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第31話
春の訪れ。
雪は名残を残すものの、後は溶けゆくばかりの時分。雪洞も脆くなり、撤去の準備を進めている。
それは、ルードの旅立ちの準備でもあった。
「やはり、気持ちは変わらないか」
ルードの中の、一際大きな、集会用の雪洞。主である酋長の正面には、ルカがひとりで座っている。
「アンタたちの行動域とおれの目的はかけ離れてる。それにやっぱり、おれは人の中で生活するのは落ち着かないから」
「そうか……」
我らとともに行こうと最初に口にしたのは、意外にも、群の長であった。
その場にはアクロもいたが、彼は息を飲み、ルカの返答を見守っていた。ルカが首を振れば、視線を落として、落胆を隠す。
アクロはその返答がわかっていたから、敢えて口にしなかったのだろう。
「出立間近になったら、アンタたちも慌ただしくなるだろうから、今の内に行こうと思うんだけど」
「待て待て、今の内に? アクロに黙ってか? それはあまりにも薄情じゃないか」
「だろうな」
今、アクロを始めとした狩人たちの大半は、冬眠から覚めた獣や魔物を狙った狩りに出ていた。普段は単独狩猟を主とするノマが協力し連携を取る、数日がかりの大規模な狩りとなる。
この狩りが終われば、出立の時だ。
ルードを去るなら忙しくなる前の今しかないと思ったのだが、目の前で腕を組む群の長は苦々しく呻いている。
「ここで行かせては私はアクロに一生恨まれる。流石に勘弁してくれ」
「……アクロはもう、大丈夫だと思うけど」
ルードに身を寄せて、凡そひと月半。
最初は雪洞に引きこもっていたルカも、武器の扱いを教わるため外に出れば、他のノマとも顔を合わせるようになった。
その中で、アクロの印象が以前と少し変わった、という言を度々耳にした。
そのどれもが好意的で、みなアクロを大事に思っているのだとわかる。アクロも、それを受け入れているように見えた。
「甘い。表面を取り繕うことだけに特化した外面だぞ。彼があれ程の執着を見せた君がその認識では困る」
「凄い言いようだな」
「それだけ大ごとなんだよ。アレが我を見せるというのは。何せあのアクロが、一瞬とは言えルードを捨てようとさえ考えたんだ」
「それは……」
「君は、彼とともにいたいとは思わない?」
「…………」
答えない。
その問いには、答えたくない。
問いの答えを口にしたら、アクロはそれを叶えようとしてしまうかもしれない。嘘をつきたくないから、口をつぐむしかなかった。
「君が、彼を連れ出そうとは思わない?」
「アクロから家族を取り上げようとは思わない」
自分には、わからないけれど。『家族』は、とても大切なものなのだろう。彼が大事にしているのだから、大切なものなのだ。
それを捨てさせるつもりはなかった。
一時の気の迷いを、現実にさせてはいけない。
「ルードにとっても、アクロは必要だろう」
「それは勿論だが、それであの子の自由を奪うつもりはないよ」
「次の酋長なのに?」
「酋長になれる人間は他にもいるが、あの子はひとりしかいない。そしてあの子の人生は一度きりだ。私はあの子には好きに生きて欲しいんだ」
「…………」
「もう一度聞くよ、ルーシャ。君は、アクロとともに生きたいとは思わないのか」
ルカは内心、安堵した。その問いになら、嘘をつかずに答えられる。
「思わない」
そもそも、生きることに執着がないのだ。目的があるから、今は死ねない。それだけだ。
こんな自分の人生に、彼を巻き込みたくはない。
去り際のカウルの願いは、やはり叶えられないが、アクロはここで、十分幸せにやっていけるだろう。
群の長は、仮面の上から額を抑え、深く深く嘆息した。「よりにもよって……」と呟くが、その意味はわからなかった。
「例えそうだとしても、別れは直接言うべきだ。アクロを思う心があるなら、互いのためにも、どうか誠意ある行動を求める」
雪洞から出たところで、ルカは途方に暮れてしまった。
部外者から見ても、アクロはルードの中心人物だった。みなが慕い、頼りにして、アクロもそれに応えている。
一団の長である酋長は、世襲ではなくみなの総意により決まるらしい。次の酋長がアクロになるのは道理に思えた。
だからこそ、ルードはアクロを手放したがらないだろうと思っていたのだ。
なのにまさか、アクロを連れていく選択肢を提示されるとは。
「絶対ダメだろ、そんなの……」
ルカとふたりでいる時は、ただ静かで、穏やかな男だと思っていた。
ルードで賑やかな子供たちに手を焼くアクロは少し口煩くて、豪快な男だった。子供の扱い方が思いの外雑なのにも驚いたが、何よりも楽しそうなのが、印象的だった。
他人との近い距離感が落ち着かないルカとは違い、人々に囲まれて育ったアクロはルードの中にいることこそ相応しいのだろう。
それに、存外寂しがり屋だ。
ルードから、アクロを引き離したくない。
(ましてやおれみたいに、まともに生きるつもりもない奴のためになんて)
やっぱり、少し無理をしてでも今の内にルードを出た方がいいのではないか。
アクロもまさか、行き先もわからない相手を当てもなく追いはしないだろう。
大切に思われている自覚は、ある。悲しみは、するだろう。怒りもするかもしれない。だが死ぬわけではない。アクロの周りには、アクロが愛し、愛される家族がいる。残す傷は、さほど深くはならないだろう。
