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番外編① 桃李 前編 ※注

 花椿(ホアチュン)殿。  桃李(タオリー)は母である蘭玲(ランリン)と、同じ宮で暮らしている。  成人した皇子たちは、基本的に自身の宮を与えられそこに住まうのが本来の流れだが、半魔族でありひとの血が流れる蘭玲(ランリン)の扱いを知っていた桃李(タオリー)は、今も共に生活している。  自分にも少なからずひとの血が混じっており、皇子たちの中でも魔力が低く、武芸も術もそんなに得意ではないため、人界へ派遣されるような任務は与えられなかった。  その代わり、幼い頃に大王である父から与えられた、たったひとつの任務があった。  それは、ほとんど同じ頃に生まれた第四皇子の監視。たった二年しか違わない第四皇子である梓楽(ズーラ)。他の兄たちとは百年以上は歳が離れていたので、ほとんど交流もなく、形式的な会話くらいしか交わしたことがなかった。 「桃李(タオリー)、お前は今日から兄の梓楽(ズーラ)の信頼を得て、その行動や言動、なにを考えているかをすべて監視し、私に定期的に報告すること。鏡華(ジンホア)にはくれぐれも気を付けろ。彼女は梓楽(ズーラ)に近付く者を排除したがる。自分はあれ(・・)に近づきもしないくせにな」  大王は桃李(タオリー)が首を傾げたまま見上げてくるのに対して、ふっと口元を緩めた。まだ十にも満たない幼い子供には、理解できなくとも仕方がないだろう。  おいで、と大きな手を目の前に差し出され、桃李(タオリー)は立ち上がり父の前まで近付いていき、その小さな手を伸ばした。  花椿(ホアチュン)殿にわざわざ足を運んだのは、聞き耳を立てるような者がここには存在しないからだろう。  最低限の従者と護衛が配置されており、大王が赴く際は人払いをするので、今の宮はいつも以上に静かだった。  蘭玲(ランリン)も挨拶を交わした後は、自室に籠っていた。桃李(タオリー)に用があると大王が言ったためである。  大きな手は小さな手をそっと掴み、そのまま片腕で抱き上げられる。いつも見ている景色が一変し、高い位置にある視線に戸惑う。  赤い瞳からは先程までの厳しさは消え、どこか優しささえ垣間見える微笑を湛えていた。 「簡単なことだ。梓楽(ズーラ)と仲良くなって、たくさん話をすればいい。あやつが心を開くまで、時間はかかるだろうがな。できるかい?」 「兄様と、仲良しになればいいのですか?」  今まで一度もまともに話したことがない兄と、はたして仲良くなれるだろうか?他の兄たちとさえ、挨拶以外の会話をしたことがないというのに。  不安しかないが、できそこないの自分に父が与えてくれた初めての任務。仲良くなって交わした言葉を報告すればいいのだから、難しいことではないだろう。 「でも······兄様は、私なんかとお話、してくださるでしょうか?」 「それはお前の頑張り次第だろう。お前が頑張れば、お前の母も他の妃たちのように優遇される。お前には何よりの褒美だろう?」  母はひとの血が混じっている半魔族であるため、大王は別として、他の妃たちからはかなり冷遇されていた。  自分が頑張れば、母は報われるのだろうか。それなら、やるしかないと桃李(タオリー)は心を決める。  その日から、皇子たちが集められる場では必ず梓楽(ズーラ)と挨拶を交わすようにした。  魔王候補第二位でありながら、梓楽(ズーラ)の周りには高官たちも近寄りたがらず、他の三人の皇子たちも関心がないようだった。  それもそのはずで、梓楽(ズーラ)は挨拶をされても誰ともひと言も言葉を交わすことはなく、素通りしていってしまう。高官たちは一応形だけの挨拶はするが、それ以上の余計なことはしなかった。  それが日常と化していたので、桃李(タオリー)はまったく気にも留めていなかったのだが、改めて状況を見てみると不思議な光景だった。  仮にも魔王候補、赤い瞳を持つ皇子だというのに、第一皇子の玖朧(ジゥロン)との扱いの差に違和感さえある。もちろん、先に生まれもう成人している玖朧(ジゥロン)が期待されているのは理解できる。  彼は完璧すぎる皇子だった。  だからだろうか。いつも俯いていて挨拶さえまともにできない梓楽(ズーラ)は、あくまでも第二候補、つまり玖朧(ジゥロン)の"予備"としての扱いなのだろう。  挨拶を交わしても何度となく無視されたが、ある日偶然、衝撃的な場面を目撃してしまう。  紫烏(ズーウー)殿は花椿(ホアチュン)殿の近くにあり、途中までは同じ路を辿る。大王から与えられた任務は未だ思うようにいっておらず、桃李(タオリー)は護衛も付けずにこの辺りを意味もなくうろうろしていた。  もしかしたら、紫烏(ズーウー)殿から出て来た梓楽(ズーラ)に逢えるかもしれない。そうしたら、偶然を装って会話ができるかもという子供ながらの発想であった。  