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2-7 徒花
初めてそのひとと言葉を交わしたのは、ちょうど三年前の春。十五歳の時だった。大きな邸の使用人として、働きに出された時。
初めてのことばかりで戸惑い、失敗をする度に大人たちに叱られた。叱られるのは怖いので、なるべく間違わないように失敗しないように、ひとつひとつの仕事を覚えていく。
やっと自分に与えられた仕事に慣れてきた頃、ある事件が起こった。この邸の長男が肌身離さず持っていたはずの玉佩が、何者かによって盗まれたのだという。
当然、使用人たちが疑われた。ひとりひとり呼ばれて、彼の目の前で尋問された。
彼自身は見ているだけだったが、彼の従者が大柄な怖いひとで、尋問から帰って来た者たちは皆、疲れ切った表情だった。
そんな中、使用人の誰かが言った。
「あ、あの子がやったのを、私、見てました!」
それは、自分には全く身に覚えのない事だった。
「お前がやったんだろう! 玉佩をどこへやった! まさか、質に入れたりなんぞしてないだろうな!雇ってやった恩を仇で返しやがってっ」
何度か脅しで殴られ、怖くなって蹲る。怒号と罵倒と暴力が、やってもいないのにやったのかもしれないと自分に思わせる。
危うく「私が、」と口に出しそうになった時、薄暗かった部屋に光が射し込んだ。
「お兄様! なにをしているのですかっ」
その声は透き通った穢れのない美しい音色の如く。まるで天界からの導きの声のように感じた。痛みが引いていくのを感じながら、逆光で見えない姿に救いの神を想像した。
「別に私は何もしていない。この者が私の玉佩を盗んだという証言があったから、それを確かめていただけさ」
悪びれもなく、まるで自分が正義だとでもいうような言い方で、椅子の上に座っていた青年は仰け反って嘆息した。従者は自分の立場を弁えているのか、殴るのを止めて目の前に現れた者に対して頭を下げている。
「そうなのですか?」
「ち、違います! 私はそんなこと、してませんっ」
泣き出しそうになって、なんとか堪える。頬がじんと痺れていて、上手く答えられたか心配だった。そのひとは自分の傍に寄って来てそのまま膝を付くと、そ、と蹲って丸まっていた背中に手を添えた。
「お兄様、まさか他の使用人にも、このような仕打ちをしたのですか?」
「なにが言いたい? 私がこの者たちを虐げているとでも? だからどうしたというのだ。これはいずれは私のモノになるのだから、私が私のモノをどう痛めつけようが、関係ないだろう?」
お兄様! とそのひとは、この陳 家の娘である麗花 は、声を荒げる。彼女がこんな風に怒っている姿など、見たことがなかった。いつも穏やかに優し気に笑っている、大人しそうなひと。
自分より年下の十二歳だというのに、気立ても良く誰にでも平等。使用人たちにも苦労を労うような感謝の言葉をかけてくれる、そんな優しくて素敵なひとだった。
「ではその証言をした者は、どうして自分の番になってからそんな証言をしたのです? 知っていたのなら、皆がこんな風に尋問される前に訴えれば良かったはず。それはつまり、自分が逃れるために代役を立てるためではないですか? 今頃、その者はこの邸から出て、お兄様の大切な玉佩をお金に換えている事でしょう」
兄、于芳 は苦々しい顔をして、正論を言う妹を睨んでいた。その顔が怖くて、思わず目を伏せる。
自分に罪を着せた使用人は、自分の前に尋問を受けていた者だろう。同じ女中で、よく自分を目の敵にしていた者だった。
どうしてそんなにも自分を敵視するのか、まったく理解できなかった。
「おい! さっきの女を捜して、必ず私の前に連れて来い!」
従者は頷き、部屋を勢いよく飛び出していく。
「お前の疑いはまだ晴れていないからな? もしお前の持ち物から玉佩が見つかれば、お前が嘘を付いたことになる!」
「わ、私は住み込みではなく通いの女中なので、大きな荷物などありません。あるのは、ここにある財嚢袋と手ぬぐいくらいで······」
袖から取り出した物を並べて、于芳 に見せると、彼はものすごく不機嫌な顔をした。それとは逆に、その女中は住み込みのため、疑わしきはやはりその女中ということになるだろう。
「お兄様、この方にはもう用はございませんね? お兄様の手は煩わせませんのでお構いなく。私が責任をもってお送りします」
もはや于芳 は無言で、こちらを見るのも嫌になったのかそっぽを向いてしまった。さ、行きましょう、と麗花 が手を取って立ち上がるのを手伝ってくれた。
とにかく、早くここから立ち去りたかった。痛みを我慢して、なんとかゆっくり歩き出す。
寄り添うように支えてくれるその手が、なんだかあたたかい。でもいいのだろうか?
