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第2話 死者の門を前にして
死の門は暗闇に佇んでいる。
死者の入り口に立ったユーリルは一歩足を踏み出しかけたが、繰り返し自身を呼ぶ声に振り返ると、体に生前の重たさが戻ってきた。
驚きとともに瞬きをしてみれば、視界に映るのは見覚えのある天蓋の模様。
しかしそれはいささか懐かしいものだった。
「ユーリル?」
かすかに背中が沈み、自分がベッドに横たわっていると気づいたユーリルは、自身を覗き込んできた人物に目を見張る。
ピンク色の長い髪に、優しげな空色の瞳。何年経っても変わらぬ美しさだけれど、彼女は五年前に儚くなったはずだ。
「……え? 母、上?」
「目が覚めたのね。良かった。ユーリルが起きたわ。早く、侍医を呼んで」
状況が飲み込めないでいるユーリルをよそに、母のエリーサは涙を浮かべながら、近くにいた侍女へ声をかけている。
(母がなぜ? 僕は、生き返ったのではないのか)
懐かしい天蓋は、ユーリルが十代の頃に使っていた物のうちの一つ。部屋の間取り、家具も最近まで使っていたものとはまったく違う。
戸惑いながら視線をさ迷わせていると、エリーサは手ずから水差しを取り、グラスに水を注いでくれた。
差し出されたグラスを見て、ユーリルはミハエルとガブリエラを思い出す。
無意識に体が緊張し、一瞬だけ肩が震えた。だがユーリルは気を取り直してから、それを黙って受け取る。
「母上、いまは、今日は何日ですか」
冷たい水で喉を潤したユーリルは、ようやく疑問をエリーサに投げかける。
「今日は四の月の七日。あなたの十七歳の誕生日よ。長く眠りについて目覚めないから、とても心配したわ」
「十七歳――八年も」
「八年? 八日よ。八日も眠っていたの。薬が合わなかったのかと思ったわ」
ユーリルの独り言は、エリーサに言い間違いと取られたようだった。けれどいまは些細なこととしか思えない。
二十五歳の建国記念日から八年も巻き戻っている。もしや死の間際に見る夢、なのだろうかと勘ぐってしまいさえする。
自身の手のひらへ視線を落とすと、生前よりもなにやら肉付きがいいように見えた。ユーリルは近くの侍女に鏡を持ってくるよう声をかける。
「ずっと寝ていたから、綺麗な髪の毛がうねっているわね。母さまが梳いてあげるわ」
手鏡と櫛を持ってきた侍女からエリーサは両方を受け取り、鏡をユーリルに手渡した。
伏せられた鏡をユーリルは恐る恐る表へ返す。
(緋色じゃ、ない)
覗き込んだ鏡に映るのは、胸元まで伸びた銀と赤色が混じる髪。そしてエリーサによく似た空色の瞳だった。それは皇位継承前のユーリルの色。
(本当に八年、巻き戻ったのか?)
「はい、ユーリル。綺麗に整ったわよ」
ずっと鏡を覗き込んでいるうちに、傍らで髪を整えていたエリーサに声をかけられる。
緩く編んで緋色のリボンを結んでくれた彼女は、まだぼんやりとしているユーリルに優しく微笑んだ。
「お薬の副作用かしらね? 気分は悪くない?」
「薬? なんのですか?」
「……あら」
記憶にないことを言われ、ユーリルが問い返せば、エリーサは侍女と顔を見合わせる。
二人の様子に、もしや記憶が欠落しているのかと、これまでの記憶を探ろうとした途端、ユーリルの頭の中に膨大な情報が流れ込んできた。
未来の二十五年を生きてきたユーリルが知る、十七年間の記憶ではない。覚えのない記憶ばかりで、濁流のように一気に脳内に溢れ、酷い頭痛がし始める。
「ユーリル? どうしたの!」
「皇妃殿下、どうされました?」
「わからないわ。なにかユーリルの記憶に、障害が出ているみたいで」
両手で頭を押さえ、うずくまったユーリルの傍に駆け寄ってくる者がいる。エリーサと話すのは覚えのある声――病弱なユーリルがずっと世話になっていた侍医の声だ。
「ユーリル殿下。わしのことはわかりますか?」
「バウル。薬とはなんだ? 僕は一体」
エリーサと場所を代わり、傍にやって来たのは、白に近い紫色の髪と赤紫色の瞳をした老医。穏やかな声音で安心させるようにゆっくりと、彼はユーリルの背をさすった。
「殿下がお飲みになったのは、魔力の乱れを整える薬です。大丈夫ですよ。血色も良くなっておりますし、脈も正常。記憶の混乱は副作用かも知れませんな。しかし魔力の乱れが一切ありませんので、魔力過多症の改善はされているようです」
「魔力過多症? それは」
また覚えのない言葉が出てきて、不安を覚えたユーリルだが、次第に整理され始めた記憶の中から欠片が転がり出てくる。
(僕の体が弱かった、原因が魔力過多症? 家族とは違い、赤色をあまり持たない僕が、魔力が多すぎた?)
