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第27話

 そこは、何もない場所だった。  自分の手も見えない暗闇。暑くもなく、寒くもない。水の底のようだな、とぼんやり思う。  ここで、何をしていたのだったか。  考えようとしたが、思考に分厚い膜がかかりどうしても纏まらない。  ひどく、眠たい。  このまま目を閉じて眠ってしまいたいような気持ちになるが、それをするのが恐ろしくもあった。何故かはわからない。そうして考えることもまた、分厚い膜の向こうに遠ざかってしまう。  どこかへ、行きたかった、ような気がする。  それがどこなのか、何故なのか、何も思い出せない。  とりあえず足を踏み出そうとして、自分が、立っているのか座っているのかもわからないことに気付いた。手にも足にも、何の感触もない。そもそも自分に、手足はあるのか。それもわからない。  何せここは黒一色に塗り潰された闇の中だ。  自分がどんな姿かたちをしているのか、示すものは、何もない。  どうしたらいいのだろう。途方に暮れていると、ぱちり、と暗闇が瞬きをした。  瞬き。暗闇が。  そうとしか思えない程唐突に現れた、青鈍色の大きな瞳。縦に割れた瞳孔が、こちらをじっと見つめている。  その瞳が仄かに辺りを照らすのかと、自分は漸く気付いた。  暗闇に溶け込む黒い鱗、それは巨大な岩のような蜥蜴獣(トカゲ)────いいや、竜だ。  遥か昔に絶滅したと言われ、今ではお伽噺の中にしか存在しない生物の頂点。当然見たこともないのに、それが竜なのだと、本能的に確信した。  人を食べる竜と戦う騎士のお伽噺、どこかの街の道端で見た人形劇、子供たちは竜を恐れ、騎士の活躍に歓喜した。  ぱちりと、竜の瞳がもう一度瞬きをする。  この生き物が、人を食べるのだろうか。青鈍色のそれは理性的で、どことなく悲しげに見えた。人形劇の中で語られていたような狂暴性は少しも窺えない。  無意識に手を伸ばしていた。手があることに安堵する。  ひた。黒い鱗に触れた。  熱くもなく、冷たくもない、触れた感覚そのものがなかった。そうして漸く、ここは夢の中なのかもしれない、と思い至る。  だからこんなにも脈絡がないのか。納得した途端に、手のひらに硬質な感触を覚えた。  感覚が、ある。  熱くもなく、冷たくもない、硬い鱗の、さらりとした感触。  次第に、とりとめのなかった思考が纏まりを見せ始めた。  夢ならば、目を覚ます必要がある。  周囲に視線を巡らせようとした時、背中をそっと押された。何、と思う間もなく、無防備だった体はぴたりと竜の顔に縋りついてしまう。  キシ、と鱗の擦れる音。背中を押したのは、竜の尾だ。縋られた竜は、ほんの少しこちらにすり寄るように顎を上げて、それきりまた何の動作もなくなった。  一体、どういう夢なのだろう。  自分は、竜の前肢の中にいる。更に尾によりくるりと囲われ、身動きが出来ない。抜け出そうとすると竜は目を閉じ、ぐいぐいと頭を押しつけてくるのだ。抜け出すことは一旦諦めた。竜が目を閉じてしまえば上も下もわからない暗闇なのだから、どうしようもない。  竜は、何も言わない。 「お前、おれにどうして欲しいんだ」  ぱちり、再び現れた青鈍色。縋りついた頬から離れ、その瞳を見つめる。綺麗な色だなと、思う。淡く発光しているためか、深く清んだその目はきらきらと輝いて、穏やかで静謐な夜空のようだった。 「ここにいて欲しいのか」  キシ、キシ、鱗を鳴らし、蠢く尾の先が躊躇うように触れてくる。  正解、だったのだろうか。だがここは夢の中だ。夢は、いずれ覚める。覚めなくてはいけない。自分にはまだやることがあるのだ、ずっとここにはいられない。  それを伝えるために顔を上げれば、青鈍色はこちらを見てはいなかった。  頭をもたげた竜の、視線の先。  暗闇が一筋、切り裂かれている。  切り裂かれた闇はゆっくりと傷口を広げ、やがて完全な円になった。  