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第1話

 冬の夜のことだった。  狼の遠吠えが物凄いのを聞きながら、兄のエースが狼に連れて行かれたのだと義父に言い聞かせられたのをよく覚えている。  義父の家に来る前は、兄と二人で誰かに連れられてひもじい思いをして暮らしていたのをうっすらと覚えている。その家で兄と俺はいつも一緒で、とても楽しかった思い出が幾つもあった。  その家を出て義父の元に来る前のとある夜、狼に襲われて兄が食われた。冬の山間の小さな村から、麓の大きな街に来る間に起きたことだと俺は覚えている。  冬の山道の谷あいに風が強く吹き、谷を駆け抜け馬橇の鈴の音が心の中から聞こえてくる。その鈴の音を思うと、俺の心にはいつも冬が来て霜ついた。  兄のエースはあの冬の夜に狼にやられ、それを義父が狼に連れて行かれたと優しい言い方で俺に説明してくれたのだ、と思っていた。  小さな写真が家に残っている。オレより背が高くて細っこい、勝気な笑い方をする。顔似てないなとある時期までは思っていた、親しい兄。  俺が学園を卒業したその目の前に、その男が現れるまではそうだった。 「久しぶり、レイド。元気そうだ」  軽薄そうな男から声を掛けられて見上げた。背が高い、アイスブルーの目。 「誰ですか?」 「え?お前のお兄ちゃんだけど?」  俺の兄は冬の夜に狼に食われたが。  軽そうな表情と話しかたの男は、どこかの騎士団員がしてるようなありきたりな短髪で、なぜ騎士団員と思ったかというと、格好と体格がそうだからだ。顔の印象は釣り眉垂れ目。耳にピアスをつけている。  笑い方も唇をゆがめて、どこか軽かった。 「お前、今月で学園卒業したんだろ?だったらそろそろ俺と話したっていい年頃だな、なにせもう大人なんだし」 「……お前と口をきく気はない」  こういう男は初めに態度を示さないと、俺は断固とした態度を取った。なのに男はつらつらと俺の前で話し始めた。 「あ、そうそう。今のオレの名はアディシア。エース・W・アディシア」  名前と苗字の間に文字がつく、この男は獣種だ。  兎の獣種ならRabbitのR、猫ならCatのCがつく。エースの場合は、W。|Wolf《狼》のWだ。  いや、そこじゃない。こいつなんで兄さんの名前を知ってるんだ?  俺が見ているとエースは人間の耳の上の頭の先に、ぴょこんと狼色の大きな獣耳を立ててぴこぴこ動かした。 「そう。オレ、狼種なんだよ。成人している」 「それが?」 「成人した狼種が気にするのはつがいのことだろ」 「へえ、それが?」 「なあ、オレお前の勘に触ることした?さっきからつれないな~強気なのもいいけど」  強気に怒って見せることにしたら、エースは嬉しそうな表情をする。逆効果か、くそ。 「余りしつこいと騎士呼ぶぞ!」 「呼んでもいいよ。家族の話ならお互いよく話し合えってことになるだろ?オレはそれでも別にいいし、レイドと長話できるの嬉しいから。お前あの頃、六歳だもんな。というと十年、いや十ニ年ぶりか」 「死んだ兄貴の真似するのやめてください」 「え?生きてるよ、オレ。なに、ローラシウスさんはちゃんと話してなかったの?」  義父が話してなかったか?  いや、義父は話した。兄は狼の所に行ったと、頻繁に言っていた。  俺は少し考えた。  寒い凍える冬の日に暖炉の前で「お前の兄は狼に連れて行かれた」と何度も、冬を迎えるたびに聞いた。俺は冬の日の橇遊びの時に本物の狼を何度も見たことがあり、あの狼たちのどれかに兄が食われたのだとばかり思っていた。  ローラシウスの家に引き取られるまでの俺と兄は貧乏な家でやせっぽっちだったから、さほど獣たちの腹を温めることはできなかっただろう、とも思った。  その兄が?  本当に「狼に連れて行かれた」のか?  狼に連れて行かれた、つまり狼種の家に引き取られた?  いや、まさか。それじゃあなぜ俺はローラシウス家にいるんだ、エースの言葉では俺たちは兄弟だ。俺は狼の血は引いていないが、どういうことだ?  黙り込んだ俺の前で、エースは耳をぴこぴこさせて余裕のある表情で俺を見ていた。 