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番外編.6

 難波慶は初めて訪れるであろう建物の前で足を止めた。住宅街に馴染んでいる二階建ての一軒家は、慶自身が暮らしている自宅よりはこじんまりとした風貌だったが、家族三、四人で暮らすには何不自由はないだろう。中々にいいところに住んでいるんだな、という感想を勝手ながら慶は抱いた。  インターホンを押すとすぐに扉が開き、涼井悠哉が顔を覗かせた。学校以外で会うのは夏休みのあの二日間だけであったため、何だか新鮮な気持ちになる。 「よう、彰人の具合はどうだ?」 「良くなるどころかむしろ今がピークっぽい、とりあえず上がれよ」  悠哉の後に続き慶は足を進めた。まさか悠哉の家へ訪れる日が来るなんて、慶にとっては予想外の展開だった。自身の恋人である柚井陽翔、彼の親友こそがこの男であり、陽翔に対して異常なまでの想いを寄せている悠哉から恋人というだけで慶はかなり嫌われていた。言ってしまえば嫉妬なのだろう、親しい友人に恋人が出来たことに対する不満を悠哉は抱えており、その不満が態度として完全に出てしまっている。そしてそれだけならまだ良かったのだが、悠哉とはそもそも相性が悪いみたいで、陽翔のことが絡んでいなくとも何度か衝突していた。  恋人の親友に嫌われている事実は決して良い事ではないが、慶自身も嫌われていることは重々承知しており自分の中でも馬が合わない思っていたため特に好かれようとも思わなかった。相性云々に関してはもはやどうしようもないのだ、そのため慶は悠哉と親しくなる事を早々に諦めていた。  そんな悠哉が慶を自宅に招いた、その理由は悠哉の恋人であり慶の親友でもある一人の男、神童彰人が原因だった。今日は前もって彰人と出掛ける約束をしていた。しかしどうやら体調を崩してしまったらしい彰人から謝罪の連絡が昨日の夜になって届いたのだった。彰人は元々一人暮らしであり、看病してくれる存在が身近にいなかった。だから今日、慶は気を遣わせて彰人の家へ看病しに行こうとしたのだが、彰人は自宅ではなく恋人である悠哉の家に居た。半同棲のような二人の関係からすると、彰人が悠哉の家へ居るのは何らおかしい事ではない。あまり人と関わろうとしないあの彰人に看病してくれる存在ができたことに、親友として慶は密かに嬉しく思った。  悠哉がいるなら安心だろうと思った慶だったが、どうせ看病に来るつもりだったのなら飲み物や果物などを買ってきてくれと悠哉に頼まれたため、こうして悠哉の家まで足を運ぶことになったのだった。  「ほら、これ」と水やポカリ、りんごなどが入ったスーパーの袋を悠哉へと手渡す。 「ん、サンキュ」 「なんか手伝うことあるか?」  せっかく来たのだから何か出来ることはないかと尋ねると、冷蔵庫に飲み物を閉まっている悠哉は「じゃあお粥作ってて、俺彰人の様子見てくるから」と口にした。 「お粥…?」 「は?なんだよ、流石のお坊ちゃんでもお粥は知ってるだろ?」 「いや、そりゃ知ってはいるけど…作れるわけないだろ」  冷蔵庫を閉めた悠哉は、白い目で慶の事を見た。いやしかし、そんな目で見られても慶は困るだけだった。今までの人生お粥を作るどころか、米すら炊いたことがない慶にとっては悠哉の要求は難解すぎた。 「お前お粥も作れねぇのか」 「しょうがないだろ、むしろお粥を作れる男子高校生の方が少ないと思うぞ」  悠哉は一つため息をつくと「だったらりんごでも剥いててくれ」と呆れたようにりんごを慶へと投げた。 「おわっ、お前危ねぇな」 「包丁ここにあるの使っていいから」  悠哉に言われた通り包丁を手に取り、慶は自身の手に持ったりんごを見つめた。お粥も作ったことがなければ、慶にはりんごすら剥いた経験もなかった。とりあえず適当にやってみるか、と手を動かそうとした時「お前っ…馬鹿…!」と悠哉に腕を掴まれた。 「えっ?!なんだよ急に…っ?」 「なんだその持ち方危なかっしすぎんだろ…?」  