32 / 36

第32話

 冬明けの大規模狩猟とその処理が終われば、その後は宴会が開かれる。  毎春の通例だ。しかしこの春は、常よりも少々神妙だった。  広場の中央の一番大きな焚き火は、スムーの毛皮を飲み込み高く天を焦がしている。その周囲を、くるりくるりと舞い踊る子供たち。祭事用の衣装を纏い、小さな太鼓を打ち鳴らしながら歌う様は、火の精霊たちを模している。  それはオルシュアの恵みに感謝を捧げる舞いであり、オルシュアの元へ還った魂を弔う歌だった。  この冬マナクとダグが死に、ダグの家族が去った。みな、普段通りに振る舞ってはいるが、悲しみと寂しさが癒えるには、時間が足りない。  それでも自分たちは明日、ここを発つのだ。 「結局アンタたちの出立まで居座っちまった」  丸太に腰掛けるアクロの隣に、何やら色々と盛られた木皿を抱えたルカがよいしょ、と座った。 「随分大猟だ」 「毛皮の焚き上げだけ見て引っ込もうと思ってたのに、捕まったんだよ」  こんなに食べられない、とアクロに向けて皿を差し出す。  確かに、この小さな体に納めるには盛られた肉が多すぎる。苦笑して皿を受け取ると、ルカは空いた手で皿の上から手頃な大きさの骨付き肉を取っていった。手頃といっても、ルカからするとそれなりに大きい。 「君はまだまだ細いから、みな食べさせたくなってしまうんだろう」 「お節介な集団だ」  大きく口を開けて肉に噛みついているが、残った歯形がささやかで、鼠獣が齧った跡のようだなと思う。 「ルカ、ここ数日獲物の処理に随分貢献してくれたと聞いた。ありがとう、大変だったろう」 「あの大蜘蛛に比べれば全然平気」 「ふふ……処理の仕方、教えた先からあっという間にコツを掴んでしまうと、みな驚いていた」 「役に立ったならよかったよ」  肩を竦めるだけの気のない態度。本当にそう思ってるかは怪しい。  だが、苦手だと言っていた子供たちを無碍にすることなく構ってやっていたのだから、彼はやはり『兄』なのだろう。 「子供らは、君が気になって仕方がないようだな。特にメレオなどは、随分と君に興味があるようだ」  十歳のメレオは、素直ではないところもあるが、弟妹たちの面倒をよく見る少年だ。  見た目だけなら妹のフィヤテロと大差ないルカに庇護欲を誘われたのかもしれないが、恐らくあれは、恋心というものだろう。  アクロに向けられた明確な敵愾心、それがどうにも擽ったかった。  今も、焚き火の周囲で踊りながら、こちらへチラチラと視線を向けてくるメレオのいじらしさが微笑ましい。  思いに気付いているのかはわからないが、視線には気付いている。ルカはげんなりとした顔で肉に噛みついた。 「勘弁して欲しいんだけどな……」 「あの子たちの好奇心が言ってどうにかなるなら、我らも苦労はしないのだがな」  苦笑を返す。  ルカはじとりとアクロを睨んだが、それはすぐに溜め息に変わった。 「アクロ」 「うん?」 「世話になった」  肉を取ろうとしていた手が止まる。 「アンタのおかげで、どうにかまだ、生きていられそうだ」 「よしてくれ……武器の扱い方は教えきれてはいないし、結局私は、君の考えの根本を変えることは出来なかったんだ」 「何の話?」 「……生きたいとは、言ってくれないのだろう?」  獲物を持って一時的に戻ったルードで、報告に訪れた集会用の雪洞。中には酋長とルカがいて、多分、これからのことを話していたのだと思う。  立ち聞きをするつもりはなかったが、ふたりの話が終わるまではと入り口で立ち止まった。 『君は、アクロとともに生きたいとは思わないのか』  嗚呼、とアクロは空を仰いだ。  それを問うた酋長は悪くはない。きっと想像も出来ないだろう。初めて会ったあの夜に、金の目をぎらつかせ生きることにしがみついた子供が、本当は何もかもどうでもいいと思っていることなど。  思わない、と答えたルカも、悪くはない。きっと想像もしないのだ。その言葉が鋭い刃となる程、自身の存在が誰かの心に強く、鮮烈に焼き付いていることなど。  