そしてそこに、ぎゅるん、と現れる虹彩。瞳だ、星雲の色彩を持つ、それは巨大な眼球だった。 『アクルローフェ』  わん、と響く、幾重にも折り重なる音。水面に落ちた羽虫が広げる波紋に似たそれ。眼球は竜を見つめている。  竜は、前肢の中の小さなものを隠すように尾を丸めた。 『その子を返しなさい、アクルローフェ』  その音からは、男なのか、女なのか、若いのか、老いているのか、冷たいのか、優しいのか、何もわからない、何も伝わらない。  ただ『その子』と示されたものが、自分であることは、理解した。  アクルローフェと呼ばれたこの竜が、かの要求を拒絶していることも。 『その子の未来を永遠に閉ざすことを望んでいるのか、アクルローフェ』 『未来は、既に閉ざされたのだ、オルシュアよ』  低い、低い、後悔に満ちた声が、大粒の雫とともに頭上から降り注ぐ。  振り仰げば、竜は、涙を流していた。 『貴方には、わからないだろう。我らの命に、次などない。潰えた先の、未来などない。貴方の元へ還り、再び生まれた命は、貴方には同じ生き物に見えるのだろう。だが我らの目に見えるそれは、全くの別物なのだ。失った命への悔恨と悲嘆は消えないのだ。私は、この子の魂が、この子以外の誰かになるのが耐えられない』  滔々と、竜は語る。その目から涙をあふれさせたまま。鱗を伝い、こぼれ落ちるそれらは闇の中で弾けて、どこへ消えてしまうのか。 「おれは、死んだんだな」  竜は答えなかった。それが答えなのだろう。  ああ、そうか、と思う。ここは夢の中ではなく、死者の路なのだ。あの眼球──女神オルシュアの元へ還るための路。  夢ではないなら、急いで目を覚ます必要もない。心残りはあるが、死んでしまった身ではどうすることも出来ないのだ。  ならば、暫くここにいるのもいいだろう。  女神の元へ還ることに拘りはないし、生まれ変わりもそうだ。この竜は、自分にここにいて欲しいようだ。ずっと、というわけにはいかなそうだが、期限が来るまでは、自分のために涙を流す竜に、残りの自分をくれてやってもいい。  そう思って、竜に体を預け、宥めるように鱗を叩く。以前は、よくこうして、泣く妹を慰めていた。  竜の涙は止まらない。はらはら、はらはらと、重みを感じないそれは、寂秋(あきさび)に散りゆく木の葉のようで。  困った。どうにも自分は、この竜に泣かれると弱いらしい。 『まだ、死んではいない』 「…………え?」  ひくりと、竜の体が揺れる。 『お前の死を恐れたアクルローフェが、死の直前にお前の魂をここへ隔離した。肉体の生命活動は止まっているが、今ならまだ、魂が戻れば再開する。尤も、お前の肉体が受けた損傷は致命のものであった故、そのまま戻っても、死を免れることは出来まいが』 『まだ……まだ、死んで、いない……?』 『今はまだ、というだけの話だ、アクルローフェ。魂が離れたままでは遠からず肉体は滅びる。戻ったところで、損傷のために長くは』 『オルシュアよ』  竜は、女神の言葉を遮った。 『この子を救う、手立てがあるのか』  問いかけ。だが、確信を持っている。竜は畳みかけた。 『そうだろう、でなければ、この子が死んだと思い込んでいる私に、まだ生きていると伝える意味がない』 『だって、言わなければ、お前はその子を源に沈めてしまうだろう』  女神の声に、初めて感情らしきものが乗る。それは慈母と呼ぶには些か子供染みた、拗ねに似た感情だった。 『教えてくれ、オルシュア、どうすればいい、どうすればこの子を助けられる』 『お前の言う通りだ、アクルローフェ。わたしにはひとの心がわからない。死を恐れながら、死にかけた肉体に固執するなど、矛盾だとしか思えないのだよ。ましてや、愛し慈しむべき魂を崩壊させようなど』 『オルシュア』 『その子をわたしの愛し子にしたのは、お前だろう、アクルローフェ。