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2-16 夜明け

 不安な時間を過ごしていた趙螢(ヂャオイン)たちに、光が射す。呪詛を解呪してもらった後も眠ったままだった、慶螢(チンイン)の意識が戻ったのだ。麗花(リーファ)は思わず愛しいひとに抱きつき、趙螢(ヂャオイン)(ホア)夫人もお互いに抱き合って喜び合った。 「······私は、一体、」  まだぼんやりとしている頭を片手で押さえながら、慶螢(チンイン)は自分がこの数日どんな状態になっていたかを想像し、ぞくりと背筋が凍る思いだった。ずっと悪夢を見ていた気がする。その悪夢の中で何度も何度も殺された。その悪夢は目覚めてても消えることはなく、生々しく四肢にその余韻を残していた。  時に意識がある状態のまま、目の前で自身の四肢を千切られたり、油をかけられ火を付けられたり、針の山に投げられたり、とにかく生き地獄のような悪夢だった。 「慶螢(チンイン)様、良かった····お話を聞いた時は心臓が止まる思いでした」 「······ご心配をおかけして申し訳ありません。私もなにがなにやら、」  青白い顔は痛ましく、やせ細ってしまった手首が壮絶さを物語る。多くは趙螢(ヂャオイン)も語らなかったが、とにかく悪夢は過ぎ去り、日常が戻って来たという喜びの方が大きかった。 「私たちは運が良かった。仙人様と道士様のおかげで、息子を失わずに済んだのだ。こんな僥倖はこの先あるだろうか」  暁狼(シャオラン)から報酬はすべて他の三人に、と言われていたが、趙螢(ヂャオイン)はこっそり彼の少ない荷物の中に感謝の気持ちを忍ばせておいた。それは最初疑ってしまったことも含めての謝礼だった。  そして今となってはあの祈祷師が告げた通り、仙人である翠雪(ツェイシュエ)とその弟子のふたりとの出会いによって、すべてが好転した。  仙人など捜しても見つかるかどうかもわからない存在だというのに、目の前に現われてくれたこと。こんな偶然があるだろうか。  寝台の横に置かれたあの真っ赤な林檎が、数日経った今も瑞々しく艶やかなのも、あの仙人様の持ち物だったからだろうか。祈祷師のでまかせだったとしても、起こってしまえばそれは必然。この出会いは、やはり運命だったのだろう。 「あなた、あの方たちに御礼をしないと。大切な慶螢(チンイン)を救ってくれたのですから、惜しむ必要はありません」  もちろんだ、と趙螢(ヂャオイン)は大きく頷く。 「今回の件は、私にも責任があります。彼女があんな風に思い悩んでしまった原因、その罪は、ちゃんと償わせます」  麗花(リーファ)は深く頭を下げ、三人にその決意を示す。あの日、彼女を兄の手から救った日。ただの女中のひとりであった彼女は、歳が近かったこともあり、時折会話をするようになった。  婚姻が決まった時も、おめでとうございますと言ってくれたのに、どうしてこんなことになったのだろう。 「麗花(リーファ)様がそんなことをする必要はありません。結果として、慶螢(チンイン)は無事でした。仙人様が言うには妖魔が操っていた可能性があるとも。もしかしたら、彼女は弱みに付け込まれたのでは······そう思うと、同情の余地もあります」 「よく、わかりませんが····麗花(リーファ)様に責任はありません。どうか、あまり思い悩まぬよう、」  そ、と色白な細い指先を握り、慶螢(チンイン)は優しく微笑む。その穏やかで優しい笑みに、麗花(リーファ)は惹かれたのだ。この婚姻がなくなることなどあり得ないが、この事件は少なからずふたりの胸に傷を残した。  それでも、揺らぐことはない、想い。 「本当に、無事で良かったです。このままあなたが目覚めなかったらと思うと、ずっと怖くて、不安で、私、」  ふたり、見つめ合うのを見届け、趙螢(ヂャオイン)たちは部屋を出た。悪夢は終わり、静かな日々が戻ってくる。平和で穏やかな日々がどれだけ大切だったか。思い知らされた数日間だった。  その後、戻って来た翠雪(ツェイシュエ)たちに彼女の末路を教えてもらった。残念なことに、彼女は妖魔に殺されてしまい、道士である暁狼(シャオラン)がその妖魔を封印したということだった。すでに妖魔に喰われ、さらに封印された時点で、彼女の生存は絶望的。  その説明を受け、彼女に対しての同情心が増した趙螢(ヂャオイン)だったが、もし彼らがいなかったら、自分たちはどうなっていただろうか。 