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第30話

 意外なことに、ルードでの生活は恙無かった。  というのも、ルカはアクロの雪洞で療養していたため外に出る機会がなく、他のノマとの接触は皆無だったのだ。以前の雪洞での生活と何も変わらない。  変わったことと言えば、アクロが忙しなくしている様子が如実になったことくらいだろうか。  あの場所で雪洞を作ってから、アクロは狩り以外の時間のほぼすべてをルカとともに過ごしていた。狩りの後にはルードに顔を出しているようだったし、そういうものかと気にしていなかったが、こうして見るとアクロは大層忙しいように思える。  次期酋長としては勿論、みなの兄として、狩人筆頭として。話を聞いているだけで、とても頼られているのだとわかった。  いいように使われているだけだと思うが、とアクロは苦笑したが、本人もそれがすべてだと思っているわけではないだろう。食事と就寝時以外落ち着いた時間がない割に、どことなく楽しそうでもあるのだから。  だから多分、酋長の提案に乗り、ルードへ来たのは正解だったのだ。  失った目は戻らないものの、想定よりもずっと早く怪我の具合が落ち着いた頃。そろそろ外へ出て、無理のない範囲で体を動かすようにしようかと話していた時のことだった。 「……ルカ、この後少し時間を貰えるか。カウルが、ルードを出る前に君と話がしたいそうだ」 「ルードを出る...…?」 「ああ。そうか、言ってなかったな、ルード内で殺人を犯した者の親兄弟、子がいれば子もだが、彼らは全員追放になる。カウルは、ダグの弟だからな」  被害者側の遺族を慮った措置だそうだ。今回の件であの男の両親と姉、そして弟であるカウルが追放となる。姉に至っては夫と子も、彼らは追放対象者ではないが、ともにルードを出ることに決めたらしい。  計六名が、これからルードを去る、とのことだ。それだけの人数が一度にいなくなるという経験をするのは初めてだと、アクロは少し寂しそうに笑う。 「……そう……で、何でおれと……?」 「わからん。だが彼は何かと君を気にかけていた。挨拶くらいはしたいのだろう。無論、君が嫌なら断るが」 「……いや、いいよ、会う」 「そうか、ありがとう」  彼を呼んで来よう。そう言って雪洞を出ていったアクロは、間もなく件のノマを連れ、戻ってきた。 「彼が、カウルだ」  アクロの斜め後ろで軽く頭を下げたのは、アクロよりひとまわり小柄な男だった。それでも、ルカよりはずっと大きい。ただでさえ最低限の広さしかない雪洞内が、尚のこと狭苦しくなった。  彼の歳はルカとひとつしか違わないと言っていたが、本当なのかと疑いたくなる。 「では、私は外にいる。何かあったら呼んでくれ」 「わかった」  ルカと、カウル。それぞれに目配せをしたアクロはカウルの肩を軽く叩き、その場を後にした。  残されたふたりの間に沈黙が落ちる。  カウルはルカの前に腰を下ろし、言葉を探しているようだ。さほど口が上手いたちではないらしい。 「……何の用」  ぶっきらぼうな声が出た。ルカも、喋るのが得意なわけではない。その上警戒心のあるなしに関わらず、実は人見知りなのだ。  用があるならさっさと済ませて欲しい。  内心が態度に出たのか、カウルは意を決したように口を開いた。 「まず、初めて会った時のことを謝らせてくれ。乱暴なことをしてすまなかった」 「別に。おれは罪人だったんだし」 「だとしても、必要以上の暴力はやはり慎むべきだった」 「もういいよ。全面的にこっちが悪いのに、謝られるのは居心地が悪い」  最初の夜の、曖昧な記憶。生きるために盗みを働こうとして、失敗した。はっきりと認識しているのはそれだけだ。 「それでも、出立前に言っておきたかったんだ。……体は、もう大丈夫なのか。火傷もだが……目も……」 「……トトの実」 「ん?」 「トトの実、くれたって」  あの実をルカに、と譲ってくれたのは、カウルだったとアクロから聞いている。  火傷の時もだが、結局今回も世話になってしまった。 「ああ、いや、俺は、実を見つけただけで...…」 「めちゃくちゃまずかった」 「だろうな」 「でも、多分、助かった」 「……そうか」  カウルの口角が、微かに上がる。笑ったのだろう。あの不味い実に助けられたことが、彼にもあるのかもしれない。 「それだけ?」 「……いや、」  彼は少し躊躇い、雪洞の出入口をちらりと見やってから体を屈めた。 「ルーシャ、少し、耳を貸してくれるか」  ひそめられた声は、五感が鋭いというアクロを警戒してのことか。  外にいるとは言っていたが、その程度の距離と遮蔽では盗み聞きのつもりはなくても彼には聞こえてしまうのかもしれない。  しかしルカは、アクロに聞かれて困るような会話をする気はなかった。 