悠哉は慶から包丁を取り上げると「こっちはいいから彰人の様子でも見て来い」と邪魔者を追い出すかのような瞳でそう言った。 「悪かったな危なっかしくて」 「二階行ってすぐの部屋に彰人寝てるから」 「分かったよ」  何だか腑に落ちなかったが、悠哉や彰人のように自炊の経験がない自分が役に立てない事が分かってしまったため大人しくリビングを出て行った。  部屋の前まで来た慶は扉を二回ノックした。しかし彰人からの返事はない、寝ているのだろうかと思い彰人を起こさぬようにゆっくりとドアノブをひねる。 「彰人…?」  ベッドに近づくと、大柄な男が寝ている姿が目に入る。やはり寝ているのだと察した慶はとりあえずどの程度熱があるのか確かめるため、彰人の肌に触れようと手を伸ばした。 「…悠哉…?」  薄く瞼を開いた彰人は、荒んだ息で慶を見つめた。赤らんだ頬に朦朧とした瞳、見るからに体調が悪いであろう彰人、恐らく意識が朦朧としているせいで自分の事を悠哉と勘違いしているのだと慶は察した。現に彰人のこんなに緩みきった表情見た事がなかったため、恋人にはこんな表情もするのだと少し意外に思う。 「彰人、悪いが俺はお前の大好きな悠哉じゃない、慶だ」  頬を緩め慶の顔をじっと見つめていた彰人は、ハッとしたように少しだけ瞳を見開くと「なんだ…お前か…」と見るからにがっかりしたように片手で自身の顔を覆った。 「せっかく見舞いに来てやったのにそんな嫌そうな顔されてもな」 「別に嫌そうな顔はしてないだろ」  そう言った彰人は、苦しそうに何度か咳き込んだ。顔を見ただけで相当辛そうな様子だと分かってしまうほどであり、そんな彰人は起き上がることすら出来ないようで「悠哉は…?」と顔だけ横に向けた。 「飯作ってる、直に来るだろ」 「そうか…はぁ…」 「とりあえず熱測れよ、体温計は?」  キョロキョロと辺りを見渡した慶に「棚の上にある」と彰人が指さす。棚の上に置いてあった体温計を手に取った慶は、ピッとスイッチを押すと彰人に手渡した。 「さっき測った時は何度だったんだ?」 「三十八度以上あった」  大人しく体温計を脇に挟んだ彰人は、普段学校生活を共に送っている男とは思えない程弱っており、何だかいたたまれなくなる。ピピピッという機械音が鳴ると、彰人は脇から体温計を抜き出し慶に渡した。 「おお…っお前三十九度近くあるじゃんか、薬は飲んだのかよ?」  体温計に表示されている数字を目にした慶は驚きの声を上げた。ここまで熱が上がっているのなら辛そうな彰人の様子にも納得がいく。 「朝に飲んだ」 「そうか、でも全く下がってないしむしろ上がってるよなこれ」  慶自身風邪というものをひいても精々微熱程度にしか熱が上がったことがなく、そこまで辛い経験をした事がなかった。だからこそ今の彰人の状態が心配であり、このまま三十九度を超えたらこいつは身体から湯気を出し始めるのではないか、という馬鹿馬鹿しい妄想までしてしまう始末だ。 「寝てれば下がるだろ…」 「そうか…起こして悪かったな、それじゃあ悠哉が来るまで寝てろ」 「…ああ」  するとタイミングのいいことに、コンコンというノックとともに悠哉が部屋へと入ってきた。「彰人、大丈夫か?」と心配そうな瞳で彰人に声をかける悠哉に、彰人は身体を起こすと「ああ、大丈夫だ」と柔らかい笑顔で答えた。 「全然大丈夫だないだろお前、好きな子前だからって強がんな」  今さっきの慶に対する態度とは一変した彰人の態度に、この男はどこまで恋人の事が好きなのだと呆れてしまう。起き上がることも辛いだろうに悠哉の前では強い自分でありたいんだろう、全く困った男だ。 「うるさいぞ慶…」 「はぁ、悠哉も来たし俺は先に下戻ってるぞ」 「ああ、適当にしてて。テレビでも見てくれていいから」  「分かった、なんかあったら言えよ」と悠哉にひと声掛け、慶は部屋を出ていった。リビングへと戻った慶は一息つくと、放置された洗い物が目に入った。結局何も役に立つことが出来なかったため、これぐらいやらないとなと思い立った慶は袖を捲りキッチンの前に立つ。  