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煌めくルビーに魅せられて番外編 吸血鬼の執愛30
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瑞稀くんが研究室の扉の前で立ち止まり、手にしていた紙袋を差し出してきた。
「これ……差し入れです」
「ありがとう。嬉しいよ」
受け取ったふりをしながら、僕の意識は彼の指先に集中していた。白く細い指。そのすぐ下を流れる血管の淡い脈動。ほんのりと香る人間の体温。そのすべてが、僕の理性をひどく削る。
(――駄目だ、見すぎるな。彼に気づかれる)
目をそらした瞬間、瑞稀くんが少し首を傾げた。
「玲夜さん……顔色、悪くないですか?」
それはとても優しい声だった。僕のことを心配してくれているのが伝わってくる。それと同時に、血の味を思い出す。あの甘さ――舌に触れた瞬間、世界が赤く染まるような快楽。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと疲れているだけ」
「だったら座ります? 飲み物、淹れてきましょうか?」
そう言うと、瑞稀くんは迷いなく室内へ足を踏み入れた。
(駄目だ、近づかないで。そう言いたいのに、言えない……)
瑞稀くんの気遣いが胸の奥にひどく染みて、言葉が出なかった。固まる僕を尻目に、彼は小さなキッチンに歩き出す。
湯を沸かす音。ティーバッグを袋から出す布の音。その一つひとつが、僕の耳を過剰に刺激する。
吸血鬼の感覚は夜になるほど鋭くなる。そして今は――最も理性が脆くなる時間帯だった。夜は、完全に訪れていた。
喉が熱い。胸の奥で、獣のような何かが蠢いている。
(――落ち着け。ここで噛んだら終わりだ。僕が僕じゃなくなる)
けれど、すぐに気づく。他人事のように頭が言い聞かせているだけで、体は聞く耳を持っていない。
瑞稀くんがマグを手に戻ってきた。
「玲夜さん、どうぞ。熱いので気をつけてください」
ふわりと漂った湯気に乗って、瑞稀くんの甘い香りが僕の鼻腔をくすぐる。
「あ……」
次の瞬間、自分でもどうしてそうしたのかわからないまま、彼の手首を掴んでいた。瑞稀くんの目が大きく見開かれる。
驚きと、ほんの少しの怯え。
「れ、玲夜さん……?」
掴んだ場所の脈が、僕の指先で跳ね続ける。その鼓動が、僕の精神を一気に破壊する。
(ああ……ここを噛めば……)
理性が、薄い紙のように破れそうになる。白い肌、細い首。こんな近くにある。
瑞稀くんは恐るおそる口を開いた。
「あの……痛い、です」
その一言で、ようやく我に返った。
「あ……ご、ごめん」
手を離した瞬間、血の味が頭の中で炸裂する。この間飲んだ一口が、じわりと覚醒して僕に暴れかかる。
視界の端が赤く染まりながら牙がにじり出るように疼き、唇が熱を帯びる。
(駄目だ。今噛んだら、二度と戻れなくなる)
「瑞稀くん……今日は、もう帰ったほうがいい」
「え……?」
「僕が……抑えきれなくなる前に」
喉から漏れた声は酷く掠れ、震えていた。吸血鬼の本能が表に出始めているのが、自分でもわかる。
瑞稀くんは僕の顔を見た瞬間、息を詰まらせた。それでも逃げずに、ゆっくりとバッグを握りしめる。
「……わかりました」
けれど、扉へ向かう前に一度だけ振り返り——不安げに、心配するように言った。
「……玲夜さん。ひとりで大丈夫ですか?」
その優しさが、なにより僕を苦しめる。欲しくて、奪いたくて、壊したくて、守りたくて——矛盾した感情が胸で暴れる。
「早く……行ってくれ」
掠れ声でやっと絞り出すと瑞稀くんは小さく頷き、扉を開けて去っていった。扉が閉まった瞬間、僕は壁に手をついて肩を震わせた。
「……あぶなかった……」
牙が完全に出ていた。あと数秒遅れていたら、彼の柔らかい喉元に吸い付いていた。
(――僕の理性なんて、もう紙一枚だ)
闇に沈んだ研究室で、僕は自分の指を噛んで血の味を誤魔化した。それでも足りない。瑞稀くんの血の味とは比べものにならない。
だからこそ、もう決めてしまっていた。次に彼が来たとき、僕が僕でいられる保証は、もうなかった。
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