「なに」  明確に警戒されたのを感じ取ったのか、カウルは苦笑する。 「お前は、あの人のことが本当に好きなんだな」 「…………恩人だ」 「ああ。だが、それだけじゃないだろう?」 「…………」  肯定も否定もせず、ルカは口を噤んだ。まったくもってその通りだが、それをこの男に伝えるつもりはない。勝手に伝わる分には不可抗力だ。  カウルは憮然としたルカに笑みを深め、少しだけ肩の力を抜いた。 「安心してくれ、アクロ兄には内緒だが、悪口ってわけじゃない」  立てられた人差し指の向こうで動く唇が、「俺も、あの人が好きなんだ」と密やかに囁く。  ルカは小さく吐息を落として、話を促した。 「あの人が、人とは少し違うことは知っているな」  頷く。  本人から聞いたことだ。アクロは自分を異端だと評した。そのことに、多少の負い目を感じているようでもあった。  もしもの時、自分の存在はルードの足を引っ張りかねない。そう思っている。  彼と同じ者はなく、仲間たちの中にあればこそ、違いは如実に感じられたことだろう。  彼の孤独は、和らぐことはあっても癒されることは、きっとない。 「怖くはないか」 「人の方が怖い」 「……そうかもしれないな」  今度は笑いもせず、カウルは生真面目に頷いた。仮面の奥で薄い鳶色の目が悲しげに細められる。 「情けない話だが、俺は恐れてしまった。あの時……あの地下洞窟で、怒りも悲しみもなく、僅かばかりの慈悲でダグにとどめを刺したあの人が、とても恐ろしかった」 「…………」 「恐れてしまったんだ……」  意識のなかったルカがことの顛末を聞いたのは、酋長からだった。  あの男は、アクロが粛清したのだと。  本来であれば生きたまま捉え、罰は酋長が下すが、今にも自滅しようとする男に敢えて手を下したのはアクロの独断だったという。  聞けばあの男、スムーという白い獣の乱獲やルカへの暴行の他にも殺人を犯していたということを、その時に初めて聞いた。  真っ当に処罰を受けていたとしても軽くて極刑だ、変に拷問を受けるよりは、楽に逝ったことだろうと酋長は淡々と語った。 『マナクの遺族や君からしたら、彼が楽に逝ったのは不満かもしれないな、すまない』  そう言って頭を下げたアクロは独断を咎められる立場だ。もっとも、数日間の雪洞での謹慎という、本人にとっては罰にもならないような罰で済んだらしいが。  ルードの仲間はみな大切な家族だと聞いていたが、随分と冷めている。罪を犯せばそんなものなのか、とアクロを見れば、彼は曖昧に微笑んだ。  寂しい気持ちは勿論あるが、後悔はしていない、と。 「あいつは、望まれたノマとして行動しただけだろう」 「……否、否、違う。違うんだ。あれは違う」  カウルはゆるゆると首を振る。 「あの時のあの人の様子は、誰にも話していない。長にもだ。ルードのみなには、彼が精氣の影響で変容するかもしれないと報告し、呼び集めた。だが彼のあれがそういう類いのものでないのはわかる。彼はやはり、我らとは本質が違う生き物なのだろう」 「……よく、わからないんだけど、違うと、何かダメなのか」 「……ダメ、じゃない。だが、人間は弱い生き物だ。似て非なるもの、そして、正体のわからないものには恐怖を抱いてしまう」 「アンタは、アクロが嫌いになったの」  仮面の下の鳶色が限界まで見開かれ、やがて、苦しげに伏せられた。 「そんなわけ、ないだろう。そんなわけないから、あの日からずっと、罪悪感で吐きそうだ」 「面倒臭いな、アンタたち」 「……違いない」  疲れたようなカウルの相槌に、ルカは溜め息を吐き出す。  自分が怖くはないかと、アクロにも聞かれたことを思い出した。  存在の違い、考え方の違い、一部に首を傾げることはあれど、あって当然なのが他人だろう。アクロはアクロだ。属するものが人だろうと、それ以外であろうと、彼であることに変わりはない。  一体何が問題なのか、ルカにはわからなかった。  好きなら好きでいいだろうに、大人は色々と考えることが多いらしい。 「アンタたちは、あいつに理想を押し付けておいて、それ以上何を望むんだ」 「まったく、その通りだな……残念だ、やっとあの人の心を垣間見ることが出来たのに、俺はルードを離れなければいけないんだから」 「…………」 「お前とも、もっと話をしたかった」  実は、もっと早くに話をさせて欲しいと、カウルはアクロに打診していたという。  ルカの体調が安定するまで、と引き伸ばしていたのはアクロの判断で、ルカはそんなやりとりがあったことも知らなかった。 「あの人、本当に気に入ったものは誰にも見せたくないたちだったんだな」  そんなことも知らなかったんだ、とカウルは小さく笑う。 「ルーシャ、あの人には、寄り添える誰かが必要だと思う。それも、ノマの概念に囚われない誰か……あの人の仮面を、外してあげられる誰かが」 「……それは……」 「今からここを発つ俺が、こんなことを言うのは無責任だとわかっている。