1 / 2

1. 久遠の約束

 春爛漫、というにはまだ少し早いけれど。  梅香がほんのり漂い始め、硬かった桜の蕾はようやく柔らかな色を呈する。  冷たかった風はいつの間にか優しい温かさをつれて、ほんのり甘い香りを届けてくれる。  窓を開けるだけで、僕もその恩恵を受けることができる。  早春の風は強いけれど優しくて、窓辺に立つ僕の頬を優しく撫でて髪に抜ける。  また、春になったのか。  季節をじっくり感じるような生活はしていないけれど、春だけはいつもいつも否応無しに僕の感性を刺激する。  花が咲き乱れ心新たに新年度が始まるこの頃は、人ばかりか総てが浮き足立って感じられる。  僕の一番、嫌いな季節。  こんなにも鋭敏になるのには、他にも理由があるのだけれど。  めずらしく早く起きた休日は、特にすることもない。  少し多めにコーヒーを入れて、軽めの朝食。  今日はこのコーヒーを飲みながら、だらだと過ごす予定。  こんな贅沢な時間の使い方はない。  熱々のコーヒーを二人分入れて、窓辺で読書に勤しむ相方に差し出す。  彼は何も言わずにそれを手にすると、徐に口に含んだ。 「今日のは、薄いなぁ」  愚痴ではなく感想。  薄かろうが濃かろうがコーヒーなら何でも好きなのを、僕は良く知っている。 「こんな時間から読書なんて、本当に君らしいね」  彼は、いつも自由で何者にも縛られない。  好きなことを好きなだけして、誰に迷惑をかけるでもなく誰からも疎まれない。  感情の起伏は殆んどないが、何故かいつも不敵に笑っているようなそんな奴だ。  こんな気分のいい朝に彼が読んでいるのは「辞世の句」なのだから、全く彼らしい。 「西行さんはさぁ」  数多くの偉人達の辞世の句が載っているその本の、ちょうど西行のページにさしかかったのだろう。  唐突に思いついたことを話し始めるのも、良くあることだ。 「2月に死んだんだろう。この花は寒桜だよな」 (ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比)   有名な西行の辞世の句。僕はこの句が、とても好きだ。 「暦が違うから、今なら3月なんじゃない。山桜が咲く頃かもね」  彼は、ふうんと鼻を鳴らして、 「いや、さ。寒桜の下で死んだんじゃ、ちょっと寂しくないかなと思ってさ」  違うのなら良かった、と彼はまた読書に戻っていった。  寒緋桜はまだ寒い時期に咲く。  小ぶりで花芽も少なくどこか寂しい印象を与える木だ。  でも僕は、その寒桜が春に咲き誇る今の桜より好きだけれど。 「染井吉野が日本で植えられるようになったのは明治以降だし、それ以前は桜といえば山桜だよね。一本一本は小さいけど、沢山集まるとすごく綺麗だよ。うちの実家の山桜は見事だ」  目を細めてそれを読んでいる彼に、余計なことを口走る。  彼は本から目を離して僕の方に向き直ると、 「そうか」  と、微笑んだ。  きっと彼は西行さんが侘しい桜の元で死ぬよりも、盛大で綺麗な桜の元で死ぬことを望んだのだろう。  辞世の句だから、それは本人の願望なのだけれど変に感情移入しやすいのも彼の可愛いところだ。  僕としては、寒桜の元で死ぬのも悪くない、と思えるのだけれど。 「もちもちの木。知ってるか」  彼の口から、またも唐突に別の話題が飛んできた。  木つながりで思い出したのだろう。 「知ってるよ」  子供の頃に、よく読んでもらった絵本。  恐らく今でも、実家の僕の子供机の上に、それは置いてある。  あの頃と変わらない景色の中の一風景として。 「あの木が怖くてさ。子供の頃、まともに読めなかったんだよ。見られなかったっていうか」  彼の言葉が僕には意外だった。  怖いものなんて何もなさそうな彼の怖いもの。  子供の頃の話とはいえ、なんだか笑える。  それ以前に意外なのは、僕と意見が合った事。  大抵の事が正反対な僕らの意見が一致するのは珍しいことだ。 「僕も怖かったな。あの枝の感じが」  僕の言葉に、彼もまた意外そうな顔をした。  その顔を見て、僕がにこりと笑う。  彼もつられて笑顔を見せた。  