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2-8 無自覚の悪意
とんとん。
扉を叩く。そこは慶螢 の自室で、頼みたいことがあると、この邸の主である趙螢 が使用人を通して自分を指名してきた。そこで気付くべきだったのかもしれない。
この計画がすでに破綻していたことを――――。
「旦那様、小琳 です」
入りなさい、と扉の向こうから声がかけられる。ひとつ間をおいて、扉を押した先。そこに集まっていた者たちを目にした時、何事かと思った。
趙螢 と華 夫人は椅子に座っており、その横に立つ見覚えのあるふたりと、初めて見るふたりがこちらを見てそれぞれの反応を示す。
慶螢 は寝台に眠ったまま、ぴくりとも動かない。それもそのはずだ。今日で呪いは完成した。あとは時間の問題だろう。右脚を引きずりながら、ゆっくりと歩を進める。
この右脚。いつからかこの状態で、足首から膝にかけて包帯を巻いていた。青い上衣下裳のお陰で隠れて見ないが、包帯の下はひとに見せられないような醜い状態になっている。あの影が言うには、呪いの代償らしい。
それはあの影が要求しているものとは別のモノ。ひとを呪う。それはタダ ではないということ。
ひとの壁の中から、すっと姿を現した者がいた。あの四人の青年たちの後ろにいたのだろうか。その人物に、思わず表情が綻んだ。
「お嬢様、」
しかし、彼女はいつもの優しい笑みを浮かべていなかった。いつもなら自分に向けてくれるもの。
今はどこか怯えているような、いや、たぶん思い違いだろう。
「どうしてこのようなことを、したのです?」
その声は少しだけ震えているような、弱々しい声。鈴のような音色は耳をくすぐってくる。濁った心が澄んでいくのを感じた。話しかけてくれる、それだけでなによりも嬉しいのだ。
「このようなこと、とは?」
大好きなひとのために贈り物をしたこと、だろうか。それとも、大好きなひとを奪われないように するために、贈り物をしたことだろうか。
喜んでくれたら、いい。
きっと、喜んでくれるだろう。
「お嬢さん、残念なお知らせです。君の呪詛は、すでに意味を成しません。これに見覚えは?」
あの時、床に桶を落として水をひっくり返した時、見下すように自分を眺めていた中性的な美しい青年が、麗花 を庇うように一歩前に出た。その手にはあの箱。
あれは、最後の、呪いだ。十二個目の呪いだ。箱の端に小さく「拾貮」と数字が書いてあるため、それが最後の呪いだとわかる。
「それは、私のお手製の贈り物ですね。どうしてあなたが持っているのですか?」
それに、意味を成さないとはどういうことだろう。呪いは完成しなかった?失敗した?
邪魔をされた?
「君がこれを隠しているところを見ていたからです。危ないので、中身はすでに適切な処理をさせていただきましたけど」
にっこりと笑みを浮かべて、箱の蓋を取り、中身がないことをわざわざ教えてくれた。このひとは嫌いだ。すごく嫌い。すべてを見透かしたような眼が、嫌いだ。
「君は、あの時、今みたいに扉を叩いて確認をしませんでしたよね? ただの女中である君が、中に誰かいるかも確認せずに彼の自室に入って来た時点で、おかしいと思いました。普段、あの時間は誰もここにはいないと知っていたからでしょう」
すでに水は新しいものに交換されており、布巾も綺麗な状態だった。当たり前だ。その少し前に、本来の役目を担っている者がその仕事を終えた後だったからだ。
まさか、中にひとがいるなど誰も思わないだろう。だが、その姿を目にした時、すぐに気付いた。趙螢 が言っていた"客人"だと。慶螢 の病を治すために雇われた客人。仙人?道士?とにかく邪魔な存在だ。
誤魔化すために水をひっくり返した。意外なことに、怖い顔の青年が手伝ってくれた。そんなことをしてくれるなんて、思ってもみなかったが。
「わざとらしく水を床にひっくり返して、誤魔化したでしょう? あの時、本当は何をしにここへやって来たのです? ああ、いいです答えなくても。大体の想像はできますからね、」
