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第8話 山の仕事

「ちょっと、師匠」  にわかに音丸は逸馬の胸倉を掴みかけたが、その腕を振り払ったのは三弦だった。 「逸馬のおいちゃん?」  と音丸を突き飛ばさんばかりにして逸馬に抱きついていた。 「ああ?」と懐に入って来た若者を見た師匠に、 「僕だよ、みっちゃん! 仁平、柏家仁平の孫だよ。三弦。覚えてない?」 「仁平の孫ぉ? 仁平んとこの……華ちゃんの息子かぁ⁉」  腕の中の三弦がまるで遥か彼方にいるように大声で話しかける酔っ払いである。 「そう! 華ちゃんの息子のみっちゃんだよ。ええーっ! 逸馬おいちゃん。懐かしいなあ」  と逸馬師匠を室内に連れ戻った。  音丸が改めて壁に貼り付いている咲也に目をやると、そこだけ時間が止まっているかのようだった。相変わらず咲也はあられもない姿で震えている。音丸は羽織を脱いで咲也に着せ掛けると、 「〝銀竜草の間〟が私の部屋だから。そっちで休むといい。私達は師匠の部屋で寝る」  先に立って銀竜草の間に向った。振り向くと咲也はまだ壁に密着している。 「咲也!」  と音丸が呼びかけたのと、開いたドアから三弦が姿を見せて、 「これ、僕らの部屋の鍵」  と木札の点いたキーを咲也に向かって差し出したのは殆ど同時だった。  墨文字の書かれた木札の下でぷらぷら揺れているキーを咲也は指先で摘んだ。  そして初めて気がついたように、大き過ぎる羽織で全身を包むと音丸に向かってよろよろ歩いて来た。  咲也から鍵を奪うようにして〝銀竜草の間〟の戸を開けて中に招き入れる。 「何があったんだ?」  と尋ねたが、咲也はひたすら音丸と距離をとって後ずさるばかりである。  痩せた白髪の老人から逃げた身には、タッパのある若い男はもっと脅威なのだろう。音丸は距離を縮めるのを憚って入り口に佇むばかりである。  ベッドが二つ並ぶ先に進むとベランダに出られるガラス窓である。  先程は三弦が飛び降りるのを案じて奥のベッドに陣取ったが、今度は咲也の心配までしなければならない。傍迷惑な気分ではある。  咲也は応接セットに後退を阻まれて、今のところはガラス窓には近づいていない。  実のところ、柾目家逸馬は楽屋内の番付で悪酒の他に女好きでも秀でているのだ。  そんな男の大師匠に女の孫弟子をつけて旅の仕事に出すのは如何なものかと違和感を抱いたのは、今朝の電車の中である。しかし、よその一門のことに仁平一門の二つ目ごときが口を出すのは僭越だろう。  それにいかに女好きとはいえ、祖父と孫娘ほどに年の差があるのだ。支障なかろうと考えたのは浅はかに過ぎたようである。  懐からスマホを出すと電話をかけた。どうも相手も酔っているらしく、音丸の耳を弄さんばかりの大声で頼みを引き受けてくれた。 「女性で……私のファンの女性がこのホテルに泊まっている。今、呼んだ。一人で寝るのが恐かったら泊ってもらえばいい」  公認ファンサイトの運営管理人、菅谷百合絵である。  電話から何分もたたずにぱたぱたとスリッパを鳴らしてやって来た。大柄なのでホテルの浴衣の裾から見事に脛が覗いている。やはり酔っているらしく頬がぴかぴか光っている。手にぶら下げた五合瓶は、この地の地酒である。 「音丸さん、今日の〝錦の袈裟〟楽しかったですわ。あら、咲也さんも。〝子ほめ〟で笑わせるなんて、さすがですわね。二つ目昇進も近いんでしょう?」  文章がわかりにくいこの女性は、話し方もまた変わっていた。昔の邦画のような古臭い言葉を使う。  だが逆にその口調が咲也に安堵感を与えたのか、ソファにすとんと腰を下ろしたのだった。  ザックとスーケースを持って〝駒草の間〟に行ってみると〝銀竜草の間〟と同じ間取りの応接セットに逸馬師匠と三弦が向かい合って座っていた。  テーブルに並んでいる地酒やワインは客の差し入れである。  蜂の子の缶詰や蕎麦チップスを肴に二人でそれらを呑みながら、かつて三弦が暮らしていた仁平師匠の家のことや、当時出入りしていた芸人たちの噂話に興じていた。  小学生だった三弦が大人たちの会話を覚えているのは目覚ましいばかりだった。音丸は舞台衣装の着物を脱ぎ捨てると下着のままでベッドに寝転んでしまった。一日が長過ぎる。 「みっちゃん、そんなことまで覚えてんのか?」  とタメ口で三弦に話しかけたことまでは覚えている。そのまま眠ってしまったらしい。  気がつくと明かりを点けっ放しの部屋にごうごうと鼾ばかりが響いていた。向こうのベッドで眠っている逸馬師匠のものだった。