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黒薔薇の章 参節

 限界迄張詰めた緊張の糸は僅かな情動で呆気無く途切れ、そして蓄積為て居た感情は堰き止める物も無く其の全てが白日の下へと曝される事と成った。  此の世に生を受けて何度目かに為る周期の節目。何が目出度いと謂う訳でも無いが、此の世に生まれ落ちたからこそ太宰治と巡り逢い、そして中原中也は情愛と謂う感情を知った。  太宰は好い加減な男に視えて、記念日や祝い事を大切にする傾向が在った。自ら連絡をせずとも此の日許りは部屋に顔を見せるだろうと中也は自負為て居た。  何かを貰う様な事を期待しては居なかった。太宰が自ら中也の部屋へと脚を運び顔を見せる丈で、中也に采っては何依りも勝る贈答品に為る事だろう。  指折り数えて数箇月振りの邂逅と為る恋人に此方から贈り物を為ても罰は中らないだろうと考え路上を闊歩する中也の視界の端に色取ゞの花木を販売する露店が飛び込む。主賓が贈り物を為ては成らないと云う規則は存在しない。贈る花には其ゞ意味が在り、特に薔薇等は贈る本数にすら意味を込められると聞き齧った事の在る中也は吸い寄せられる様に露店へと脚を向ける。  深紅の薔薇は太宰が女人を口説く時に用いるのが相応しく、渡した処で持ち帰る際に何処の誰とも知らない女人へ贈答されても困る。其れでも中也の気持ちを太宰に示すには赤以外の選択肢が存在しないのも事実だった。  そんな中也の目に留まったのは天鵞絨(ビロオド)の様な質感を備え深みを帯びた朱殷の薔薇。其の色に何処か惹き附けられた中也は花筒に活けられて居た其の一本を手に取る。  ちくり、と指先に痛みが走り黒手袋を外して看てみれば茎に残った間々の刺が皮膚に突き刺さり、小さな切創を生み出して居た。放って於けば直ぐに塞がる其の傷痕へ舌先を滑らせ、舌先に僅かな塩味を感じたのと粗同じ機会にて――中也の視線は在る一点に釘付けと為った。  雑鬧の中に在っても見紛う事の無い痩躯の長身と癖の在る蓬髪、幾ら横濱が狹き界隈で在った処でも余程の好機に惠まれ無ければ遭遇する事も無い此の状況に中也の心は踊った。  然し直ぐに中也の其の心が鉛依りも重く沈み込む事に為る。其の原因は太宰の傍らに并ぶ者の存在にあった。并べば其の体軀は太宰と同程度か、其の首を仰ぐ事や臥する事も無く同じ目線の高さで物事を視る事が出来る男――魔人・ドストエフスキーが太宰の横に立ち并び道路の対面側に居た。  恐らく二人は中也の存在に氣附いては居ない。氣附いて居ないからこそ二人の距離は目を疑う程近く、ドストエフスキーの隻腕が背後から太宰の細腰へ回されて居る姿が、今中也の視線の先に在る。  自分では無い誰かへ向けられる太宰の涼やかな笑みに、中也の視界がぐにゃりと曲がる。何重にも薄い膜が重なって行く様に其れが現実の出来事で在る事を中也の脳が拒絶した。  花等如何でも善いと、其の瞬間に駆け出し太宰を摑まえて問い糾す事が出来たならば屹度此れ迄と何も変わらない毎日が此れからも続いて行った事だろう。 「――此の花を、後二十三本用意為て呉れ」  然う告げる中也の手の中では、先程の一本が茎の原形を留めぬ程に拉げて居た。  露店が用意為て居る花の在庫等然程多くは無く、其れが精一杯だった。二十四本〝何時でも想ってい〼〟、其れが嘘偽りの無い此の瞬間中也が太宰へ想う感情だった。  寝ても覺めても四六時中、何時だって中也の心の中には太宰が在った。亦自殺を試みては居ないか、探偵社の面々に迷惑を掛けて居ないか、今日は連絡が在るだろうか、何時迄待てば以前の様に些細な事でも笑顔で語り合える関係を取り戻せるのか。  露店の店主が纏めた二十三本の花束には刺の残った茎が紛れ込む事も無く、何故手にした此の一本丈に刺が残って居たのか、其の謎を中也が解き明かす事は出来なかった。寓話に登場する美女が茨の刺で百年間の睡りに就いたのと同様、中也の指に刻み込まれた切創は寓話然り其れが何かしらの詛いで在るかの様に中也の心臓を強く締め付けた。  中也が片腕に抱く朱殷の薔薇は視れば視る程乾いた血の様な暗黒色へと染まっていき、其れはまるで情熱の紅色が変貌を遂げて行く今の中也の心境と合致為て居た。此の色こそが今の中也から太宰への想いとして相応しい物で在り、茎が拉げた一本を束の中央へ坐すると中也は太宰を抱く様に其の花束を抱き締めた。

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