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プロローグ

◆◇◆ 「おはようございまーす」  早朝の冷えた空気の中で、のんびりとした声が響き渡った。咲人はダイニングテーブルに用意してもらっていたクラヴィーアを飲みながら、ネクタイを締め直している。  およそ議員秘書とは思えない、のんびりとした朝の風景だった。 「咲人、そんなにゆっくりしていて大丈夫? 今日の予定は?」  僕は、咲人のマイペースさが愛しいので、見ていると自然に顔が綻んでいった。高レベルのセンチネルであるのに、こんなに穏やかに暮らせるようになったのは、晴翔が完成させたクラヴィーアのおかげだ。  今、まさに同じようにその効果に感謝しているペアは世界中にたくさんいるだろう。  望まないパートナーとのセックスに疲れ果て、命をたった者も少なくなかった。それすら望めず、ゾーンアウトしてしまってわけもわからないままに飛び降りて亡くなった者も多い。  咲人はそのどちらになることも無かった。野本という穏やかなパートナーと共に暮らし、僕の議員としての生活をサポートするようになってくれた。 「兄さん、今日は午後からの会食まではお休みにしてありますよ。お会いになるんでしょう? あの方に。何年振りですか?」  咲人が警察を辞めて僕の秘書になった時に、僕は長年の恋人の存在を知らせた。彼には、いつ会えるのか全くわからないため、しばらくの間は咲人が僕を思って怒ってしまうことも多かった。 『大切だと思っているのに、どうして約束が守れないんですか。一体どこで何をしているんです。他の人には言えなくても、兄さんには言ってもいいはずでしょう!?』  咲人は三年前までの家族との距離を埋めようとしているのか、僕と晴翔のことをとても大切にしてくれている。何も包み隠さず、誠実に生きてきた咲人には、僕のパートナーの生き方などどうやったって受け入れられないだろう。 ——しかも、彼が抱えている秘密を知ったら……。その時はどう言われるだろうな。  優しい弟の気持ちが嬉しい反面、自分の大切な人を詰られるのはなかなか辛いものがある。でも、それももうすぐ終わるだろう。今日、ようやく海斗は帰って来る。  もうすぐ会える。二十八年間隠した関係だ。僕はまだ小学五年生だった。センチネルとガイドの関係性が無かったら、海斗は捕まっていたかもしれない。彼は当時十七歳だった。  それからずっとパートナーとしてのやり取りを続けている。その間、ほとんど会えていない。隙間を縫って顔を合わせ、温もりを確かめ合うくらいは出来た。  ただ、一旦仕事に向かうと全く連絡を取ることが出来なくなるから、僕はひたすら寂しさに耐えるしか無かった。  でも、それはきっとお互い様だし、彼はセンチネルである以上、他の人からのケアを受けなくてはならなかったはずで、苦痛だけならきっと海斗の方が僕の何倍も感じていたに違いない。 「そうだね、何年振りだろう。時間を作ってくれてありがとう、咲人」  待ち合わせのホテルに着くと、咲人は涙を浮かべながら「ではお昼にお迎えにあがります」と言って去って行った。運転席には野本がいた。  二人もまた、仕事が変わってからは顔を合わせる回数が減ってしまっている。結婚しているとはいえ、寂しいことには変わりないだろう。  今日はこの貴重な時間を有効に使えるようにしてもらった。これからデートなのだろう。咲人にも、久しぶりに楽しい一日を過ごしてもらいたくて、野本には有給を取ってもらっていた。 「うん。また後でね。野本、咲人を頼むよ」  僕が声をかけると、野本は運転席から顔が見えるように首を思い切り伸ばして「はい。お任せください」と答えた。そのキリッと引き締まった顔に笑顔を返して、僕は海斗のもとへと向かった。  僕はフロントに手を挙げて、そのまま通り抜けた。事前に事情を説明してあるため、チェックインは池内の人間が済ませてくれている。人目につきにくいエレベーターに乗り、最上階へと辿り着いた。  毛足の長いカーペットのフロアを、人を払って一人で歩く。ゆっくりと、彼の待つ部屋へと近づいて行く。 ——どうしよう。心臓が破けそうだ。  ようやく会える恋しい人を思い浮かべて、僕は珍しく胸が高鳴っていた。こんなに動揺するのは、何年振りだろう。自分が池内の、野明未散の子だと知らされても、これほど心が乱れることはなかったのに。  一度立ち止まり、胸に手を当てて深呼吸をした。肺の奥まで空気を行き渡らせ、思い切り最後まで吐き出す。そして、顔を上げ、表情を整える。背筋を伸ばして、少しでもいい状態の自分を見てもらいたかった。  心が凪いだら、再び歩く。たどり着いた部屋を確認し、軽快な音を立てて到着を知らせた。待ち焦がれてくれていたのか、ノックとほぼ同時に、部屋の中からパタパタとこちらへ近づく足音が聞こえて来た。  その足音は軽快で、僕の到着をとても喜んでくれているようだった。 ——やっと会える……。  ドアの向こうで、ノブに手がかかる音がした。オートロックが解除され、厳重なプラチナロックがガチャリと音を立てて解除される。重厚な扉がゆっくりと開く、その先には……。 「澪斗っ!」  僕に返事の暇も与えないほどに、会いたくてたまらなかった彼が飛びついて来た。そして、息もつけないほどにきつく抱きしめてくれ、キスの嵐が巻き起こる。 「会いたかった……。澪斗、会いたかったよ」  僕は彼の背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。そして、その存在を、温もりを、香りを身体中で確かめた。 「僕もです、海斗さん」    そして、海斗さんへとキスを返していく。お互いに絡み合ったまま、後ろ手にドアを閉めた。そのままお互いにネクタイを引き抜きあって、服を脱ぎ捨てた。 「ついたばかりでごめん、俺さっきまで捜査中だったんだ。ケアしてもらえるか?」  そう言って僕に深いキスをくれた。よく見ると、身体中に小さな傷があった。潜入捜査中に出来たのだろう。その傷の一つをそっと舐めながら、「いいですよ。じゃあ、バスルームへ行きましょう」と言って、僕は海斗さんを抱き上げた。

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