ともに行こうと、何度も言いかけた。  実際酋長が口にしていなければ、一縷の望みに賭けていたのはアクロだったかもしれない。  しかし、結論は変わらなかっただろう。自分が言っていれば、など思い上がりも出来ない程、ルカの答えは簡潔で、迷いがなかった。  小鳥は、アクロの側でほんのひととき、疲れた翼を休めただけなのだ。  彼には彼の目的があり、それこそが、彼の生きる理由なのだから。 「────……やっぱり、聞いてた」  ルカは小さく嘆息する。 「気付いていたのか」 「アンタが一時的に戻ってたって聞いたし、その時の酋長の様子から、そうかもって思っただけ」  あの後、ルカとふたりきりで話が出来る時間はなかった。敢えてその時間を作らなかったと言った方が正しい。  ふたりきりで顔を突き合わせたら、大人げない恨み言が口をついて出てしまいそうだった。誰も好き好んで、情けない姿を晒したくはないだろう。  そうして、今日まできてしまった。  もう、最後だ。 「……アンタのことは、すきだよ」 「…………」 「だから、忘れて欲しいよ」 「…………無茶を、言うな」 「すぐには無理でも。ここは賑やかだから、気分も紛れるだろ、大丈夫だよ」  ひとの気も知らず、簡単に言ってくれる。  夜が明けなければと。  ありえもしない、子供染みた願望を抱く程、アクロが思いを焦がしているなど、ルカは考えもしないのだろう。  そう思ったら、ひどく恨めしい気分になった。 「……君は? 君は、もう大丈夫なのか。縋るものがなくても、立っていられる?」 「アンタが、いっぱい抱き締めてくれたからね」 「……そうか、失敗したな。もう少し、控え目にすればよかった」  力なく笑えば、ルカは不思議そうにアクロの背後を覗き込んだ。 「どうかしたか?」 「アンタには尻尾なんてないよな……?」 「う、うん? 流石に尾があったら、色々問題だと思うが……」 「いや、ごめん、そりゃそうだ。どうしてそんな風に思ったのか……忘れて」 「…………」  もし自分に尾があったら、それはこの腕よりも素直に動いただろうか。彼を困らせるだけの本音を飲み込む口よりも雄弁に、彼を引き留めただろうか。  そう思ったら、自分に尾がないことがとても残念に思えた。 「ルカ……」 「ん」 「君と出会えてよかった」 「……うん、おれも」  ◇ ◇ ◇  翌、早朝。 「ねえ、本当に一緒に行かないの?」 「やだあ、ルーシャ、いっしょに行こうよお」  大泣きするフィヤテロとアドナドを前に、ルカは途方に暮れていた。  日の出前から出立の準備を始めていたルードは日の出とともに馬獣の列となり、移動を開始した。一行はこのまま森を横断し、国境へ向かうという。ルカは一行とは逆方向へ、つまり元来た町へ戻るつもりでいる。  見送りくらいは最後までするかと、馬上の人となった一行を見守っていたのだが、列の中程、成人前で個人に馬を与えられていない子供たちが乗る馬車から慌てた声がかけられた。 『ルーシャ! こんなところにいた! 早く乗って、置いて行かれちゃうよ!』  どうやら子供たちは、ルカもともに行くものだと疑いもしなかったらしい。  おれは行かない、と言った途端の大惨事。馬車から雪崩のように降りてきたフィヤテロとアドナドが大声で泣き、メレオと、彼と同い年のコーレンが何で黙ってたと怒り出す。それらの声に驚いたのか、双子の赤子まで火がついたように泣く始末。泣き声と怒鳴り声の大合唱となってしまった。周囲の大人や、子供たちの中では年長のカラヤが宥めてはいるが、効果は薄そうだ。  わざと黙っていたわけではないが、こんなことになるとは思わなかったのだ。伝える必要を感じていなかった。  子供たちにはそれが悲しく、また腹立たしかったのだろうが、ルカにはそれがわからない。ただただ困惑して途方に暮れるばかりである。 「その辺にしておやり、子供たち。ルーシャにはルーシャの事情があるんだ」 「お前たちに黙っていたのは、我らも同罪だしな」 「長様!」 「アクロ兄!」  