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第16話 一カ月記念

 結局マンションに着いた頃には、暗くなっていた。  清人は都内在住らしいから、今から帰るのも大変だろうと思う。埼玉は道が混み過ぎだ。 (電車で帰ってくればよかったかなぁ。けど、色々話が聞けて、俺的には良かった、かも)  玄関の扉を開けて、部屋の前に立つ。事務所から戻ってきた化野と目が合った。 「おかえりなさい、直桜」  にこやかに挨拶してくれた化野の表情が、急に険しくなった。直桜に顔を寄せて、クンクンと匂いを嗅いでいる。 「清人さんの匂いがしますね。もしかして今日、一緒でした?」  ビクンと肩が跳ねた。 (なんでわかんの。匂いって、何? 鬼って鼻も利くの?) 「今日は大学に行くって、言っていましたよね?」  思いっきり疑いの目を向けられて、たじろぐ。 「うん、そうなんだけどさ。大学の後、ちょっと清人に会って、ちょっと話したりとかした感じ、というか、うん」  別に隠す必要もないのだが、行った場所が場所なだけに黙っておきたい。  じっと直桜を見詰めていた化野が、ふいと顔を逸らした。 「そうですか。清人さん、こっちに来ていたんですね」  キッチンの扉に手を掛けて、化野が振り返る。 「夕飯は済ませましたか? まだなら、たまには一緒にいかがです?」  振り返った化野の表情は、穏やかに戻っていた。 「うん、一緒に食べる」  一緒にキッチンに入ると、既に支度が済んでいた。  何となく豪華な食事が並んでいる。 「今日ってなんか、お祭り的なこと、あったっけ?」  今は真夏だし、特に季節の行事は思い当たらない。よく考えると、お互いの誕生日も知らないが、少なくとも直桜の誕生日ではない。 「意識していませんでしたか? 直桜がここに来てから今日で一カ月ですよ」  化野が照れたように、はにかむ。  全然意識していなかったし、言われなければきっとスルーしていた。 (化野は、俺がここにいること、嬉しいと思ってくれてんのかな)  清人に聞いた婚姻制度や、化野に言われた言葉を思い出すと、耳が熱くなる。  直桜は顔を隠しながらそそくさと椅子に腰かけた。 「ありがとう。全然、気が付かなかった。もうそんなに経つんだな」  手渡されたグラスを受け取る。 「あっという間でしたね。正直、まだ君がここにいてくれて、安心しています。すぐに辞めてしまうかもと思っていましたから」  ビールとカクテルがテーブルに並ぶ。  甘めの酒が好きな直桜の好みまで、化野はしっかり覚えてくれている。 「俺、酒飲むと次の日、記憶がなかったりするけど」 「そうですね。今夜は襲い時でしょうか」  さらりと不穏な発言をされて、更に顔が熱くなる。 「冗談ですよ。約束はちゃんと守ります。魂魄を祓うまで、お預けですね」 「お預けって……」  互いのグラスに酒を満たして、乾杯する。  甘いカクテルは、いつもより更に甘く感じられた。 「今日は清人さんと、どんな話を? 今後のこととかですか?」 「うん、そんな感じ。あとは、清人が前、化野のバディだった話とか」  嘘ではない。化野の中の魂魄に関わることも、今後のことに含まれる。 「私がこの仕事を始めて、最初に組んだのが清人さんでしたからね。破天荒な人ですが、頼りになる良い上司です」 「そうだね、そう思う」  清人が化野のことを大事に考えてくれているのは、前から知っているつもりだったが、改めて今日、強く感じた。 「あのさ! あだ……。護に、俺、聞きたいことがある」  食事の手を止めて、化野が直桜に向き合った。 「未玖って、前のバディのこと。本当は聞きたくないし、清人にも話してやるって言われたけど、聞かなかった。でも、聞かなきゃいけないことだと思ってる。だから、どうせ聞くなら護の言葉で聞きたい」  俯いたままの直桜の前で、化野が小さく息を吐いた。 「それは、私の清祓に必要だからですか? それとも、バディとして?」  