ユーリルの髪は銀色に赤が混じっているけれど、エリーサは綺麗な赤寄りのピンク一色。
体が弱く、髪色がマダラだからこそ、ユーリルは皇位継承候補から外された。
近年、エルバルト家が数代続けてウォンオール帝国の地を預かっている。幸運にも次代の皇太子候補筆頭はユーリルの兄だ。
あと二年。彼が二十五歳になれば皇太子となり、二十八歳の誕生日を迎えれば皇帝は帝位を譲ると公表していた。
だがもし次の候補者がエルバルトから現れなければ、後見となって新しい皇帝の家門を支えていくのが国の習わしだ。
未来でユーリルに順番が回ってきたのは、もうほかに誰も残っていなかったからこそ。
「体はどこも悪い部分はなさそうですな。食事は様子を見て固形物に変えていきましょう。記憶の障害も経過を見ていくのが良いかと」
彼らからしてみると、ユーリルは薬を投与したら八日も目を覚まさなかった重病人。
侍医のバウルにあれこれと事細かく診察をされ、傍ではエリーサにハラハラとした表情をされ、ユーリルはなんとも言えない複雑な気分になっていた。
(死んだと思ったら時間が巻き戻っていたなんて。いま話をしても副作用の妄言と思われそうだな。しばらくは黙っておこう。僕の記憶といまの体の記憶に違いもあるし)
自身が覚えている記憶と異なる記憶があるのは、非常に気持ちの悪い感覚だ。その原因がなにか知りたい。一番はなぜ巻き戻ったのか、ユーリルは理由を知りたかった。
「少し、一人にしてほしいのだが」
「わかりました。なにかあれば些細な変化でも、このバウルにお知らせください」
「ユーリル、いまはゆっくり過ごして。陛下やシリウスたちにも目覚めたと伝えておくわね」
「……はい」
皇帝陛下は父、シリウスは長兄の名前だ。ほかにヘイリーという次兄とミラという姉がいる。
ただユーリルはいまも昔も、あまり兄姉たちとうまくいっていないはずだ。幼い頃からエリーサは末っ子にかかりきりで、彼らも寂しい思いをしてきた。
「君も、外して」
エリーサとバウルが出て行ったあとに、侍女が一人残っていたけれど、ユーリルは彼女も下がらせた。心配そうな表情を浮かべられ、心苦しかったものの、いまからすることはきっと不思議に思われる。
パタンと扉が閉まると、しんとした室内。
誰もいなくなったのを確認し、ユーリルはベッドを降りた。室内用のローブを羽織って、まっすぐに向かったのは普段から使用している机だ。
さして珍しくはない、引き出しが三つある程度の簡素な勉強机。一番上の引き出しを開く前に、ユーリルが右手首の腕輪に触れると、ふわりと光を帯びてすぐにカチッと音がした。
「……あれ? この鍵の魔道具。誰が作ってくれたんだったか」
様々な物に魔法陣を刻み、魔力が少ない者でも使える便利道具。微々たる魔力しか持たない平民も日常生活に取り入れていた。
「駄目だ、また記憶が混同している。魔道具なんてもの、未来では普及してなかった。でも似た道具を誰かが」
入り交じる記憶に翻弄されつつも、ユーリルは机の引き出しの中から、革張りの手帳を取り出した。これは未来のユーリルが知らない日記帳だ。一行目にはこう書かれている。
――きっと将来必要になると言われたので、今日から日記をつけることにした。
ユーリル、八歳の誕生日から記録が始まっている。
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