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2-19 約束 ※注

 寝台で眠るその姿はいくつもの蝋燭の灯りに照らされ、神聖さを感じさせる。綺麗に整えられた身なり。薄茶色の長い髪も、色白の肌も、纏う衣も爪も。閉じたままの目の端を彩る、紅も。まるで美しい人形のようだ。    腹の上で組んだ傷ひとつない細く長い指先に、そっと触れる。  約八年間、眠り続ける愛しいひと。  目を閉じれば浮かぶあの笑みだけが、唯一の希望だった。  あの時、眼の前で命を絶ったこと。その理由は執着であり依存であったことを知っていた。誰かのためと言いながら、自らを手にかけたその真意は、歪んだ想い。  そうすることで絶対に自分を忘れさせない、一生自分以外愛せなくするための、命を懸けた願いだったと。  ぜんぶ、知っている。  八年前。  あの時、なにがあったか。  何が真実で何が嘘なのか。その罪は誰のものか。今となってはどうでもいい。  ただひとつ、言えること。  すべてはあの父が仕組んだこと。最初から最後まで、あのひとの手の平の上だった。それを捻じ曲げるために彼は自ら命を絶った。願いを託して。  けれども、死さえ赦されない。  目覚めた時、その現実を突き付けられたらどうなるだろう。死んだはずのその身が朽ちることなく、生かされ続けていること。  実際、死んだことになっている。目覚めた後、鳥籠の鳥にでもしろというのか? それとも目覚めない前提で、ただそこで眠り続ける人形(・・)の贄奴隷として、自分を縛るつもりなのか。  あの時、いくら魔力を注いでも回復することができなかった。それは仕込まれた蠱毒のせいだと知るのに時間はかからなかったが、かといってそれをどうにかするための術を持たない自分には、父の言うことを聞くしかなかった。  ああなってしまう数ヶ月前。花椿(ホアチュン)殿で起こった悲劇。駆け付けた時はもう遅く、そこに存在していただろう者たちはすべて肉塊となっていた。  血だまりの中、まだ息のある桃李(タオリー)を抱き上げ、自分の寝所に運んだ。あの時、すでに蠱毒を呑まされていたのだろう。  いくら自分の魔力を与えても少しも良くならず、どんどん弱っていくのが目に見えてわかった。  傷は少しだけ残っていた魔力が働き、ひと月かけてなんとか消えたが、せっかく与えた魔力は蠱毒が喰らい、いくらやっても意味を成さない。  そんなある日、大王がやって来た。そして冷笑を浮かべて、言った。 「桃李(タオリー)よ、今回の件で思い知っただろう?自身の考えなど、なんの意味もないと。お前に命じたのは、それ(・・)の監視。そして藍玉(ランユー)にとって"特別な存在"になること」  その時、すべてを悟った。  幼い頃。初めて会話をした時。その時から、すでに裏切られていたこと。  母親に疎まれ、触れられたことすら記憶にない。そのくせ、少しでも善くしてくれた従者たちを大罪人として、自分にその手で殺すよう命じ、狂った皇子が従者を皆殺しにしたという図を作り上げた。  母の狂気じみた命令は絶対。  父の命令も絶対。  狂っていくのに時間はかからなかった。物心ついた頃には、それを演じることで自分を守るようになっていた。そうやって多くをその手にかけている内に、なにも感じなくなり、いくらでも殺せるようになった。  楽しい、わけではない。  苦しくもない。  ふり(・・)をすることで、すべては解決した。それは日常になり、これが自分だと思い込むようになった。ふざけた態度も、狂気も、すべて赦される。最初からそうなるように作られていたのだ。気付けば、それが自分になっていた。 「お前の失敗は、それ(・・)に対して特別な感情を持ってしまったこと。同情心か? それともその身に流れるひとの血が持つ、慈悲の心か····。そんなもの、なんの意味がある? 結果、すべてを失っただろう?」 「私は······後悔などしていません」  大切な母親を殺され、親しい従者たちを殺され、自身も深手を負い蠱毒に侵された。それでも、後悔などするわけがない。 「私は、父上の操り人形にはなりません。彼らの足枷になるつもりもありません」  数日後、その言葉の意味を思い知らされる。  与えられた任務を早々に片付け、寝所に戻る。いつものように、桃李(タオリー)は「おかえりなさい」と笑みを浮かべて迎えてくれた。  寝台から動くこともままならない状態だったが、身体を起こしてこちらを見上げてくる。 