ふと自分の手に視線を落とす。口を拭った時に付いたのだろう赤い飛沫が、麗花 の傷のひとつもない綺麗な手を汚している気がする。
「······お嬢様、お手が汚れてしまいます」
「あなたが気にすることはありません。私の兄が酷い仕打ちをしたこと、兄の代わりに謝らせてください。許して欲しいとは言いません」
その時、自分の中で何かが咲いた気がした。それが白い花だったか赤い花だったかはわからない。
言葉にしたら壊れてしまいそうな脆いそれは、薄い硝子の花だったのかもしれない。そんな不思議な感覚を覚えたのだ。
その事件の真相は、言うまでもなく。玉佩はぎりぎりのところで売られずに済んだらしい。
その女中の荷物からは他にもいくつか高価な品物が見つかり、証拠も十分ということで、そのまま役所に連れて行かれた。
あの日から、自分の楽しみは麗花 と交わす短い挨拶になった。以前からもちろん彼女はしてくれていたのだが、いつも恥ずかしくて下を向いてしまっていた。
でも今は違う。「おはよう」も、「いつもありがとう」も、全然違う。
そんなひと言だけでも、心がふんわりと浮きだつような、幸せな気持ちになるのだ。それは、いつしか生きがいになり、辛くても頑張れる原動力になっていた。
それなのに――――。
その一年後、ある話で邸中が持ちきりになった。それは、とある商家の息子との婚姻話。
まだ十三歳の麗花 には早いのではないかと思った。相手の商家の息子は十八歳で、五つ年上らしい。嫁ぐということは、この邸から出て行ってしまうということ。つまり、二度とその笑顔を見ることは叶わなくなってしまうだろう。
顔合わせが終わり、ふたり緊張しているのかあまり会話は弾んでいないようだ。しかし、麗花 のはにかんだようなその笑みが胸に突き刺さる。
あんな笑み、今まで見たことがない。
赦せない。
赦せない。
赦せない。
正式な婚姻は三年後、麗花 が十六歳になってからということになった。残り三年。三年しかその麗しい姿を見られないなんて。
仄暗い感情が咲いた花を黒く染め上げ、蝕んで行く。そんなある日、出遭った。
「願いを持っているな? 強い願いだ。代償をくれたら、その願いを叶えてやろう」
逢魔が時。夕暮れに染まる路の真ん中。気付けば誰も歩いていなかった。まるで別の場所にいるような感覚。
目の前に佇むは、黒い歪な形の人影。ああ、違う、これは、自分の影だ。伸びた影が言葉を紡ぐ。
願い。
願いは、ただひとつ。
「代償? あなたが望むものをあげれば、私の願いを叶えてくれるの?」
「その代償によって、叶えられる願いの程度は変わるが、お前次第だな」
その影は言った。
それは、甘い囁きのように。
「呪いたい相手がいるの。でも私にはどうしたらいいかわからない。だから、その方法を教えて欲しい。もちろん、絶対に効果のあるものを」
「呪い、ねえ。専門外だが、まあいいだろう。では代償は成功報酬でいただこう」
その影の言葉に疑問のひとつも抱かず、その時は夢の中にでもいるような気持だった。これは夢で、だから何を言ってもいい。
呪いたいのは、あの商家の息子。そのための知恵を、この影は教えてくれた。
ふと、日常の音が戻って来る。ひとが行き交ういつもの賑やかな路だ。やはりただの夢だったのかもしれない。
しかし、長い影はずっと自分について来る。
その影は、囁く。
呪うための準備をしよう。
箱、布、藁、針、血、髪の毛。
言われるがままに作り上げた布人形の首に針を刺し、指を刃物で傷つけ血で文字を書く。それを箱に詰める。
運が巡って来たのか、その商家に領主の邸から使用人を何人か出すことになった。麗花 が商家に嫁いだ時のための準備らしい。彼女に会えなくなるのは嫌だったが、どうせすぐに戻ることになるだから少しの辛抱だ。
そしてもうすぐ一年が経つ。あとひと月、あと一回。それで呪いは完成する。
慶螢 はもう起き上がれない状態になった。呪いは本物だ。
あと一回。
あと一回で終わる。
終わるはず、だったのに――――。
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