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第1話
「よお、オニーサン。ひとり?」
やっと残業が終わり、ビルの自動ドアをくぐった時、日野は聞き覚えのある声に呼び止められた。
特徴的なしゃがれ声。振り向くと、癖の強い黒髪の下、吊り目がちな相貌がこちらをまっすぐ見ていた。口元にはニヤニヤと笑みをたたえている。いで立ちはいつもの、喪服のような黒いYシャツとスラックス。
「……ひとり以外に見えるか?」
日野は男を一瞥し、歩き出す。「ちょっと待ってよお」と、男――立川陽介は、当然のように隣に並び、日野の肩に手をかけた。
「つれねえなあ、ヒノちゃん」
「話しかけ方を考えろ。あれじゃまるでナンパだ」
「嫌だなあ、まるでじゃなくて正真正銘ナンパだって」
「なるほど、論外だな。俺は帰って寝る。おやすみ」
日野は肩の手を振り払い、歩調を速めようとした。瞬間、立川が目の前に立ちふさがる。日野よりわずかに小柄な彼だが、正面から対峙すると、立川には妙な迫力があった。
「ちょっとお、話くらい聞いてくれてもよくない?」
「……なんの用だ」
「セトリの相談」
立川はにこりと嘘くさい笑みを浮かべる。
立川と日野とは、高校時代からの旧知の仲だ。文化祭でバンドを組むことになり、今もどんな因果か一緒にバンドをやっている。立川がボーカルで、日野がギター。この組み合わせを――空白はあったとはいえ――かれこれ十年はやっていることになる。
「ついでに、ヒノちゃんもお仕事で疲れてるだろうし、慰労会?」
「結構だ」
「ええー、いいじゃん。ハナキンだぜー?」
「明日も仕事」
「え、土曜なのに?」
「休日出勤。繁忙期なんだ」
「ヒノちゃんって本当、行く先々ブラックだよねえ」
「今の会社はまだマシな方だよ。手当が出る」
日野は指で眼鏡を押し上げ、再び歩き出した。「ま、そういうわけだし飲もうぜ」と立川が肩を組んでくるのも、振り払うのは諦めた。
「お前、下戸だろ」
「言葉の綾ってヤツだよ。ジンジャエールでよければ付き合うぜ?」
「店で飲むような金も時間もない」
「じゃあヒノちゃんちでいいじゃん」
「散らかってる」
「気にしなくていいのに」
「俺が気にするんだ」
「じゃあ、片付くまで外で待ってる」
「……しつこい男は嫌われるぞ」
「あら、ヒノちゃんはそんなことで俺を嫌ったりしないでしょ?」
なぜか自信満々の立川の笑みを見て、日野は再び深い溜息をついた。
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