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黒薔薇の章 肆節

「――太宰」 「誕生日、御目出度う」  冷えた部屋で中也を出迎えたのは何事も無いかの様に長椅子で寛ぐ太宰だった。正しく中也の読み通りで、祝い事を大切にする太宰が今日と云う日を忘れる筈が無かった。仮令直前まで他の男に身を寄せて優しく微笑み掛けて居たと云う事実が在ったと為ても。  脱いだ帽子を定位置に掛けると、太宰の視線が手元の花束へ注がれて居る事に中也は氣附いた。其の視線は純粋な興味と謂う依りは眸の深き奥に昏い物を抱え込んで居る様な眼差しで、其の視線の眞意は直ぐに太宰自身の口から明かされた。 「誰に、祝われたんだい?」 「何?」  不機嫌そうに太宰は長椅子から身體を起こし、花束自身に敵意を向けて居る様な物言いだった。太宰に采って主賓は贈答品を受け取るべき存在であり、中也が太宰へ贈る為に花束を用意為た等微塵も想定為て居なかった。其の割冷えた室内に太宰の持ち込んだ贈答品が在る様にも視えず、中也は但凪の様な心で手許の花束へと視線を落とし、そして其れから太宰へと視軸を移す。  そして、氣附いた違和感。  太宰と斯うして面と向かい会話をするのは何箇月前が最後だったのか、以前とは何が異なるのか中也が思考を巡らせる前に其の答えが鼻腔を突き抜けた。手許の花束の香りに誤魔化されては居たが、其れ迄の中也の部屋と明らかに違う事は香り其の物だった。  普段の太宰とは全く異なる其の香りがドストエフスキーからの移り香で有ると中也が氣附くには時間を要さなかった。竟先程迄長椅子で惰眠を貪って居たかの様な工作を為て居ても、冷え切った室内が有人期間の短さを表して居た。其れも其の筈、太宰は中也が帰宅する直前迄ドストエフスキーと共に居たのだから。  あの後如何用に帰宅を為たのか中也は善く覺えて居ない。太宰とドストエフスキーが何処へ消えたのかも把握為て居なかった。だからこそ帰宅為た中也の視界に太宰の姿が飛び込んで來た時、中也は先程外で視た出来事こそが幻覺だったのでは無いかと思えた程だった。  自身は外で秘密裏にドストエフスキーと密会を為て居た癖に、中也が花束を第三者から贈られた可能性に臍を曲げるとは何処迄も勝手な男だと中也の中には嘲笑にも似た物が込み上げて居た。  其の嫉妬心すら愛しいと思って了うのは、未だ何処か奥底で可能性を信じて了って居るからだった。 「莫迦か。俺が手前宛てに花購っちゃ可怪しいのかよ」 「私に?」  二十四本の薔薇で築かれた花束を長椅子に腰を下ろす太宰へと差し出す。 「――なァ太宰、愛してる」  仮令太宰の心がもう自分に向いて居ないと為ても。自分の氣持ち丈は誰にも否定をさせない。  太宰の大きな虹彩の中で瞳孔がゆっくりと散瞳して行く。中也は今迄何度斯様な太宰の驚いた顔を観たいと願って來ただろうか。硬直為た太宰の顔はまるで精巧に造られた人形の様で、眉ひとつ表情を動かさず太宰は中也が差し出した花束へと諸手を伸ばす。  四六時中、何時でも――――殺したい程憎んでる。  花束を振り払う様に投げ飛ばす。黒い花被が吹雪の様に中也と太宰の間に舞い散る。不意に室内に拡がる噎せ返る様な薔薇の芳香。ドストエフスキーの残香等氣にも為らない程、黒い花被と芳香が部屋を埋め尽して行く。  茫然と為て居る太宰の差し出した腕を摑み、其の間々長椅子へと引き倒す。雪の様に黒い花被が舞い落る中太宰は未だ眼を丸く為て中也を視上げて居た。  そして、太宰の白い頚に絡み付く中也の黒い手袋。 「此れが中也の應えかい?」  然して抵抗する素振りも観せない太宰の喉佛が中也の手の中でゆっくりと上下に嚥下活動をする。異能無効化の能力者で在る太宰に対して異能等遣わず供簡単に圧し折れる其の細頚を絞める兩手に中也は力を込めて行く。  夢想の内に何度此の情景を描いた事だろうか。互いの想いは一度だって吊り合った試しが無く、中也は自分丈が抱く大きな感情に何時でも呑み込まれそうな程戰って居た。  斯様な迄に愛して居るのは自分丈で、當の太宰本人にとっては一時の退屈凌ぎの心算で、言葉で語り尽くせない程の愛を示す行動や触れ合いすらも、内心では莫迦にされて居たのかも識れないと――其れを自覺する事すら氣が触れそうで。  其れを察して与えられる言葉も肌の質感や温もりも只此の関係を維持する為丈の物で、心は疾うに此の手の中から離れて居たとするならば――。  今此の瞬間太宰の命を自ら散らす事の出来る悦びに、思わず中也の表情が綻ぶ。  閉籠て居た心の鍵を開けたのは、ほんの些細な切欠だった。其れさえ無ければ今も中也は屹度其の心の奥底に軋む悲鳴を閉籠て、何時かは亦太宰と愛しみ合い傍に居られる丈で倖せだと感じられたあの頃に戻れる筈と信じる事が出来ていた。  唯指先に刺さった黒薔薇の刺丈が其の心に小さな隙間を刻み、〝もう圧し殺さなくて佳い〟そう教えて呉れた氣がした。 「俺には手前しか居ねェんだ」 「――私も、だよ」  太宰の頬にほとりと滴が墜ちる。ひとつ墜ちればふたつみっつと堰を切った様に、雨の如く降り注ぐ滴を太宰は視上げる。二酸化炭素と酸素の交換も間々ならず、中也の手は緩む事無く気管を締め付けて行く。  太宰は微笑んだ。言葉の代わりに傳えたい物を渡す為に。    もう此れ以上何も云わないで  決心を鈍らせる言葉は要らないのです  今此処で貴方を私の手で殺さなければ  屹度私は一生此の苦しみから逃れられなひ  誰依り愛して居るから貴方を連れて逝く  貴方を誰にも渡さない  貴方は私丈の物だから    ――貴方ハ飽ク迄私ノ物。

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