「触っていい?」 「は?」 「いや。久しぶりの弟の感触はどんなものかなと思って」 「触るって。どこに触る気だ」 「ハグしたい」 「嫌だ」 「いいだろ、ハグだけ。お前が大きくなったことを体で知りたいんだ、十二年も離れていたし……お前がローラシウスさんの家、俺がW・アディシアの家に引き取られたことは記録がある。獣種は自分の種族の事にうるさいからな、大抵のことは獣種公文書館でわかる。おまけに、あのローラシウス家だからな」  エースの言う通り、俺の引き取られたローラシウス家はこれまでイオトリア王国で様々な獣種との交渉を引き受け、交渉の先頭に立ってきた経歴がある立派な家柄だ。  特に義父のラタナスは、鹿種との交渉で国に功績がある。鹿種も一枚岩じゃない、鹿種はあちこちの地域で種族が違う。その鹿一族と粘り強く交渉を続け、彼らに税を払わせることに成功した。数が多いから国も大金が入って嬉しいはずだ。  義父がそうしたから俺も、たとえば数の多い兎種などとの交渉事で功績を残したいと希望を胸に抱いた学園の卒業式だった。  直後の俺のところにエースが来た。  桜舞い散る校門外で、俺とエースは見合っていた。  狼色の髪とアイスブルーの目がにこやかに俺を見ている。兄の目の色はもっと濃かった。 「あのさ、あんた、どういう……」 「おやアディシア君じゃないか」 「あ、どうも!ローラシウスさん!」  義父が帽子を取ってエースに挨拶をしたので、俺は目をまん丸に見開いた。驚いたのだ、義父よりでかいエースが腰を折るようにして義父のラタナスに会釈している。  顔見知りのようだ。ということは、家の外で会っていたのか?あの二人が? 「ローラシウスさん、ひどいすよ。オレの事レイドに話してなかったんですか~?」 「ああ、卒業してから話そうと思っていたよ。なにせまだ子供の内からつがいなんて重い話はしない方がいい。狼種との話だから慎重にと思ってね」 「そうなんですか?オレもレイドに会えるのを待ち焦がれていたもので」  番?聞いていない。  俺が驚きのまま黙り込んでいると、義父が俺を手招きした。優しい顔をしていて、その顔を見ると少し落ち着いた。 「ああ。丁度いい機会だった、レイド、おいで」 「は、はい」 「この人がエース。エース・W・アディシアと言って、狼種の家に養子に行ったお前の兄さんだよ」  がつん、と頭を殴られたような衝撃だった。  改めて聞かされると混乱してしまう。義父はつまり、そう言う意味で「狼に連れて行かれた」と言ってたのか?つまりエースは俺の兄。まごうことなき、あの頃の兄なのだ。  釣り目垂れ眉にあの頃の兄の面影を探した、何となく大きくなったらこうなるかな?という気持ちは分かるけれど、あまりにも人間性が違い過ぎて。  俺の目の前で桜の花弁が舞い、エースのアイスブルーの目が楽し気に俺を見ている。 「すみません、義父さん。俺はてっきり、兄は狼に食い殺されたのだと」 「ええ?そんなこと私は言っていないよ。狼に連れて行かれたと言っただろう?」 「だって、冬の日の狼の遠吠えがすごい日に、義父さんは兄が狼に連れて行かれたと何度も言っていたので……それに、俺が獣種のことを知ったのは、その何年か後の事ですよ」 「ああ、うん……?そうだったかな」 「そうですよ」 「勘違いしてたのか?道理で冷たいわけだ!」  エースが笑っている。でも、本当に兄なのかまだ分からないと俺は、俺は狼種じゃない。俺たちの血は繋がっていない。義父が俺の頭を控えめに撫でてくれた。 「それはレイドに悪いことをしたね……ずっと勘違いしていたんだね」 「はい」  俺の戸惑いを見透かすような笑みを浮かべ、エースはオレの肩を叩いた。その感触は嫌ではないけれど、白い歯を見せ、ピアスや目立つ指輪をつけているのはいかにも軽薄な騎士だった。 「誤解が解けたなら行こう、ローラシウス家に。オレのことを少しでもレイドに覚えておいて欲しい……」  この日を俺は忘れないだろう。  兄エースが騎士となって戻って来た卒業式の日を、ずっと。

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