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第2話
結局、日野は立川を家にあげることにした。彼の強引さに押し負けるのはいつものことだった。思えば、高校生で初めて一緒のバンドを組んだ時もそうだった。バンドなど縁のない「優等生」だった自分を、立川は無理矢理「そちら側」に引きずり込んだ。勉強漬けの日々では到底見られなかった景色を自分に見せてくれた。社会人になってからも、彼に強引に手を引かれ、ステージから観客を見下ろした。その景色の眩しかったこと。
苦いような懐かしいような気持ちで、日野は淡々と部屋を片付けた。
数分かけてどうにか見える部屋にし、ドアを開ける。外廊下の手すりにもたれている立川は、妙に絵になって見えた。長い前髪が、風にふわりと巻き上げられる。やがて、立川がこちらに気づき、くるりと振り向いた。
「思ったより早かったじゃん」
にこりと笑う彼の顔は、やはりどこか胡散臭い。
「お邪魔しまーす」
言って、立川が上等そうな靴を脱ぐ。日野も続いて部屋に上がり、真っ先にキッチンに向かった。換気扇をまわし、煙草を一本取り出す。銘柄はマールボロの赤。
火が灯る。吐きだした煙が換気扇に向かって吸い込まれていく。
「相変わらずヘビースモーカーだねえ」
「仕事中は我慢してる」
「いいじゃん。たまには大事だよ、息抜き」
「お前は息を抜いているところしか見たことないけどな」
「えー? 俺だってけっこう真面目にオシゴトしてんだけど」
「例の映画か?」
「そうそう、やっとクランクアップでさー。しんどかったからねぎらって?」
「はいはい」
一本を吸い終わり、灰皿に煙草を押し付ける。狭い座卓の上には、度数の強い缶チューハイと、立川用のジンジャエール、それから数種のおつまみが並んでいる。日野は迷いなくチューハイに手を伸ばし、プルタブを開けた。ぷしゅ、と小気味いい音が鳴る。
軽く乾杯をして、日野は缶を傾ける。
強い酒が回る感覚。けど、酔えはしない。どれだけアルコールを摂取しても、足元がふらついても、どこかに冷静さの種は残っている。日野は自分のそんな体質を時折憎く思う。
梅雨のはじめの夜。一雨きそうな気配がしていた。部屋はじっとりと蒸し暑く、冷房をつけるかどうか迷うほどだった。缶もペットボトルも、うっすらと水滴をまとわせている。
立川とは色々と話をした。十年来の付き合いだからか、不思議なほど話題は絶えなかった。次に控えたライブの話にはじまり、他のバンドメンバーたちの世間話や、高校時代から今に至るまでの立川の放蕩ぶりや、色んなものが酒の肴になった。
その中で、突然よみがえった記憶があった。二人がまだ高校生だった頃、立川の家で同じCDを聞いていた時。ふと自分の唇に触れた、立川の唇のこと。
「何ぼーっとしてんの?」
立川の声で、我に返る。いや、と日野は誤魔化すように酒を煽った。
あの時のことは、気まぐれ屋の立川の、単なる気の迷いとしか思えなかった。あるいは、自分がそう記憶している――と思っている――だけで、本当はそんな事実なんてなかったのかもしれない。何かの記憶と混同しているのかもしれない。ぐるぐる考えながら酒をすすっていたら、不意に缶を取り上げられた。
驚いて上を向いた拍子に、柔らかいものが唇に触れた。
立川の顔が離れていく。日野は凍りついたまま動けなかった。
「……なんの真似だ」
「嫌だった?」
「そういう問題じゃなくて、お前そんな、急に――」
「――昔もあったよね。覚えてる?」
くすり、と立川の笑う声が、妙にくすぐったかった。
――あれは、夢じゃなかったのか。
「顔まっかだよ、ヒノちゃん」
立川がそう言って、缶を座卓の上に置いた。
「……うるさい」
日野はたまらず口元を手で覆った。その手を強引に引き剥がされて、上に跨られる。身体の上に、立川の温度と、重さがある。