だが、どうか」  どうか、あの人を頼む。  地面に拳を付き、深く頭を下げるカウルに、ルカは「……買い被りすぎだ」と言うのが精一杯だった。  安請け合いは出来ない。する資格もない。その願いには、ルカは応えられないのだ。  困惑に俯くルカを前に、カウルは苦笑するだけだった。  ◇ ◇ ◇  カウルの一家が旅立った。  彼らを見送り、雪洞に戻ったアクロは何かを言いかけてやめる、ということを繰り返していた。  流石に落ち着かなくて「なに」と聞くと、アクロは観念したように息を吐く。 「カウルと……何の話をしたのか、聞いてもいいか」 「内緒って言ってたから」 「…………そう、か」 「あいつが、何か言ってた?」 「いや、特には」  どうにも歯切れが悪い。何をそんなに気にしているのか。  眉をひそめて訝しげに見上げていると、自分の態度がルカを不快にしているとでも思ったのか、アクロは慌てて謝った。 「……その、ずっと聞きたかったのだが、私も、ルーシャと呼んだ方がいいか」  力ない声で落とされた言葉に、ルカはぱちりと隻眼を瞬く。 「何で。アンタは今まで通り呼べばいいじゃないか」 「そちらの呼び方の方が、よかったのかと……」  『ルーシャ』は、ルカの呼名を決める際のもうひとつの候補だ。『ルカ』に決めたのはアクロで、そこにルカの意思はなかった。  アクロはルカが、『ルカ』という名を気に入っていないと思ったのかもしれない。  なるほど、と納得する。  近頃、ルカを呼ぶ時に僅かな躊躇いがあったのはそのせいか、と。  酋長だという女に名を聞かれた時。  咄嗟に『ルーシャ』と口にしたのは、アクロ以外の誰かに、『ルカ』と呼ばれる自分を想像出来なかったからだ。  もっと明確に、呼ばれなくないと思ってしまった。  元の名前を呼ばれたくないのとは、多分、逆の理由で。 「……折角、アンタしか呼ばない名前なのに」 「え……?」  自分を『ルカ』と呼ぶ声は、このひとのものだけでいい。  そう思ってしまったから。 「おれは別に拘りないし、好きに呼んだらいいけど」  嘘だなと、他人事のように思った。  本当は、アクロに呼ばれるのは好きだ。彼に呼ばれるから、ルカという名を好きになった。  アクロにだけ呼ばれる名。  大切そうに、愛おしそうに紡がれる響きは、ルカの心にすっかり馴染んでしまっている。  今更、呼ばれなくなるのは、嫌だ。 「────ルカ」  ぼふ、と。分厚い胸板に顔を押し付けられた。 「ルカ、ルカ……私のための名にしてくれたのか、私だけの……」  腕の中に閉じ込めるように抱き締められ、何度も呼ばれる名が擽ったい。  そうされて初めて、最近は名を呼ばれること自体が少なくなっていたのだと気付く。それも、アクロが変に遠慮をしていたせいだと思ったら、少しくらい意地の悪いことを言っても許される気がした。 「独占欲がどうのとか、面倒臭いこと言ってたから、その方がいいと思ったんだけど、余計なことだったみたいだ」 「余計だなんて! 嬉しくて、胸が張り裂けそうだ……君がそんな風に、私のことを気にかけてくれていたと、思うだけで……なのに私は、勝手に不貞腐れて、みっともないな」 「……ふてくされてたの……」 「実はそうなんだ。ただでさえ君をルードに連れてきたことで、君の存在をみなが知ることになってしまったし、ことあるごとにみな君を気にかける。私だけの小鳥だったのに、カウルとは内緒話までするじゃないか」  アクロみたいな大人でも不貞腐れたりするのか。遠い存在だと思っていた大人が、妙に近くに感じて、可笑しかった。  ルカは意地悪を考えるのをやめ、腕の中でふにゃりと力を抜く。 「あいつは、アンタのこと、心配してただけだよ」 「……そうか。優しい子だろう、あの子は」  成人を迎えた者の子供扱いは侮辱だというアクロが、カウルを指して「彼」ではなく「あの子」と口走ったのは、恐らく無意識だ。アクロの中では、彼はまだ、幼い弟のままなのかもしれない。  ルカを強く抱き締めたアクロが、極々小さな声で「離したくないな」と独り言つ。  何も言わないが、やはり彼らが去ってしまったことが寂しいのだろう。あんなに、家族を大切に思っていたのだ、無理もない。  少しくらいなら、代わりになってやってもいい。  恐る恐る、大きな背中に手を回す。  ぽて。  叩くというには弱すぎる力で、一度だけ、その背を撫でた。 「おれ、アンタはもう、こういう接触してこないと思ってた」 「────……私も、その、つもりだったが、無理だ、我慢してくれ」 「が、がまん? は、してないよ」 「それは……よかった」  抱き締める腕が強くなった。  少し、胸が苦しいのは、きっとそのせいだ。

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