蛇口を上げお湯を出しながら、熱のせいで偉く参っていた先程の弱った彰人の姿を思い出す。彰人と出会ってまだ三年程だが、彰人が風邪を引いた場面に遭遇したことは一度もなかった。頑丈な体つき通り滅多に体調を崩すことがなかった彰人は、これといって弱みを見せる事がなかったのだ。これは勝手な妄想だが、彰人の育った環境がそうさせたのでは無いかと慶は思っていた。  幼い頃から孤児院育ちで高校からは一人で暮らしている彰人は、周りに頼りになる大人がいなかった。誰にも頼ることなく一人で生きていた彰人にとって風邪など引く暇はなかったのでは無いだろうか。しかし今は悠哉という自分よりも大切な恋人が出来た。弱っている自分など見せたくないという気持ちもあるのだろうが、心の奥底では悠哉に甘えたいという気持ちがあるのだろう。それが高熱を出した理由か定かではないだろうが、甘えられる相手が出来た事が彰人にとってどれほど大きなことか、身をもって知っている慶からしたら悠哉に感謝しかなかった。普段は可愛げの欠けらも無い悠哉だが、彰人が愛してやまない恋人であるのだから自分に対する雑な態度も許してやらないとな、と密かに思った。     「うわっお前また熱上がったか?お粥作ったんだけど食べれそう?」  彰人の頬に触れた悠哉は驚きの声を上げた。今朝触った時よりも手に伝わる熱は高く、より悪化しているのだろうと悠哉は眉を寄せた。  半同棲中のような二人は、前日も彰人が悠哉の自宅へと泊まっていた。昨日からなんとなく彰人の体調が悪そうなのは察していた悠哉だったが、今朝の彰人の様子を目の当たりにしてかなり驚いたのも事実だった。顔を赤くさせ寒そうに縮こまっていた彰人は、悠哉を丸ごと包み込んでくれるように逞しい普段の彰人とは違い、まるで幼子のようにか弱く見えた。当たり前だが彰人でも風邪をひくことがあるんだな、と彰人には悪いがどこか冷静な思考を悠哉は抱いてしまった。 「悪いが今は無理そうだ…」 「でも何かしら腹に入れないと治るもんも治らないぞ?ひと口だけでもいいからさ」 「…本当に食欲がないんだ…」  弱々しく眉を下げた彰人、あの彰人が悠哉の作った料理を断るなど誰が予想出来ただろうか。普段の彰人だったら悠哉の手料理ならばどんなものでも完食してみせるのだが、今は一口も口に出来ないと言う。食欲がないという彰人の言葉が心からの本音なのだとよく理解出来た。 「食欲がないって…そんな事言ってたらいつまで経っても治らないぞ、…はぁしょうがないな」  悠哉はお粥が入っている器とスプーンを手に取ると、スプーンでお粥を少量掬い彰人の口元まで持っていった。 「…っ悠哉…?」 「ほら、食べさせてやるから食えよ」  悠哉は奥の手を使うことにした。自分でこう思うのもなんだが、あの彰人だ、あーんに抵抗するはずがないのだと悠哉には断言出来た。悠哉は「ほら」と催促するように彰人の瞳を見つめた。  彰人はゆっくりと口を開け、スプーンに口をつけた。ごくりと彰人の喉仏が上下すると「よし、偉いな」と悠哉は微笑む。 「こんな時でもお前の作ったものは最高に上手いな」 「はい、じゃあ後は自分で食えよ」  悠哉が彰人にスプーンを手渡すと、彰人は「えっ…?」と目を丸くした。なんだこの反応は、と一瞬思考が停止した悠哉だったが、すぐに彰人の考えが分かってしまったため、ふっと笑みを零してしまう。 「なんだ?まだ食べさせて欲しいの?」 「いや……ああ、そうだ…」  彰人は何かと葛藤するように口ごもっていたが、結局は悠哉の言葉を認めた。本当に可愛いやつだな、と自然と悠哉の頬も緩んでしまい「しょうがないな」と再度お粥を掬う。 「ほら、あーん」  悠哉の一声で大人しく口を開ける彰人が可愛くて、これはハマりそうだなと悠哉は緩む頬をぐっと引き締めた。食欲がないと言っていた男はどこへいったのか、ぱくりぱくりと食べ進めるうちにあっという間に器は空になった。そして驚くことに、デザートに剥いたりんごまでも完食してみせた。 「食欲ないんじゃなかったのか?無理して食って後で吐くなよな」 「吐くわけないだろ、それにしても今日はどうしたんだ?