「仙人様、本当にこの子が慶螢 をこのような状態にしたのですか?私には今も信じられません」
華 夫人が真っ青な顔で小さく首を振った。このひとは良いひと。でも今は麗花 と同じ目で見てくる。信じられない、と彼女が口にした言葉は、そのまま表情に貼りついていた。
「彼の様子を見たくなったのでしょう。もうすぐ呪詛が完成する。だから、その前に慶螢 殿がどんな状態になっているか、確認してみたくなった、違いますか?」
くすくす。くすくす。
本当に、このひとは嫌なひとだ。優しい顔で笑みを浮かべて、攻撃してくる。すごく嫌なひとだ。もう少しだったのに、邪魔をされた。これでは今までの努力が水の泡だ。
「なにが可笑しい?」
冷たい声。氷のようだ。その瞳は鋭く突き刺さってくる。漆黒の衣の道士に睨まれる。まるで汚いものでも見るような嫌悪に満ちたその眼。憎悪。
「だって、まさか失敗するなんて思ってもみなかったんですもの!本当に、私って昔から運が悪いわ! 少しでも運が良いなんて思っていた自分が、恥ずかしい!」
口許がにぃと不自然に吊り上がる。
「おばあちゃんが言ってたよ? 大好きなひとのために贈り物をしてるって。それって、麗花 さんのためってこと? 慶螢 さんを殺して婚姻自体を白紙にし、外に出さないために?でもこの婚姻は、ふたりが幸せになるためのものなのに、」
だから祝福をしろと? 理解できないと?
紅色の衣を纏った秀麗な青年が、悲し気にそんなことを言う。
「それは、誰のためでもなくあなた自身のため、だよね?」
麗花 を遠目で見ているだけなら、別にここでも問題はないと思うだろう。あの邸を出て、この邸で雇ってもらえばいいこと。けれども、慶螢 と並んで微笑んでいる彼女の顔など見たくなかったのだ。
例えば今回の計画が成功して、数年後に同じことが起これば、また自分はその相手を呪うだろう。代償がなんであれ、呪うだろう。
「もちろんですよ? だって、私が代償を払って私の願いを叶えんとしているのに、どうして他の誰かのために願う必要が?」
「胸糞悪ぃな······すでに喰われた後、か」
喰われた?
どういう意味だろう。
「妖魔が約束を守るとでも? 願いが叶おうが叶わなかろうが、彼らは自分の基準でしか物事を考えません。なぜなら、彼らにとって"ひと"など、ただの養分だからです。人を呪わば穴二つ。その報いは、自分自身に返って来るのです」
「最初から、君に未来などなかった」
紺色の衣の青年が抑揚のない声で呟く。怪訝そうな顔でこちらを見つめてくる青年は、なんだか意味深だった。未来など、ない?
あの影の言葉が頭の中に響いた。
代償は成功報酬、と。
『呪いたい相手がいるの。でも私にはどうしたらいいかわからない。だから、その方法を教えて欲しい。もちろん、絶対に効果のあるものを』
あの時。あの時、自分は何と願ったか。繰り返す。一言一句違わぬように。
呪う方法を教えて欲しい。条件は効果のある呪いであること。
成功報酬。
まさか。
「あ~あ。バレたか。せっかく呪った奴の最期を見届けるまで、意識は残してやってたってのに。気付いたら全部終わりに決まってるだろ?」
顔も声も素朴な印象の少女のままなのに、その表情は狂気に満ちていた。
漆黒の衣を纏った冷淡な青年が誰よりも先に前に出た。それに続いて紺色の衣の青年が腰に佩いていた宝剣を抜く。紅色の衣の青年と中性的な青年は他の者たちを守るように、立ち塞がる。
「さすがに不利だな、」
足元から黒い影が伸びる。それは不自然な影。他の者たちとは逆に伸びたその影に、少女の身体が沈んでいく。
「逃がすか!」
扉を勢いよく開け、ふたりが飛び出していく。続けて他のふたりも、先に出て行った者たちを追っていく。影は素早く庭へ降りると、そのまま塀を越えて邸の外の方へ逃げて行った。
残された趙螢 たちは、目の前で起こったのが夢か幻であったら、と切に願い、その場にしばらく呆然と立ち尽くすのだった。
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