでいる。  ダグの、体は。 「……あ?」  ミシミシと音を立てる、今まさに変貌のさなかだった。  千切れ飛んだ右腕の傷口から、肩、首、頬と、侵食するように鱗が生えていく。皮膚を突き破る、石のような鱗。急速に生えては崩れ、また生えて、それよりも早く崩れていく。 「……何だ、これ、オイ! 何だよこれ!」 「魔石を悪用した罰だ、馬鹿め。自滅するならひとりで勝手にすればいいものを」  カウルは弓を下ろすと外套を脱ぎ、落ちていた魔石を慎重に包み込む。魔物素材の外套で包んでも尚、この空間に満ちる精氣は濃い。長居はしない方がいいだろう。 「オイ! それをこっちに近付けるんじゃねえ!」 「もう遅い。知っているだろう。一度変容が始まれば、元に戻ることはない。貴様はそのままトロウグになるか、肉体が崩壊して死ぬかだ。そして例え生き長らえたとしても、我らは我らから生まれた魔物を生かしはしない」 「お前……っ!!」  醜く、狂暴な、トロウグは、人間のなれの果てだ。  一瞬絶望に顔を歪めたダグは憤りを露にカウルに掴みかかろうとするが、その動きがピタリと止まる。  怯えたように焦点がぶれ、合わない歯の根がガチガチと音を鳴らした。 『────ダグ』  地の底から響くようなその声にびくり、と肩を揺らしたのはふたり。カウルは咄嗟に振り向こうとしたが、出来なかった。  強張った体が硬直して、指先すら動かすことが出来ない。  後ろにいるのは、何だ。  足元に落ちる、影が膨らんでいる。  否、違う。影は、立ち上がっただけだ。その筈なのに、ゆら、と炎のように揺れる影が、いやに、大きく。 「ひゃはっ、ヒッ、ギャハハハハハッ、見ろ、ほら、見ろ、やっばりお前は、バゲモノだ! ゲアッ、ガッ、正真正メ、イのッ、バゲモノじゃねえか!」  崩れかけた顔を恐怖に歪ませて、ダグはカウルの背後を指差して笑う。  ゲラゲラ、ゲラゲラ、ごぽり、血を吐きながら、笑い続ける。  焦点の定まらないその目は、既に常人のそれではない。骨を砕き咲く鱗の花、散る度に、ダグの体を削り取っていく。  最早人には戻れない、哀れな魔物のなり損ない。  だがそれよりも。そんな、ダグの姿よりも。  怪物は、カウルの背後にいる、ソレだ。  ソレが何なのか、カウルにはわからない。だがソレは確かに、人では、ない。  足が震える、呼吸が浅くなる、押し潰されそうな圧迫感、背後のソレが、ひどく恐ろしい。 「来るな! 来るな!! 来るんじゃねえ、バゲ、ェアッ、モノ、がアッ!!」  カウルの横を通りすぎ、ダグの前に立ったのは、アクロの姿をしている、黒い岩漿(マグマ)だった。  否、否、あれはアクロだ。  紛れもなくアクロだ。  何ひとつ、普段と変わらない姿、なのに、何故、何故、こんなにも、違うものに見えるのか。 『弟よ』  どろりと、重く溶け落ちる声。  一切の感情が乗らないその声は、聞く者の鼓膜ではなく、脳を揺らした。  ソレ、は、蛇の頭のように腕をもたげ、指先をダグの首元に滑らせる。ひ、とダグは喉を引き攣らせた。指先は、極自然な動きで首筋の鱗を辿り、極優しい仕草で、そこに絡み付く。  そして。 『せめて、苦しまずに、逝け』  ────パキ。  それは思いの外、軽い音だった。  継いで、ごとりと重い音。落ちたのは、半ば鉱物のように成り果てた、ダグの、頭部。  辺りはシンと静まり返る。  少しして、バラバラと、ダグの体が崩れて、崩れて、見る影もない、塵と、肉片の山になり。  何もかもが、終わった。  あまりに、呆気ない幕引きだった。  アクロの姿をした何か、は、握り潰した首の欠片をはらりと落とし、ただ、佇んでいる。その姿からは憤りも、悲しみも、読み取ることが出来なかった。  家族を、殺したのに。 「……ア、クロ、兄」  返事をしてくれ。カウルは心の中で叫ぶ。何でもいい、何か、言って欲しかった。そこにいるのは確かにアクロなのだと、確信させて欲しかった。  常ならば、誰かが呼び掛ければ、アクロはすぐに振り返る。どうかしたかと応える穏やかな声が、安堵を与えてくれるのだ。  カウルも、ルードのみなも、そんなアクロが好きだった。  知らなかったのだ、彼が家族に引け目を感じていたなど。  その孤独を、知らなかった。  アクロ自身でさえ、彼が何者であるかを知らない。だがこの異質さを常に自身の中に感じていたのだとしたら、それは、計り知れない恐怖だったろう。  何も応えない背中が寂しい。彼を恐れてしまう心が苦しい。いまだ縫い付けられたように動かない手足の、何と恨めしいことか。  どうしたら、と思っていた矢先、唐突にその背が振り向いた。ギクリと体を強張らせるカウルの前に立った彼は、黙って手を差し出す。  その手に外套で包んだ魔石を渡したのは、殆ど無意識だった。  魔石を受け取ったアクロはそのままカウルを通り越し、横たわる少年をそっと抱き上げると、そのまま洞窟の奥へ向う。 「っ、アクロ兄!」  呪縛は解けた。  否、元々そんなものはなかった。恐怖も重圧も、カウルが勝手に感じていたものだ。 「どこへ……どこへ行くんだ」 「……源洞」  その声は深く淀んではいるものの、確かにヒトのものだった。 「っ魔石を、還すのか? なぜ、その子を連れていく、その子は、大丈夫なのか」 「…………息を」  この先を口にするのを、彼はひどく躊躇った。つまりは、そういうこと、なのだろう。 「息を、していない」 「っ、」 「脈も、もうない」 「アクロ兄」 「この子を、源洞に還す」  源洞は、精氣の源、生命の源だ。すべての生命はそこから来て、そこへ還ると言われている。土に還すよりも早く、清らかに、命はほどけ、新たな精氣となり、大地に循環するだろう。  だがそれは。それでは。 「魂まで、ほどけてしまう」 「…………」  ほどけた魂は、オルシュアの元へは還れない。その魂は永遠に失われ、二度と、生まれてくることも叶わない。  源洞が、ノマの民に禁域とされる所以だ。 「アクロ兄は、それでいいのか、その子が、オルシュアの子ではないから?」 「ルカはオルシュアの子だ。私が名付けて、私が祈った、この子はもう、我らの兄弟だ」 「ならば、何故」 「…………私の元から、いなくなるなら、いっそ、消えてしまえばいい」  その声はどこまでも優しく、(かな)しく、泣いているように、笑っていた。

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