偉くサービスがいいな」 「お前の弱ってる姿なんてなかなか見れないからな、甘やかしたくなるんだよ」  悠哉の頬へと手を伸ばした彰人は「風邪を引いて得をしたのは初めてだな」と微笑んだ。 「あとは寝てるんだな、お前は頑丈だから風邪なんてすぐ治るよ」  まるで子供をあやすかのように、悠哉は彰人に向け優しく声をかけた。そして悠哉が立ち上がろうと腰を浮かしたその時だった。袖を引っ張られる感覚に反射的に振り返ると、えらく弱々しい表情をした彰人と目が合う。 「どうした…?辛いのか…?」 「…っ違う、悪いなんでもないんだ」  慌てて手を離した彰人は、悠哉に背を向け布団に潜ってしまった。最初は彰人の行動に動揺を覚えた悠哉だったが、すぐに悠哉を引き止めた意図を理解したため「寂しいのか?」と彰人に尋ねた。 「俺は大丈夫だ、移ると悪いから早く部屋を出ろ」  まるで強がりのような彰人のその言葉に悠哉の頬は自然と吊り上がる。これは完全に悠哉の憶測であったが、風邪で弱ってしまっている彰人にとって孤独の時間とはとても辛いものであり、そのため意図せず悠哉を引き止めてしまったのではないだろうか。体調が悪い時の憂鬱感は悠哉自身身に染みていた。身体中が熱いはずなのに寒気がし、頭が割れるような頭痛に眠ることさえ許されない。そして不思議なことに、精神的にも酷く参ってしまい酷く気鬱になるのだ。 「強がるなよ、風邪の時ぐらい甘えてもいいんだぞ」 「…風邪ってやつは本当に厄介だな…身体だけじゃなく精神的にも影響が出るとは…」  彰人は悠哉の方へ身体を反転させた。どうやら悠哉の予想は当たっていたらしく、あの彰人でも風邪をひくと幼い子供のようになってしまうようだ。 「お前が眠るまでそばに居てやるよ」  悠哉は彰人の輝くような金色の髪を優しく撫であげる。心地良いのか、頬を緩めゆっくりと瞳を閉じた彰人は「ありがとな」と口にした。 「なぁ、もう一つわがまま言ってもいいか…?」 「ん?なんだよ」 「お前の声を聞かせてくれないか」  予想もしていなかった彰人の要求に「声…?」と悠哉はきょとんとする。 「ああ、お前の声はすごく落ち着くんだ。だから悠哉の声を聞きながら眠りたい」  次第に悠哉の頬に熱が集まる。熱もないというのにどうしたものか、もしかして彰人の熱がうつったのではないかと疑うがどうやらそういう訳では無いらしい。単に照れてしまっているだけのようだった。いや、むしろこんな事を言われて照れるなという方がおかしな話だ。悠哉は分かりやすくため息をつくと「分かったよ、昔話でもしてやる」と赤くなった顔を隠すように口元に手を当てた。 「子守唄じゃないのか?」 「これ以上わがまま言うなら出ていくぞ」  悠哉が立ち上がろうとすると「冗談だ、だから行かないでくれ」と彰人に腕を掴まれ止められた。照れながらもふっと口元を緩めた悠哉は、やれやれと言うように口を開く。 「俺はさ、昔から身体が弱くてよく風邪を引いてたんだ。その度に父さんが看病してくれてたんだけど、あの人料理もまともに出来ないしガサツで乱暴だから看病もすげぇ下手くそでさ」  笑い話かのように、悠哉はあの頃の話を口にする。幼い頃に母親を亡くした悠哉には家族と呼べる存在が父親しか居らず、長い間二人で生活を共にしていた。悠哉にとって家族三人で暮らしていた記憶はほとんどなく、物心着いた時には父と二人きりだったのだ。 「それでもさ、俺は嬉しかったんだ。具合悪い時っていつも以上に寂しくなるし心が辛いんだ、そんな時に父さんが傍に居てくれて俺はすげぇ嬉しかった」   悠哉は昔を懐かしむように瞳を細めた。身体が弱い自分は人一倍体調を崩している自覚があった。風邪とは不思議なもので、何度経験したところで慣れることなどなく永遠に辛いものだった。それでも風邪をひいた時はいつもより父と一緒にいる時間が増えるため、幼い頃の悠哉にとっては父に甘えられる特権のようなものだった。 