間髪をいれず、再び唇が塞がれた。呆然としているうちに、熱いものが唇を割って入ってくる。上あごをなぞられ、くぐもった息が漏れた。水音が頭に反響する。立川の唾液は酔いそうなほど甘かった。
やっと口が離れ、つ、と糸ができて、途切れた。立川は少し息を整えた後、「ははっ、にがっ」と可笑しそうに言った。
「……なんなんだよ、突然」
「うーん、なんかヒノちゃんの顔見てたらムラムラしちゃって」
「だからって急に襲うな」
「……にしては、まんざらでもなさそうだねえ?」
揶揄うように、額にキスをされる。
「俺、伊達に経験豊富じゃないんだぜ。『大丈夫』かそうじゃないか、ちゃんと俺はわかってる」
囁く声は、欲望にどろりと濁っていて、夢魔の囁きか何かのようだった。
「今なら、『酒の勢い』って言い訳できるよ、ヒノちゃん?」
彼の細い指が、つ、と顎をなぞった。
「……お前は素面の癖に」
「さっきちょっとヒノちゃんのもらったから、素面じゃない」
「やかましい」
軽口をたたいている間にも、どく、どく、と鼓動が強くなる。
一夜の過ちを犯していい相手じゃない。まして男となんか寝たこともない。理性はあまりにも盤石で、だからこそ日野はばつが悪かった。立川のように、ほんの気まぐれで誰かと寝られるような気質ではない。この時のことはばっちり覚えているだろうし――そして同時に、後悔するだろう、という気もした。
「どけよ、立川」
「あら、怒った?」
「俺にはそういう趣味はない」
「わかんないじゃん。なにごとにもハジメテってあるもんだしさ、意外とイイかもしれないじゃん」
――どこまでこの男は、俺を篭絡させようとしてくるんだ。
顔をしかめると同時に、耳に、首に、頬に、立川の唇が触れた。立川、という制止は聞こえないふりをされた。
「……誰にでもするのか、こういうこと」
「やだなあ、人を尻軽みたいに言わないでくれる?」
「事実だろ」
「昔はね。けど今は違う」
挑戦的な、触れるだけのキス。それを引き剥がして、日野は立川を睨んだ。
「……お前は薄っぺらな意味で人恋しいだけだ。後で絶対に後悔する」
「しないよ。ヒノちゃんだもん。何年一緒にいると思ってんの?」
「だからだよ。馬鹿」
「怒んなって」
好きだよ、という低い囁きが、臓腑にずんと響いた。日野が躊躇い、言葉を探している間にも、立川の唇や手が身体をなぞる。そのたびに、ぴくり、と身をよじりそうになる自分が憎い。
耐えろ。自分にそう言い聞かせると同時に、立川がズボンの中心をすぅっと撫でた。
「ココは、こんなに正直なのにねえ? ……なんてね、ははっ、エロマンガみたいなこと言っちゃった」
「いい加減に――」
敏感なところをなぞられ、日野は途中で声を押し殺す。
「我慢してんの? かーわい」
くすくすと笑う声。
立川が再び舌を入れてきた。麻薬みたいな甘ったるい味。頭がぐるぐると混ざってくる。その間に、ベルトが外され、ファスナーがおろされる。
「いい子だね、ヒノちゃん」
その一言で、ぷつん、と何かが切れた。
同時に、押し倒される気配がした。絡まり合ったまま床に頭をつけた時、日野は立川の肩を無理やり床におしつけ、その上に馬乗りになった。
日野の下では、驚いた様子の立川が、きょとんとこちらを見つめていた。
「……前にも言ったろ。俺はお前が思っているほど善良な人間じゃない」
荒い息を整えながら、日野は言った。
「生憎、男に“抱かれる“趣味はないんだ」
日野は首元のネクタイをほどく。「わかるよな、立川。散々煽ったのはお前だ」
「……あはっ、いいねえ」
少しの間の後、立川が愉快そうに破顔した。整った目鼻立ちと、それに似合わない乱杭歯が、ぐん、と興奮の針を上げた。
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