彼は読んでいた本を閉じて、外の景色を眺め始めた。 「おもしろき こともなきよを おもしろく か」  今度は高杉晋作だ。  最も、この辞世の句は後付の伝説みたいなもので、家人の回顧録によれば実際は「しっかりやってくれろ」とかいう言葉だったらしいが。  高杉の荘厳な人柄や人生が、そんな伝説を産み出したのだろう。  あくまでも言葉としてなら嫌いではないが、個人的に高杉晋作の人生を考えると彼が最期に記した言葉としては少し違和感がある。  しかし、目の前の彼はこの辞世の句が好きなのだろう。  満足げな顔で、これから咲こうと色付き始めている桜を見つめている。 「俺の人生で一番面白かったことは、お前に会えたことだなぁ」  唐突なのは毎度のことだが、あまりに予想外な言葉に若干驚いた。 「どうしたんだい、突然」 「いや」  呟いて、彼は少し冷めたコーヒーを啜った。 「日はのぼり、陽はまたのぼり、日はのぼる」  わけの分からないことを口走る彼に、 「のぼりっぱなしじゃないか」  くすくす、と笑いながら突っ込みを入れる。 「いいじゃないか。ずっと昼間。ずっと今日。てな感じでさ」  この発想は、如何にも彼らしい。  明るく前向きで真っ直ぐな彼には、日の光がよく似合う。 「僕は夜も好きだよ。特に朔の夜が好きだ」  静かな暗闇は心の安寧と、ほんの少しの寂しさをくれる。  そんな時間が僕にとっては、とても大切で必要な時間なのだ。 「どれだけ光を拒否するんだ」  彼は呆れ顔でそういうと、僕の腕を引っ張って隣に座らせた。 「こうやって、お日様の元に二人でほっこりしてるのも、いいもんだろ」  そう言って僕の頭を撫でる彼の手をとって、ぎゅっと握る。 「そうだね、でも。僕にとっての光は君だけで充分だよ」  彼は僕にとって光だ。  それは希望とか未来とか、そんなものではなく、ただ僕がここに在るための光。  ずっと晴れていた彼の表情が、少しだけ曇った。  僕は、どうしようもなく苦笑する。  二人の間を春の優しい風が、そよそよと流れてくる。  途端に彼の表情が険しくなった。  やがて緩やかな風は突風に変わり、二人の間を吹き荒れる。 「そろそろ、時間、みたいだ」  僕は、ゆっくりと彼の手を離して向き合って座った。  彼は如何にも悲しそうな表情で僕を見つめる。 「さぁ、いつものように。見送って」  彼の頬に手を当てて、優しい笑顔を向ける。  笑っているつもりだけど、僕もきっと悲しい顔をしているんだろう。  彼をこれ以上、悲しませたくは、ないのに。 「ずっと今日なら、帰らずにすむのにな」  彼の搾り出すような声が、心に突き刺さる。 「だから日は、のぼりっぱなしがいいんだ」 「夜が来るから、季節が巡って、また来年が来るんだよ」  彼の目から流れ落ちる涙を拭う。 「来年が来ればまた、会える」  彼に触れる僕の手が、次第に色を落とし始める。  薄れてゆく僕の身体を、彼は強く抱きしめた。 「これだから、春は嫌いだ」  その言葉を肩越しに聞いて、僕はにっこり微笑んだ。 「そんなところは、同じだね」  正反対の二人の唯一絶対の共通点。  生命が芽吹くはずの春。  僕らにとっては、いつも別れの春。 「来年も来るだろう」 「君が望んでくれるのなら」  僕の顔を彼は両手で包み、僕の唇に優しく自分の唇を重ね合わせた。  巡る季節を、また共に。  それはいつもの約束であり、誓いの証。 「どうか、元気で」  言い終えぬうちに、僕の身体は眩い粒子に覆われて小さな光となり、やがて春の風に溶けていった。  空っぽになった手の中を、まだ大切そうに見つめている彼の顔を、春の風が優しく撫でる。  ああ、どうか、そんな顔をしないで。  僕は、またきっと君に会いに来る。  あの日、突然君の前から姿を消した、これが僕にできる唯一の贖罪。  でもそれは、君を永遠に繋ぎとめる鎖でもある。  だからどうか、いつか僕を忘れますように。  久遠の約束から僕達が解き放たれる日が来ますように。  そう願いながら、僕はまた新月の夜のような世界で、君という光に会える日を待っている。

ともだちにシェアしよう!