騒ぎのせいで止まってしまった一行の最後尾方向から、酋長とアクロがやって来る。  アクロは子供たちの近くで馬から降りると、泣いているふたりの頭を二度三度と撫で叩いた。 「長様とアクロ兄は知ってたんだな、何で教えてくれなかったんだよ!」 「教えたら、今のように彼を困らせただろう、お前たちは」 「ぐ……っ」 「はははっ、困らせている自覚はあるようで結構だ。お前たちが駄々をこねてもルーシャの意思は変わらないし、我らの旅程も変更はない。さあ、進め、日が暮れるまでには森を抜けるんだ。道草を食っている暇はないぞ」  酋長が号令をかければ、止まっていた一行は移動を再開する。子供たちも、渋々馬車に戻っていった。 「うぅ……ルーシャ、またね、また会おうね、きっとだよ!」 「すぐでもいいよ、すぐに、追いかけてきてくれてもいいからね」 「顔を出すな、危ないぞ。さあ、メレオも早く乗りなさい」  最後まで残っていたメレオは、じっとルカを睨み付けている。しかしルカが堪えた様子もなく肩を竦めると、やがて矛先を変えた。 「アクロ兄の、ばーーーか!」 「……は?」 「…………」  言い捨てて馬車に乗り込むメレオを、ルカはぽかんと見送る。アクロを見上げれば彼は苦笑とも、自嘲とも取れる笑みを口元に浮かべていた。  過ぎ去り際の酋長が、力強くその背を叩く。 「…………長殿」 「ははっ、それではな、ルーシャ。達者で」 「どーも」  一行は酋長を最後尾に、若葉芽吹く森の中を進んだ。  アクロを残して。 「……行かないの? 置いていかれるぞ」 「そうだな」  彼は硬い声で首肯する。 「私も、あの子らのように泣き喚けたら、少しは踏ん切りがつくのだろうか……」 「え、何? 聞こえない」 「何でもない」  ふ、と吐き出す息で優しく笑った。その笑みに、やはり彼が好きだな、と思う。  だがもう、お別れだ。  ルカは意識をして、口角を上げて見せた。 「どう? これ、ちゃんと笑えてる?」 「……ぎこちない。泣いているみたいだ」 「そっか。慣れないことはするもんじゃないな」 「きっと、いつか慣れる。笑うことに慣れるくらい、君は幸福になるべきだ」  アクロは腰帯から1本のナイフを取り外し、ルカの手に握らせる。 「持っていってくれ」 「……ナイフなら、もうあんたがくれたやつがあるけど」 「違うんだ。これは、」  首を振るアクロは、言葉を探して言い淀んだ。  ルカは既にアクロから、実戦用のナイフと弩の一式を譲り受けている。ではこれは、戦闘のための武器ではないということか。 「大事なもの?」 「ああ」  自分に、そんなものを受け取る資格があるのか。浮かんだ疑問は、上げた顔を抱き寄せられ、飲み込まざるを得なくなった。  強く、痛い程強く、抱き締められる。  鼓動が、力強く頬を打った。 「……ルカ、君の旅路に、幸多からんことを祈る。……元気で」 「…………アンタもね」  体を離したアクロは、一度も振り返ることなく、ルカの元を去っていった。  存外、呆気ない。だが、そんなものなのだろう。  その背が見えなくなるまで見送ったルカは、手元に視線を落とす。  骨で出来たナイフ。  見覚えはあった。アクロの腰帯に、いつもくくりつけられていたものだ。アクロは何本かのナイフを使い分けていたが、これを使っている場面は見たことがない。  鞘は革製で、繊細な装飾が施されている。さらしが巻かれた柄の先端は丸くくり貫かれ、そこにいくつもの古い加護飾りが結わえられていた。  これは、本当に、代えの利かない大切なものなのではないだろうか。  眉をひそめ、ナイフを鞘から抜く。  鋭く研がれた片刃の刀身。そこに、文字が刻まれていた。  アクロが教えてくれた、共用文字ではない。  恐らく、(まじな)い物に使われていたものと同じ、ノマ固有の文字なのだろう。 「よめない……」  アクロの真意が、そこにあるかもしれないのに、ルカには読み取ることが出来ない。 「よめないよ、アクロ……」  それが、無性に悲しかった。

ともだちにシェアしよう!