自分たちはそれぞれの日常の中で、悲しみも寂しさも忘れていく。
きっと、それでいいのだ。
「あー! ルーシャ見つけたー!」
びくり、唐突な大声に驚き、体が硬直する。
その体に、衝撃。飛び付いてきたのは、ルカと同じくらいの背丈の少女だった。
「こらフィヤテロ、ルーシャを乱暴に扱うな、ぶっ飛んじゃうだろ」
「おっきいこえもダメだよ、ビックリしてにげちゃうよ」
その後から頭ひとつ分大きな少年と、頭ひとつ分小さな少年が現れる。
大きいのが十歳のメレオ、小さいのが六歳のアドナド、少女が九歳のフィヤテロだ。三人とも血の繋がった兄妹弟、らしい。
全員ルカより年下だが、その中にいれば同年代に見える上、体格でいえばルカが一番華奢だった。彼らを見ているとアクロがルカの年齢を誤解した理由がよくわかる。
「ごめんねルーシャ、ビックリした?」
彼らは成人前なので、仮面を付けない。惜しげもなく晒された鳶色の目をしゅんとさせて、フィヤテロはルカの顔を覗き込んだ。
「……ビックリは、したけど、別にぶっ飛ばないし、逃げない」
「ウソだね、初めて会った時なんか、おれたちを見ただけで巣穴に逃げ込む木鼠獣 みたいだった」
「かわいかったよね」
「かっ、かわいいとかあるか! 男だぞ!」
「でもメレはさいしょ、ルーシャを女の子だとおもってた」
「うるさいな、でっかい目ん玉きらきらさせてるのが悪いっ」
「かわいかったよね」
「かわいいとは言ってない!」
他所でやってくれないだろうか。
初めてこの子供たちに遭遇した時、その勢いに驚いてアクロの後ろに隠れたことは認める。この際木鼠でも女でも目玉オバケでも何でもいいから静かにして欲しい。
アクロはあの通り物静かな大人だし、妹も騒がしいたちではなかったから、こういう賑やかさに慣れていなかった。明確に、苦手だと言ってもいい。
しかし年齢だけは下の、悪意のない子供たちを振り払うのも気が引けて、結果、心を無にするしかなくなる。
「ねえルーシャ、その眼帯、カッコいいね。アクロ兄が作ったの?」
「……まあ」
ルカの右目は、その周囲の傷ごと黒い眼帯に覆われている。
軽く柔らかい、それでいて頑丈で肌によく馴染む革布だ。縁取りには同色の刺繍が細かに施されており、長く垂らした結び目の先は装飾をあしらった加護編みになっている。派手さはないが、凝った逸品だ。
「包帯よりはましだけど、ルーシャにはちょっと地味じゃないか?」
「そんなことない、ルーシャの赤い髪にぴったりだよ」
「そりゃ、どーも。……で、何の用」
ルカの赤い髪がお気に入りなのか、抱きついて頬擦りするフィヤテロを引き剥がして聞けば、子供たちは「そうだった」と声を上げる。
「狩人の一部が戻って獲物を置いていったんだ」
「今年は狩人の数が……少ないから、獲物はこまめに運んでくるみたい」
「本当だったらおれも行く筈だったのにさ」
「ふてくされないの。ルードに残る人数が少ないのもよくないからって長様の話、聞いてなかったの?」
「わかってるから従ってるだろうが」
「のこってるぼくらで、えもののしょり、しなきゃならないものね」
「そうだよ。なにせアクロ兄じきじきに任されたんだから。がぜん張りきっちゃう」
「出たよ、フィヤテロのアクロ兄ビイキ」
「別にいいでしょ。誰にも迷惑かけてないもの」
「……アクロが、戻ってたのか?」
放っておくといつまでも続きそうな兄妹弟たちのやり取りに横やりを入れた。流石に、とまるまで待つつもりはない。
「別に、アクロ兄だけじゃないけどっ。すぐに猟場に戻るって言ってたから、もう行ったんじゃないか?」
不機嫌そうに鼻を鳴らし、メレオは唇を尖らせる。
この少年はどうも、アクロに対して妙な対抗意識があるようだ。アクロ兄と呼んでいることから、嫌っているわけではなさそうなのだが、少年の心は複雑らしい。
そのメレオを押し退けて、フィヤテロが身を乗り出しルカの手を握った。
反射で振り払わずにいられるようになるまで時間を要した筈だが、この少女はよくめげずに続けられたものだと思う。
「獲物の処理に人手がいるから、声をかけて回ってたの。ルーシャもおいで? 熊獣の解体したことある? ないならアタシが教えてあげる」
「お前はまだ人に教えられる程上手くないだろ、教えるならおれが教えるよ。それに、そうだ、いい皮が手に入ったらおれがもっとカッコいい眼帯作ってやる」
「いや、要らないって。眼帯なんてひとつあれば充分だ」
「メレオの不器用さで、アクロ兄よりカッコいい細工なんて作れるわけないじゃない」
「なんだとっ?」
「ねえー、早くもどらないとコーレンがおこるよお」
またしても眼前で行われる些細な兄妹喧嘩に頭痛を覚える。
ひとまずここをやり過ごしてから、先のことを考えよう。そう思い、手を引かれるまま三人の後を追った。
「えっ、これ全部……?」
「まだまだ来るよ、今年は大猟だねえ!」
「…………」
山と積まれた獲物たち。呼び集められたノマたちが、予定より多い処理の準備にバタバタと追われている。
ルカはこっそりと溜め息を吐き出した。
困った。
どうやら既に、出ていく機を逸してしまっていたらしい。
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