愛させておいて、取り上げるのか、理解しがたい、許しがたい行為だ』 『何でもする、対価が必要なら、この魂をお返ししてもいい、どうかこの子を助けてくれ、どうか』 『アクルローフェ、わたしの愛し子、悲しいことを言わないでおくれ。わたしとて、子らの命を尊む心はあるのだよ』  女神はその巨大な眼球を僅かに伏せた。  神は人と相容れることはない。真にわかり合うことなど、決してありえない。それでも愛しているのだと、女神は嘯く。 『救えると、断言することは出来ない。その子の肉体は間違いなく死に向かっている。それを止められるか否かは、わたしの預かり知らぬところだ』 『可能性があるなら、縋らせてくれ』  星雲の虹彩が蠕動し、無数の小蟲の群のようにぞろりと蠢いた。 『お前の涙を、その子に与えなさい』  竜の目が瞬く。 『お前が持つ魔力は、現存する生物の中で最も純粋な生命力だ。体液にはそれが多く宿る。精氣よりも余程馴染むだろう』  竜の首が、ぐぐ、と近付いてくる。涙を流し続ける瞳が、懇願に細められた。飲め、ということなのだろう。  手を器のように涙を受け止めようとしたが、思いとどまった。泣き続けるこの竜を、慰めてやりたかったのだ。  涙に濡れた竜の鱗に、直接唇で触れる。  竜は大きく二度の瞬きをして、一層激しく泣き出してしまった。 『いかないでくれ、しなないでくれ、私をひとりにしないでくれ、どうか、どうか』  咽び泣く竜の頭を抱き締める。こんなに大きな竜なのに、その姿は自分の後を必死についてくる小さな妹の姿に重なった。  大丈夫だと、言ってやれればいいのに。竜の涙を飲み下しても、自身に何かしらの変化があったようには感じられなかった。 『がっかりしたかな、ルーカイシュカ』  女神の声からは、やはり何の感情も窺えない。だがその星雲は一見おぞましささえ感じるものの、視線には慈愛が満ちている。  女神は確かに、人を、愛しているのだろう。 『神といったところで、無力なものだ。愛し子の我儘ひとつ、満足に叶えてやることも出来ないのだから』 「がっかりする程、期待もしてない」 『ふ、ふ、これは、手厳しい。では、もうひとつ。アクルローフェ、お前の血と、源の水を混ぜ、その子に与えなさい』  竜の体が強張った。戸惑い、躊躇いが窺える。 『源洞の、泉は……』 『そうとも、源の水は、目に見える精氣だ。斜陽(まもの)以外の生命が取り込めば当然、崩壊を招くだろう。だから、お前の血を混ぜるのだ、アクルローフェ。魂には涙を、肉体には血を。この子の体をお前の魔力で満たせ。それが、この子の中の過剰な精氣を抑制する。ただし、忘れるな。抑制が足りなければこの子の肉体は崩壊する。抑制されすぎれば肉体の修復が間に合わない。失敗すれば、この子に不必要な苦しみを与え、お前の後悔も更に深いものになるだろう。それでもいいと言えるのならば、試してみなさい』 『塵界の私に、貴方の声は届いただろうか』 『耳で聞こえずとも、魂で理解する。塵界のお前もまた、お前なのだから。さあ、ルーカイシュカ。そろそろ戻らねば、奇跡が起こる前に肉体が滅びてしまうよ、おいで』  手招きをするように、女神の眼球がゆらゆらと動く。  竜の前肢から抜け出して、女神の元へ。竜は止めない。声を上げることもない。自分を守ろうと巻いていた尾は、力なく伏したままだ。ただ背中に、ずっと視線を感じ続けた。  女神の前に立つ。  星雲の瞳。それが淡く、微笑んだように見えた。瞳孔が肥大化する。虹彩を押し退け、白目を歪め、ぐにゃりといびつな(うろ)を広げた。  ここを通れば、戻れるのだろう。生きられるかどうかは、わからないが。  ふと、振り返る。  竜は、元の場所から動かず、静かにこちらを見つめていた。聞き分けのいい振りをした青鈍色の瞳が、不安げに揺れている。 「待ってて、アクロ」  とぷん。  踏み出した足は水底に沈み、意識は遠く、遥か彼方へ。  ────ルカ。  彼の、自分を呼ぶ声を、聞いた気がした。

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