元々花椿(ホアチュン)殿の護衛も従者も最小限しかいなかったので、抜け出すのも思った以上に簡単だった。  目の前に続く整えられた路は、十字に分かれており、高い塀が迷路のように方向感覚を失わせる。何年も通っている道だが、いつも初めて来たような気分になって、桃李(タオリー)は右の道に足を向ける。  そんな中、ガシャン! という陶器が割れるような音が響き、桃李(タオリー)は向けていた足を止める。その音は紫烏(ズーウー)殿の方から聞こえて来た。そのすぐ後に、複数の悲鳴が上がる。  まだ幼い桃李(タオリー)は響いた悲鳴に対して、単純に"怖い"と思ってしまった。なぜなら、それはあまりにも悲痛な叫び声で、何度も繰り返しては、そのどれもが途中で途切れてしまうのだ。  ただ事ではないと想像させるには十分で、思わず逃げ出したくなったが、聞こえてきたのが紫烏(ズーウー)殿ということもあり、何とか踏み(とど)まる。 (怖いけど····とにかく、覗いてみよう)  薄桃色の羽織をぎゅっと握りしめ、桃李(タオリー)は右の道から左の道へと踵を返した。あり得ないことだが、万が一賊でも入り込んでいたら大変だし、勘違いならそれで良いと思ったのだ。  紫烏(ズーウー)殿の門の隙間から、中の様子が覗えた。その光景に、思わず口を塞ぐ。目の前に広がるその凄惨な状況に声を上げそうになったのだ。  殺風景な庭に佇む小さな影。その少し先に満足そうな笑みを浮かべて立っている、紫色の優雅な上衣下裳を纏う女性。  あれは、梓楽(ズーラ)の母である鏡華(ジンホア)だ。庭の真ん中で赤を滴らせた剣を握り締め、立ち尽くす梓楽(ズーラ)の後ろ姿が見えた。  その周りでぴくりとも動かない者たち。纏っている衣を見るに、護衛の武官や従者たちだろう。状況が全く呑み込めない。  そこには心臓を貫かれ、無残にも絶命している者たちの姿があった。いったい何が起こっているというのか。 「良い子ね、梓楽(ズーラ)。これであなたに近付く者はいなくなったわ。わかったでしょう? その者たちはお前のせいで死んだの。お前は一生、誰とも関わらずにひとりで生きていかないと駄目よ? お前は誰にも触れられることなく、私以外に愛されることもなく、ただの駒として大王様に一生を尽くすの」  梓楽(ズーラ)鏡華(ジンホア)の言葉に対して何か言うでもなく、ただ剣を強く握り締めていた。  桃李(タオリー)鏡華(ジンホア)に対して、今まで美しくて怖いひとという漠然とした印象しかなかったが、その言葉を聞いて、その眼を見て、狂った愛情で梓楽(ズーラ)を縛る、恐ろしいひとという現実を思い知る。  狂気。  これが梓楽(ズーラ)にとっての日常なのだろうか?  自分とはあまりにもかけ離れすぎていて、想像もできない。蘭玲(ランリン)はいつも優しく微笑みかけてくれるし、私の可愛い桃李(タオリー)と言って頭を撫でてくれる。たくさん褒めてくれるし、甘やかしてくれる。  鏡華(ジンホア)は興味が無くなったのか、侍女を連れてさっさと奥へと消えていった。それを待っていたのかのように、握っていた剣が地面に音を立てて落ち、繋がれていた糸が切れたかのように、梓楽(ズーラ)もその場に崩れ落ちる。 「ごめ····な、さい········ごめ······っ」  カタカタと震える小さな身体を自分で抱きしめるように、膝を付いたまま地面に伏せて蹲る。それはまるで、自分の周りで息絶えている者たちへの懺悔のように見えた。  状況はよくわからないが、鏡華(ジンホア)が言っていたことを読解するに、自分に善くしてくれただろう護衛や従者を、彼自身の手で残酷に殺させた、ということだろうか。  こんなこと、赦されるのだろうか?  宮ごとに配置されている武官や従者は、確かに皇子や妃の所有物ではある。しかしその扱いが自分の宮とあまりにも違いすぎて、幼い頭では理解できない。あんな状況に置かれている梓楽(ズーラ)を、どうやって救ってあげたらいいのか。  救う?  自分で考えて、自分で問いかける。そんなこと、できるわけがない。 (父上は、酷い扱いを受けている兄様を心配して、私にあんな任務を与えたのかな?)  ふと、父の言葉が頭を過った。 『鏡華(ジンホア)にはくれぐれも気を付けろ』  あの時はその意味を知りもしなかったが、今なら解かる。  蹲ったまま震えている梓楽(ズーラ)を見守る。立ち上がるまで、ずっとその姿を見つめていた。できることなら駆け寄って、声をかけてあげたかった。けれども、ふたりを隔てる壁はぶ厚く、どうすることもできない。  なにより、もし鏡華(ジンホア)に見つかったらと思うと、怖くて動けなかった。  この時はどうすることもできず、やがて立ち上がった梓楽(ズーラ)が、周りに横たわる無残な姿の死体を弔う姿を見届け、その場を後にした。

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