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第29話

 死の淵から帰ったルカを腕に抱き、洞窟を出たアクロを待っていたのは、久方振りに見る雲間を裂いた陽の光と、逆光を背に、洞窟を包囲する複数の人影だった。  常ならば仮面に遮られる筈の日射しは素顔に突き刺さり、アクロはその眩さに目を細める。  酋長。それにカウルを始めとした、ルードの狩人たち。各々、緊張した様子で武器を手にしている。  予想は、していた。  ルカを抱き締める。  外套で覆ってはいるが、彼の肌には変容しかけた痛々しい傷痕が残ってしまっていた。通常、止まることのない変容だ、この傷痕を見られたら、彼は魔物として殺されてしまうかもしれない。  それに、自分もだ。  地下で起こったことは、すべてカウルが報告しただろう。あの時のアクロは、自分の中に潜む人ではないものの気配をはっきりと感じていた。ダグも、カウルも、それを恐れた。  カウルはアクロが変容することを危惧したのだろう。正しい判断だ。そうなっていても可笑しくはなかった。  あのままルカを喪っていたら。  アクロはきっと、人であることに縋りはしなかったのだから。  そのように考える人間を、ノマは人と呼ぶだろうか。 「アクロ、親愛なる我らが兄弟よ、お前はまだ、お前でいるか」  密かに退路を探す視線を断ち切る声。重く厳しいその声は、群れを率いる主導者のものだ。  ノマは本能的に、群の長に従う傾向が強い。あの奔放なダグでさえ、酋長の命令には逆らわなかった。それを理解して、命令されないように立ち回っていたくらいだ。  群には、統率が必要だ。そういうふうに出来ている。  だがアクロは、彼女の声に何も感じない。  いまだかつて、本能で彼女に従ったことは一度もないのだ。  こんなところでさえ、彼らとの差を感じずにはいられなかった。  ノマは、異端を拒絶しない。  代わりに、一族から魔物を出すことを決して許さない。  自分が何者なのか、昔はよく考えた。そのせいで逸り、苛立っていた時期もあった。  身体能力も五感も、周囲から逸脱していることに気付いた時、同時にそれらを抑制することを覚えた。この体に人とは違うものが流れていることも察している。  感情を圧し殺すようになった。表情を隠すのは仮面に任せたが、穏やかな振りをしていれば、穏やかでいられた。  酋長の命令には逆らわなかった。逆らう理由もなかったが、従順に徹していたのは事実だ。  ルードの決定で次期酋長に決まった。本当はそんなものになりたくはなかった。  少しずつ、本来の自分を隠してきた。  己はまだ、己であるのか。それを証明する手立てが、アクロにはない。 「答えてくれ、アクロ」 「私は……」  言葉に詰まる。是と答えるのは簡単だ。だがそれを言って、一体どんな意味があるのか。口でなら、どうとでも言えるではないか。  彼らが求めている、理想的な次期酋長であるべきだ。そう思うのに、そのための言葉が出てこない。  この時のアクロは酷く疲弊していた。  腕の中の命以外の何もかもを放り出して、他に誰もいないところで、このこどもとともに眠ってしまいたかった。  取り繕えない。  面倒臭い。  早くこの子を休ませてやりたいのに、邪魔をしないでくれ。  ギシリと、噛んだ歯が鳴る。  取り囲む狩人たちがざわりと殺気立ち、武器を構えた。  探る視線。アクロ、と呼ぶ酋長の声。従えようとする、群の長の。空気が張つめている。誰もが、アクロの挙動を注視していた。  痛い程の沈黙が流れる。  それを破ったのは、幼い声だった。 「おかしな、はなしだ」  幼いが、いやに大人びた、冷笑だ。  声は、アクロの腕の中から。  取り囲む狩人たちは、アクロが抱えている外套に包まれたそれが、人間のこどもであると初めて認識した。  みなが息を飲む中、アクロの腕の中で体を起こしたルカは、取り囲む狩人たちを外套の下から睥睨する。 「そんなのは、アンタたちが、勝手に判断、すれば、いい、ことだろう」  自分の力で体を起こすのが辛いのか、アクロの胸についた手は震え、息をする度小さな頭がぐらりぐらりと揺れている。しかし黙るつもりはないらしい。  片側だけの金色が、燃えるように煌めいていた。  初めて彼を見た時と同じ、鮮烈な、命の煌めき。  その輝きに、目を奪われる。  ずっと。  もうずっと、アクロの心は、彼の瞳に囚われていた。 「アクロは、ずっとアクロだ。でも、それを本人に言わせて、何になるんだ。アンタたちは、アンタたちが用意した回答に、アクロが合わせるのを待ってるだけじゃないか。アンタたちの言う、アクロは、本当にアクロなのか」  一言喋るごとに、息が上がっていく。外套の下に垣間見える顔は朦朧としていて、今にも意識を飛ばしそうなのに。  ルカは、アクロのために憤っていた。 「それなら、どうしてアクロは、ひとりだと、思ってるんだ」  しん、と。辺りに沈黙が落ちる。  言いたいことを言い終えたルカは、「つかれた」と言ってアクロの肩にもたれ掛かった。眠ったのかと思ったが、アクロの服を掴む手には力が込められたままだ。  込み上げてきた愛しさのままに、アクロはその体を強く抱き締める。  アクロの腹の底で、長年渦巻いていた泥濘(でいねい)は、彼の言葉にあっさりと洗い清められてしまった。  誰にも理解されず、生涯抱えてゆくしかないと思っていた泥濘だ。