「だけど段々と父さんが家を空けるようになってからは看病なんてしてくんなくてさ、熱出ても一人で寝込むしかなくて…正直あの時が一番辛かったかもな」  当時のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられるような窮屈な痛みを覚える。それでもあの頃の辛い出来事をこうして思い出話として口に出来る事も、悠哉にとっては大きな成長だった。 「一人は辛いよな、寂しいよな、熱ある時はそれも余計にな。だからすぐ体調を崩す自分が嫌いだった、だけど今はお前がいるんだって思うと風邪をひくのも悪くないんじゃないかって思ってる。だって彰人が傍に居てくれんだもん」  彰人の柔らかい髪を撫でると、不思議と優しい気持ちに包まれるようだった。今の悠哉はあの頃とは違うのだ、一人寂しく熱にうなされていたあの頃は悠哉にとって過去の話だった。 「これでうつったらお前が看病してくれよ…ってもう寝たのかよ」  ふと悠哉が気がついた時には、彰人は静かな寝息を立てて寝入っていた。悠哉が話し始めてすぐに眠ってしまった事に、午前中は眠れなかったのだろうかと疑問に思う。もしかしたら本当に自分の声に安心して眠ってくれたのだと思うと、悠哉の頬は自然と体温を増していく。嬉しい、自分の存在が彰人を安心させる事が出来るなんて、これ以上ない幸せだ。彰人のあどけない寝顔に悠哉の頬は自然と上を向いた。 「あれ…洗い物してくれたのか?」  悠哉がリビングへ戻ると、綺麗に片されたキッチンが目に入る。悠哉の記憶が正しければお粥を作って洗い物はそのまま放置していたはずだ。となると洗い物をした人物はソファでくつろいでいるこの男しかいないだろう。 「ああ、特に役に立てなかったからこれぐらいしとかないとな」 「別に気にしなくていいのに」 「ここは素直にありがとうございますって言えよな」  立ち上がった難波は悠哉の元へと近づき呆れたように息を吐いた。難波の言い方にムッとした悠哉は「これ、ここじゃなくてこの中な」と器を手に取り棚の中へとしまい込んだ。やはりこの男、どこか癇に障るのは何故なのだろうか。彰人の友人でなければ絶対に関わることは無かっただろうな、と再度確信する。 「ほんと可愛げねぇな、彰人も趣味が悪いよな」 「お前と彰人の趣味がまるで違うんだろ、それに別にお前に可愛いと思われたくもないし」  悠哉が素っ気なく答えると「いや、彰人の前だとお前はかわい子ちゃんになるんじゃないか?」と難波はおちょくるようなニヤついた笑みを浮かべた。 「は?マジでウザイなお前」 「睨むなよ、別に嫌味で言ってんじゃないんだからよ。あの彰人がぞっこんしちまうぐらいお前は魅力的なんだって褒めてんだよ俺は」  急に褒め出した難波に、悠哉は鳥肌を立てる。 「なんか企んでんの…?」 「褒めてやってんのになんだよその言い草は。とにかく、今日俺は結構感動したんだからな」 「感動…?」 「ああ、あの彰人が誰かに看病されてるなんて想像も出来なかったからさ、彰人なら風邪ひいても自力で治しそうだし。普段は隙のない男だけど結局恋人の前では甘えたくなるんだろうよ」  やれやれと言うように、難波は笑みを零した。甘えたくなる、難波の口にした事が彰人の本心であるなら、甘えるといった言葉とかけ離れている彰人が恋人である悠哉にだけは甘えたいと思っている、そう受け取ってもいいのだろうか。大人しく看病を受けているのも結局は甘えているから…そう考えると悠哉の胸にじんわりとした愉悦が広がっていく。 「甘えるって行為は本当に信頼してる人間にしか出来ないと思うんだ。あいつの親友として、彰人に甘えられるぐらい信頼出来る相手が出来たことが俺は嬉しいよ」  まさか難波相手にこのような事を言われるとは、悠哉は驚愕だった。それと同時に急激な気恥しさを覚える。 「お前にそんな事言われても嬉しくないんだけど」 「嘘つけ、顔が赤いぞ?それとも彰人の風邪がうつったか?」  ニヤニヤと口角を上げている難波がとにかく不愉快で、悠哉は「…早く帰れよもう」と難波の横を通り過ぎようとした。しかし「茶の一杯ぐらいれてくれよ」と難波は悠哉の道を防ぐように立った。 