相変わらずシャツにステテコ姿だが、音丸も似たような恰好なのだった。  よく見れば、師匠と同じ布団の中で三弦も眠っていた。つい口元がほころんでしまう。  かつて仁平師匠宅で宴会が始まると、弟子たちはおかみさんの指示を待つまでもなく、隣の八畳間に布団を敷き延べたものだった。酔い潰れた者が適当に寝転がれるようにするのだ。  幼かった三弦は大人たちに「もう寝なさい」と宴会場を追い出されるのだが、気がつくと八畳間で逸馬師匠と共に寝ているのだった。それを揺り起こして、 「ほら、みっちゃん! おしっこして、自分の部屋で寝るよ」  とトイレに行かせ、自室まで連れ帰るのも前座たっぱの役目だった。  なので三弦が寝返りを打った途端に立ち上がって、 「みっちゃん、みっちゃん。おしっこは?」  とその身体を揺すっていた。 「はばかりに行くよ。みっちゃん」  目をこすりながら起き上がった三弦はパンツ一丁の裸だった。応接セットのソファを見やれば服はきちんと畳んで置いてある。音丸はますます笑ってしまう。  布団に入る時は寝間着に着替える。だが眠くて間に合わないようなら、せめて服は脱いで寝ること。昼間の汚れのついた服で布団を汚すな。というのが、おかみさんの躾である。弟子たちも同じように言い聞かされた。  だが何も素っ裸になることはないのだ。下着は着ていてもいいのに、幼かった三弦は遮二無二服を脱ぎ捨てたから、パンツ一丁どころか時には素っ裸で寝ていた。こうして服を畳めるようになっただけでも成長著しい。  そんな思い出に浸っていると、寝ぼけた三弦はベランダの窓に向かってパンツから物を出そうとしている。 「違う! トイレはこっち! こっちでシーするの!」  あわてて腕を引っ張ってバスルームに連れて行く。師匠の家で何度言った台詞だろう。 これが間に合わずに廊下の真ん中で放尿されたこともある。もちろん掃除をするのは前座の仕事である。  都内にしては広い敷地の屋敷だった。師匠は入り婿なので土地も建物もおかみさんの両親の物だという。二階建ての母屋には師匠夫妻とその両親とが住み、出戻りの娘と孫そして弟子たちは一階建ての離れに暮らしていた。  この母子が戻って来てから間もなく離れには、そこはかとなく尿臭が漂うようになった。  寝小便たれの孫の世話係に任命された音丸は、毎朝濡れた布団を干し、粗相をされたあちこちを拭いて回り、夜は寝る前にトイレに行かせ、夜中にも起こしてトイレに行かせた。 「これのどこが落語家の修行ですか?」  思わず尋ねた兄弟子なっぱは、要介護になったおかみさんの父親の面倒を見ているのだった。 「そう思うよな。今時、住み込み修行なんて珍しいもんな。通いがほとんどだよ。家事をするより、本を読んだり映画や芝居を見て勉強しろって言われるらしい」  なっぱは介護用の消臭剤を持って来てあちこちにスプレーしながら言うのだった。 「こっちはそんな暇もありませんよ」  当時の音丸は言葉を選ばず本音ばかりを言っていた。  ちなみに兄弟子なっぱは二つ目になって間もなく落語家を廃業した。思うところがあったのだろう、介護職に転職した。  なので今現在柏家仁平一門は、一番弟子の徳丸、三番弟子の音丸、四番弟子のこっぱの三人である。  トイレで師匠の孫が用を足すのを見守ろうとして思わず目をそらした。あの頃、小学生の股間にあった小さな物は今や立派な大人の逸物である。成長は当然なのだが、ひどく戸惑う。 「おしっこしたら手を洗う!」  トイレを出て行こうとする三弦の腕を掴んで手を洗わせる。そこまでが師匠宅での夜間のルーティンだった。  音丸はかなり眠りが深く、一度寝入ってから起きるのはなかなかの苦行だった。だが熟睡して起こし忘れると間違いなくその夜はおねしょをされる。  前座修行の何がつらかったかといえば、どの家事よりもこの夜中に起きることがつらかった。他の一門ではまずあり得ない修行だったろう。  音丸が自分も用を足してトイレを出ると、三弦はまた逸馬師匠のベッドにもぐりこんで眠っていた。  懐かしい景色である。もっともあの頃は三弦はもっと小さかったし、逸馬師匠はもっと髪がふんだんにあったが。  ベッドの上に脱ぎ散らかした着物を畳んだ。風呂敷に包んでからスーツケースに収める。  夜が明けたら朝から新潟に移動してホール落語、昼夜公演である。それから酒田、長岡、越後湯沢と回ってまた長野に戻って帰京の予定である。  改めて浴衣に着替えると明かりを消してベッドで眠りについた。  カーテンの隙間から明け方の青い光が差し込んでいた。

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