それが。こんなにも簡単に。  消え入りそうな声で痛いと言われなければ、止まった筈の涙が再びあふれていたかもしれない。  慌てた様子で腕の中のこどもを窺うアクロに、ふ、と笑ったのは酋長だった。  彼女が軽く手を上げると、みなの手が武器から離れる。緊張に強張っていた雰囲気が、途端に和らぐ。カウルに至っては安堵からか、その場にしゃがみこんでしまった。 「声を、聞かせておくれ、息子よ」  サク、サクと雪を踏んで目の前まできた酋長はアクロを見上げ、少し困ったように微笑む。声は、先程よりもずっとやわらかい。  息子、と呼ばれたのは、いつ振りだろうか。  血の繋がりはなくとも、彼女からは確かに、母としての愛情を注いで貰った。 「長殿……すまない、何と答えるべきなのか、わからなくなってしまった」 「正解など、探さなくていい。怪我をしているね、体に異変は。魔石の影響を受けてはいないか」 「怪我という程でもないからな。私の体は問題ない。魔石も、無事に源洞に沈めた」 「そうか。安心したよ」  再び訪れた沈黙。  酋長は言葉を探しているようだった。少し落ち着かない態度は、彼女には珍しい。そう思っていたら、彼女はあからさまな溜め息を吐く。 「そう睨むな、少年」  睨んでいたのか。肩口にある顔を覗こうとすると、彼は外套を深く被り隠れてしまった。  酋長は小さく笑い、再度、心を整えるための息をつく。 「すまなかった。お前の孤独に気付いてはいたが、どうすることも出来ずにいた。いつしか聞き分けのよくなったお前に、安堵してしまったことも否定出来ない。そういうものを、積み重ねてきてしまったのだろうな、私は」  独白は、自嘲を含んでいた。  彼女は、群の長だ。個よりも全を優先させるべき立場だ。ルードにとって都合がいいように立ち回るようになったアクロを不自然に感じていたとしても、止める理由も窘める理由もなかったのだろう。 「私が感じた孤独感は、生来のものに由来する。どうすることも出来なかったのは、私も同じだ。貴方のせいでも、家族らのせいでもない」  彼女自身、少なからず己を殺してその立場にいる筈だ。彼女を責める気には、到底なれなかった。 「それでも、向き合うことは出来た筈だなんだ。そうしていれば先程のような場面でも、退路を探すより先に、理解を求める言葉をくれたかもしれないのに」 「…………」  やはり、気付かれていたのだな、と苦笑する。  向き合うことより、目を逸らし逃げてしまう方が、ずっと楽だ。アクロはとうに、理解されることを諦めてしまっていた。  それを指摘されるのは、なかなかに気恥ずかしいものだ。 「その子は、あの時の子だな。顔を見せてくれるか」  一瞬、アクロは躊躇した。だが、理解を求める余地があるのなら、或いは。  そっと、ルカの肩を指先で叩き促してみる。彼が嫌がるなら、それまでだ。  だがアクロの杞憂をよそに、ルカは億劫そうに手を動かした。頭から被っていた外套を、ぱさりと引き落とす。現れた不機嫌そうな顔に、思わず笑ってしまった。  酋長も苦笑している。頬の傷痕に気付き瞬間の目配せがあったが、小さく頷けばそれ以上そのことについては何も触れなかった。 「目を」 「どうってことない」  子供の虚勢に気付かない女ではないが、彼女は「きれいな目だったのに、惜しいな」とだけ言い、静かに目を伏せる。今にも気を失いそうな彼から視線を外したのは、彼の尊厳を守るためだろう。 「名は?」 「…………ルーシャ……」 「────、」 「そうか、ルーシャ、我らが愚弟が迷惑をかけた。本当に申し訳ない。本来であれば君に彼奴の首を差し出すべきなんだが」 「そっ、んなの、もらっても、困る」 「だろうね。安心してくれ、差し出したくても、彼奴の首は既に粉々に砕けてしまったそうだ」 「…………そう」  ルカは苦いものを含んだような顔をして、長く細く、息を吐いた。  ルカの体力は限界を疾うに超えていて。ぐらぐらと揺れる意識は勝手にルカから離れていこうとしている。 「眠ってしまうといい。アクロが側にいるから、大丈夫だろう?」  酋長の穏やかな声。  ルカの残った左目が、ちらりとアクロを見上げた。どこか、不安げだ。  安心させてやりたくて、目を細めて笑ってみせると、彼は唇を引き結びアクロの肩口に顔を伏せてしまう。ぐり、と額を押し付ける仕草が、ぐずって甘える赤子のようで愛らしかった。  アクロの笑みが深くなる。  とん、とん。  ゆっくりと、心音と同じ速度で背中を撫でていると、ルカの全身からふ、と力が抜けた。  眠ったらしい。 「カウルの報告を受けたが、ルーシャの住みかとしていた場所は壊れてしまったのだろう? 詫びにもならんが、彼の放逐刑は取り消そう。ルードに連れてくるといい」  子供を起こさぬよう声をひそめた酋長に、アクロは何とも形容しがたい複雑な表情を浮かべる。酋長は小首を傾げた。 「……目を覚ました彼が、了承すれば」 「ああ、それは勿論」  壊れてはいても、少し修復すればある程度の形にはなるだろう。継ぎ足した箇所は脆くなるかもしれないが、春までの間を凌げれば充分だ。  ルカは酋長の提案を受けないだろうと、アクロは考えていた。  だからだろう。  雪洞を修復中に目を覚ましたルカが否と言わなかったことが意外で、ほんの少し、心に靄をかけたのは。

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