「彰人の具合が治ったらいれてもらうんだな、退けよ邪魔だ」  難波の横を強引に通ろうとした悠哉だったが、運悪く難波の足に躓き身体が傾く。わ…っとバランスを崩したことに慌てて受け身を取るために腕を伸ばした。 「…っと、危ねぇな。何してんだよ」  難波が身体を支えてくれたのだと気がついた悠哉は急いで身体を離そうと身を引くと、悠哉の意図とは反して難波の身体が離された。 「おい慶…お前悠哉に何してるんだ…?」 「彰人…?!ってお前離せよっ!」  悠哉が顔を上げると、そこには青い瞳を鋭く細め、難波の首元を掴んでいる彰人の姿があった。悠哉から難波を引き離した彰人は、かなり不機嫌な様子で難波を睨んでいる。 「俺のいない間に何をしようとしてたんだ」 「別に何もしてねぇよ…っ!こいつが転けそうになったから支えてやっただけだって!お前からも言ってやってくれよ」  助けを求めるように悠哉へ視線を向けた難波に「いや、急に近づいて来たのはお前の方だろ」と指摘した。 「おまっ…ふざけんなよ」 「おい慶、どういう事だ」  今にも難波に殴りかかりそうな彰人の様子に、悠哉はぷっと吹き出してしまう。難波が自分に手を出すなどあるはずがないというのに、熱のせいで思考までおかしくなってしまっているのか疑いたくなる。  ここまで彰人に詰め寄られている難波がさすがに可哀想に思えてきた悠哉は「彰人、難波は本当に支えてくれただけだよ」と真実を話した。 「本当か?何かされたんじゃ…」 「大丈夫だって、こいつが俺に気があるはずないんだし」 「だから言っただろ、何もしてないって。悠哉、お前も変にとぼけんなよ」  やっと高圧的な彰人の視線から開放された難波は、脱力したように肩を落としている。散々からかわれた悠哉にとってはいい気味であり、してやったりの笑みを浮かべる。 「そうか…なら良かった」 「というか彰人どうしたんだ?寝てないと駄目だろ」  悠哉は彰人の頬に手を添えると、平熱よりはかなり高いであろう体温を感じる。 「目が覚めたら悠哉がいなくなってたから」 「俺がいなかったからわざわざ下りてきたの?」  悠哉は目を丸める。すると「…ふっ」と難波が吹き出した。 「ふははっマジでお前彰人か?」 「何笑ってるんだ…?」 「いや、何でもねぇよ。ほら彰人まだ熱あるんだから寝てろよ、俺はもう帰るから悠哉も甘え上手な恋人のそばに居てやれ」  難波は悠哉の肩を軽く叩くとリビングを出ていった。悠哉と彰人も難波の後へついていくように玄関へ向かうと「なぁ悠哉」と靴を履き終わり立ち上がった難波に呼ばれる。 「何?」 「今日はお前のおかげで彰人の貴重な姿が見れたよ、こいつもこんな可愛くなんだな」 「ふっ、そうだな。彰人はこう見えてすげぇ可愛いから」  自慢するかのようにそう言うと、難波は大笑いして「ははっそうみたいだな」と答えた。  難波が帰ると、悠哉は彰人をベッドへ強制連行した。再びベッドへ横になった彰人は、朦朧とした瞳で「慶と何を話してたんだ?」と悠哉に問いかけた。 「ん?ああ、お前が可愛いって話」 「何言ってるんだ…?可愛いのはお前だろ」 「ふっ…」  こんな時でも口説き文句を口にする彰人に、悠哉は思わず吹き出してしまった。そして悠哉の脳裏にふと先程難波が口にした内容が浮かび上がる。彰人も恋人には甘えたくなる、確かに今日の彰人は一段と甘えたで幼い印象を抱いた。付き合いが長い難波でもそんな彰人の姿は見慣れないものだったのだろう、自分だけの特権のような気がして悠哉は無性に嬉しくなる。 「こうしてお前に甘えられると、また熱を出して欲しくなるな」 「確かにここまでお前に甲斐甲斐しく看病されると、毎日でも熱を出したいな」 「何言ってんだよ」  馬鹿らしい彰人の発言に呆れつつも、たまにはこういう日も悪くないなと悠哉は思った。それでも彰人の元気な姿を早く見たい悠哉は、少しでも早く彰人の体調が良くなる事を願った。

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