化野が言う「バディ」は三か月の限定ではない。今後もバディを続ける気があるのか問うているのだろうと思った。 「両方だよ。清祓には多分、絶対に必要だ。バディは、正直まだ迷ってる。でも、護と一緒なら、この仕事も悪くないと思い始めてる。だから、聞かせてほしい」  化野が俯いている。  表情は良く見えないが、あまり明るくは見えない。 「私は、少し迷っています。三か月の試用期間以降も直桜が残ってくれれば、私は嬉しい。けれどそれでは、私が直桜の普通を奪ってしまうことになる」 「だからそれは、俺が望んで……」  化野が首を横に振った。 「普通を得るために、直桜は今までどれだけ苦労してきましたか? この仕事を続けるということは、総てを諦めるのと同じです。君のように強い力を持つ術者なら尚のこと、与える影響も受ける影響も大きい」  化野が言いたい内容は、理解できる。  この仕事に就けば、もう普通には戻れない。直桜が望んだ生活は二度と送れない。引き返すなら、今しかないのだ。 「私は直桜が大好きです。だからこそ、望む生活を掴んでほしいと思うんですよ」 「俺と一緒にいたいとは、思わないの?」 「思います。何より強い願いです。だからこそ、私も迷っています」  顔を上げた化野が、困ったように笑んだ。 「俺、最近、普通がわからなくなってきてる。護が前に言ってただろ。今はこの生活が普通だって。俺も今は、護と清祓屋(はらいや)やってるのが普通になってきてる。護が隣にいるのが当たり前になってきてる、だから」 「直桜?」  化野が立ち上がり、直桜の顔を手で覆った。  涙がポロポロと零れ落ちる。 「あれ? なんで、俺、泣いて……」  何で、涙が流れるのだろう。悲しい話をしている訳ではないのに。  化野の舌が直桜の涙を舐めとった。 「感情が昂っても、人は涙が流れるんですよ」 「化野の、鬼化と同じ?」 「そう。直桜は聡明なのに、人の感情には疎い所がありますね。特に自分の感情には無頓着だ」  頬に流れた涙を舐めとられて、心臓がざわりと音を立てた。 「よく、わからない。こんなに誰かを求めたのも、傍にいてほしいと思うのも、初めてだから」 「その言葉がどれだけ強い殺し文句になっているかも、理解していないでしょう? 本当に、困った子だ」  唇が重なって、何かが流れ込んで来た。  直桜が飲んでいたカクテルの甘い匂いが、鼻から抜ける。  こくりと飲み込むと、目の前に化野の顔があった。 「ドロドロに甘やかして、本当に俺無しでは生きられない直桜にしてしまいたい。俺から離れることなんか、考えられなくなるくらいに」  大きな手が直桜の顔を覆う。  いつの間にか眼鏡を外した化野の顔が迫る。  唇を食んだ口が、首筋を甘く噛んだ。  気持ちが良くて、噛まれたところがじわりと痺れる。 「今もあんまり上手く、考えられない。護が俺以外の誰かとバディを組むなんて、嫌だ。俺以外の相手に求婚なんか、してほしくない。護がいない家に帰るの、嫌だ」  頭がふわふわして、心地が良い。  化野が触れている場所が、やけに熱い。  大きな肩に手を回して、抱き付く。 「直桜、それ以上は今はダメだ。約束を、守れなくなりそうだから」 「約束は、もういいや。護の中に溜まってるもの、全部俺の中に流し込んで。俺が綺麗に聞食して清めてあげる」  耳たぶを何度も食む。  熱を持った化野の肌が、気持ちいい。  戸惑う化野の手が小さく震えている。 「直桜? 酔ってるのか?」  心なしか、声が震えて聞こえる。 「酔ってないよ、ちょっと気分が良いだけ」  化野の耳を舐め挙げる。  肩が大きく震えて、彷徨っていた腕が直桜を抱き上げた。 「泣いて懇願しても、やめないぞ。多分、止まれない」 「ん、いいよ。やめないで」  歩き出した化野の首にしがみ付く。  項に唇を滑らせて、何度も強く吸い上げた。

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