「······なにも訊かないんですね、」  どこか寂しそうに口元を緩めて桃李(タオリー)が言う。自分を監視するために近付いてきたこと? その言葉のすべてが、偽りだったこと? その身さえ命令のために捧げたこと? その感情も全部嘘だったこと? 「この俺が気にするとでも? 父上が俺の弱みになるようお前を仕向けた? 残念だったな、お前がどうなろうと俺には少しも痛手になんてならない。弱み? そんなもの、俺にはひとつもない。そんな価値、お前にはない」  だから、どうか自分を責めたりしないで。  嘘でも偽りでも、救われたのは事実。  自分に触れてくれた、抱きしめてくれた、唯一のひと。 「さっさと傷を治して、ここから消えろ。もう二度と、俺に近付くな」  そうすれば、きっと、こんな風に傷付けられることもない。  その顔を見ていられず、背を向ける。  その時だった――――。 「······どうして、」  囁くように紡がれた言葉と同時に、ガシャンという大きな音が響いた。寝台の横に置かれていた花瓶が割れた音だった。  振り向いた時、桃李(タオリー)はゆらりと揺れながら立っていた。その手には花瓶の大きな破片が握られ、赤がぽたぽたと床に滴っている。その琥珀色の瞳は真っすぐに自分に向けられていた。 「私、は······本当の私は、あなた以外はどうなってもいいと思っていて。優しくなんてない。母が目の前で殺された時も、何にも感じなかったんですよ? あんなに善くしてくれたのに、私、あなたじゃなくて良かったって、心のどこかで思っていて、」  涙。  魔族が流すことなどないそれに、梓楽(ズーラ)は手を伸ばす。その距離は遠く、届かない。透明で美しいそれと、手から流れる赤が床で混じって、滲む。 「藍玉(ランユー)、あの子のことも、あんなに慕ってくれているのに······私は、あの子の枷でしかない。いずれ、あなたと同じようになってしまう。父上はそうやってあの子の力を利用するつもりなんです」  首に当てられた凶器。鋭い花瓶の欠片を震える両手で握りしめ、流れる涙はそのままに、桃李(タオリー)はゆっくりと首を振る。  何をしようとしているか、問わずともわかる。魔力がほとんどない今の状態でそんなことをすれば、間違いなく死んでしまう。  魔力を注いでも傷が治らないこと。蠱毒を取り除かない限り、どうにもできないこと。そのためには、父の出した要求を呑むしかない。 「お願いです。あの子が、藍玉(ランユー)が、魔界を去るための手助けをしてあげてください。あの子は、争いを好まず、その力を隠して生きているんです。だから、どうか、その恐ろしい力を使わせないで······ひとを、殺させないで」 「約束する。だから、頼むから、馬鹿なことは止めてくれ······っ」  その答えを聞いて、桃李(タオリー)は穏やかな微笑を浮かべる。しかし、その首に当てたままの破片を放す気がないようだ。  それどころかより強く当て、ガタガタと震えているせいでその度に自分を傷付けてしまう。 「言ったでしょう? あなたの枷にはなりたくないんです。そんな価値もないと、あなたはさっき言ったけど····私には、あなたしか見えないから、」  枷にはなりたくない。  でも、自分だけを見て欲しい。  他の誰かじゃなくて、"私"を。 「あなたも、そうであったら良かった······」  ぐっと震える手を押さえ、力を入れる。それは躊躇いもなく肉を裂き、飛び散った赤が部屋を染め上げていく。床を寝台を自分自身を、そして愛しいひとを同じ色に染めていく。ふらりと力なく傾いだ身体が床に落ちることはなかった。 「······なんで······こんな、こと」  片腕で抱き止められたまま、床にゆっくりと沈んでいく。今にも泣き出しそうな歪んだ顔に、涙が零れることはない。傷付いた首を押さえ、止まらない赤に絶望する。魔力を注いでも意味がないのに、注ぎ続けた。 「······私だけ、って、······いって?」  あいしているのは、わたしだけ。  これからさきも、ずっと。  わたしだけって、やくそくして?  やさしいうそを、ほんとうにして? 「なにもいらない····他の誰か、なんて、いらない······俺は、お前だけ······だから、」  ぎゅっと隙間なく抱きしめて、誓う。  生涯、二度と、他の誰かを愛することはない。  その罪は、全部、自分が背負う。  だからどうか、どこへも逝かないで――――。

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