「あなたがこの件に関して思い悩むことはありません。あなたは優しすぎます。彼女への同情心を否定するつもりはありませんが、ただひとつ言えることがあります。あなたは何ひとつ悪くない。それだけは、真実」  真正面に座り、淡々と語る翠雪(ツェイシュエ)の言葉は、趙螢(ヂャオイン)にとって救いだった。 「ありがとうございます。本当に、感謝をしてもしきれません」 「いいのです。これもなにかの縁でしょう。息子さんが無事でなによりでした」  そして、騒がしい夜が過ぎ、やがて朝が来る。  翌朝、こっそりと邸を去ろうとしていた三人の姿を見つけ、趙螢(ヂャオイン)は思った通りだ、とその背に迷わず声をかける。 「皆さん、お忘れ物ですよ?」  紅色の衣を纏う、人懐っこい印象の青年が、「あれ? バレちゃったみたい」と頭を掻いて笑いながら振り向く。 「だから、夜の内に出ようと言ったんです」  と、秀麗な顔立ちだが、どこか怖い雰囲気の青年が嘆息する。 「やはり、あなたは勘が良い方ですね。これから先も、あなたの商いは間違いなく安泰でしょう」  大扇を広げて、ふふっと笑みを浮かべる美しい仙人様の言葉に、趙螢(ヂャオイン)は謙遜するように首を振った。そして綺麗な模様の財嚢袋に入れた、今回の件の報酬を手渡し、受け取ってくださいと握らせた。 「それと、紅玉(ホンユー)殿、これを」 「え、僕に?」  正直、紅玉(ホンユー)の存在が不安を安堵に変えてくれた。その笑顔にあの暁狼(シャオラン)でさえ染められていた。それを見た時、このひとたちなら必ず息子を助けてくれる、と思えたのだ。 「朱に交われば赤くなる。紅玉(ホンユー)殿の存在は、希少です。あなたはそうやって色んな人に影響を与えるのでしょう。善も悪も同じだけ存在するこの世の中で、あなたの笑顔は誰かの光になる。そう、思えてなりません」  言って、趙螢(ヂャオイン)紅玉(ホンユー)の手を取り、その手の平に何かを乗せた。それは、彼の長い髪を括る紅色の髪紐に付いている玉飾りと同じ、琥珀だった。形は綺麗に整えられた一級品で、髪紐の玉飾りの琥珀よりも倍は大きい。  一粒の大きな涙のような、雫のような形に整えられた琥珀色の宝玉の中に、神秘的な模様のように赤い欠片が点々と浮いて見える。こんな立派な琥珀は、なかなか市場にも出回らないだろう。 「これは、私からの気持ちです。つい先日手に入れたものなのですが、これもなにかの縁でしょう。あなたに差し上げます。だれかに贈っても良いですし、あなたが持っていてももちろん良いですし、売れば高値で引き取ってくれるでしょう」 「····僕にはもったいなくて受け取れないよ」  そんなことありません! と趙螢(ヂャオイン)は首を振る。 「私が思うに、あなたはどこかの名家の公子様でしょう? どんな経緯で旅をしているのかは存じませんが、これはあなたに相応しいものだと感じました。どうか、私の顔を立てると思って、受け取ってください」  困った顔をして翠雪(ツェイシュエ)の方をちらりと見た紅玉(ホンユー)に、翠雪(ツェイシュエ)は小さく頷く。  うぅと悩んだ末、紅玉(ホンユー)は手の中の琥珀を握り、ありがとう、と趙螢(ヂャオイン)に満面の笑顔で礼を言った。 「では、皆さん。本当に今回は助かりました。またこの町を訪れる機会があれば、ぜひまたここにお立ち寄りください。ちなみに皆さんは、これからどちらに向かう予定ですか?」 「まだ決めておりません。特に目的地はないので、気の向くままという感じでしょうか」  翠雪(ツェイシュエ)はやんわりと答える。事実、何も決めていなかったこともあり、正直に答えたつもりだった。 「では、西にはいかない方が良いかもしれません。行商人たちの情報だと、近い内、西の都の近くで大きな戦があるとか。魔族があの辺り一帯に侵攻し、道士たちと睨み合いをしているそうです」 「ご忠告、ありがとうございます。趙螢(ヂャオイン)殿も、どうかお元気で」  西の都。魔族の侵攻。嫌な予感しかしない。  挨拶も済ませ、三人は邸を後にする。半分しか見えていなかった太陽が、今は姿を現し、どこまでも続く青い空を照らし出していた。ひとも路に増え始め、あと一刻もすれば賑わい出すだろう。  町を出て、遠ざかっていく景色に寂しさを覚えつつも、次の目的地へと歩を進めることになる。  かくして、三人が次に向かう先とは――――?  

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