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第9話 銀竜草と光る池

3 銀竜草(ギンリョウソウ)と光る池  三弦(みつる)にとっては、たっぱちゃんとの再会より柾目家咲也(まさめやさくや)との出会いの方が衝撃的だった。  翌朝、三弦は音丸と共に出発せずにホテルに残った。柾目家師弟と行動を共にすることに決めたのだ。  朝食前に他の宿泊客と共にホテルの送迎車に一人乗り込む音丸に、 「大丈夫だよ。逸馬のおいちゃんと一緒だから」  殊更に笑って手を振って見せたものである。たぶん心配はしていたのだろうが、音丸の表情が読めないのは昔と変わりがないのだった。  気が変わったのは朝早くに〝駒草の間〟に咲也がやって来たからである。三弦が目覚めた時に音丸はまだ熟睡しているようだった。そこにドアをノックする音がしたのだ。 「師匠はもうお目覚めでしょうか?」  高校球児のような短髪、身に着けているのはジャケットにチノパンと一瞥では少年にしか見えない女性だった。  平静を装っているが動きが奇妙に強張っているのは、昨夜の恐怖がまだ残っているようだった。 「まだみんな寝てるよ」  とドアの隙間から顔だけ出したのは、逸馬師匠の鼾で脅かしたくなかったからである。 「こちらは音丸あにさんにお借りしたお羽織です。ありがとうございました」  きちんと畳んだ羽織を手渡される。指と指が触れた瞬間、彼女について行こうと決めたのだ。  自分なら逸馬のおいちゃんの無体な行動を止められる。咲也を守れると思ったのだ。  ちなみに、咲也が着ている服は、夕べ大柄な女性がやって来て荷物と共に引き揚げて行ったものである。  逸馬師匠も音丸も下着姿で酔いつぶれていたから、自分も寝ようと服を脱ぎ捨てたところにノックをされたのだ。やって来た大柄な女性は、 「どうぞ、お構いなく。咲也さんの荷物を取りに来ただけですわ」  と大時代な言い方でづかづか入って来ると手際よく荷物をまとめて出て行ったのだ。  三弦が咲也と最初に出会ったのは、実は昨日の送迎バスの中だったらしい。前の席にいたようだが、思い詰めていたから視野には入っていなかった。  はっきり認識したのは部屋に呼びに来た時だった。温泉に入ってベッドに寝転んでいたのだ。ノックの音に出てみれば、 「音丸がお客様もお食事をなさるようにと申しております。ご案内しますので大広間にいらしてください」  着流し姿の前座だった。女のような気もしたが、声変わり前の少年のような気もした。 「大広間ならわかる。一人で行くからいい。音丸さんに心配しないでって言っといて」  ぶっきらぼうに言って追い払った。  見知らぬ人に対して敬語も使わないなど三弦にしては珍しいことだった。祖父母の躾が厳しかったから、礼儀や言葉遣い和室での立ち居振る舞いなど、同年代の者より多少は詳しかった。 そしてそれがいじめの一因であることも薄々勘付いてはいた。「気取っちゃって」「どこのお坊ちゃまだ」という囁きを耳にしたこともある。ともあれ。 「お待ちしております」  前座は丁寧に頭を下げて立ち去った。柔らかい声や華奢な姿に何とも言えない魅力がある。  だが大広間で三弦を待っていたのは、福々しい若旦那だけだった。音丸は客の相手に忙しかったし、前座の姿はどこにもなかった。  そして前座が少年ではなく女性だと知ったのは、大広間を後にして音丸と共に部屋に戻る時だった。 〝駒草の間〟から飛び出して来たあられもない姿を見た時の衝撃をどう表現したらいいのだろう。  もちろん、にわかに女体を目撃した興奮も否定はしない。だが、それだけではないのだ。  いきなり自分を覆っている肉襦袢のような分厚いものが剥がれ落ちたのだ。見栄や虚栄や羞恥心だの自尊心だの劣等感だの……そんなものはもはやどうでもよかった。  本来の自分を見つけた気がしたのだ。親の離婚や再婚で何度も名字が変わり、落語家などという変わった家庭で育ったことなど、もうどうでもいいのだ。  だって彼女がいるのだ。  自分が育った変な家庭は彼女がわざわざ目指す場所であったのだ。  もっともそんなことどもは後になってから理屈付けをしたに過ぎない。この時はただ訳もなく彼女の全てが心を占めていたのだ。  音丸を見送った後、柾目家逸馬や咲也と共に食堂で朝食をとった。  逸馬師匠は上機嫌でご飯も味噌汁もお代わりしている。差し出された茶碗や椀にお代わりをよそっているのは前座の咲也である。この御老体は前夜、彼女に暴行を働いたことを忘れたのか。それとも忘れたふりをしているのか。  三弦はすぐに前者だと見当がついた。幼い頃、逸馬師匠が呑みながら約束したことを翌日きれいさっぱり忘れ果てられた経験が一度ならずある。おもちゃは買ってもらえなかったし、ディズニーランドにも連れて行ってもらえなかった。  しかし咲也の被害はそんな可愛いものではなかったはずである。大師匠の横でびくびく給仕をしている姿が痛々しかった。  そして注意して見ていると老齢の男性客が逸馬師匠に近づいて、 「お早うございます、師匠。昨日の〝文七元結〟は良かったですよ」  などと言いながら給仕している咲也の尻に触れたりしている。  とっさに三弦は茶碗を置いて立ち上がりざま、よろけたふりで「あっ、すみません」と足を踏んだりした。 〝前座は虫けら同様〟と落語界ではよく言われる。だからと言って本当に虫けら扱いする者はそう多くない(居ないわけではないが)。咲也が男どもにこんな扱いをされるのは、前座だからと侮られているからか。  それとも女性とは常々こんな目に遭っているのか。三弦には判断しかねるが、いよいよもって咲也のボディガードになる決意を固めるのだった。  そして奇妙な事に、男どもにいいように扱われている咲也を見るにつけ、いじめられている自分の姿を思うのだった。 「もっと抵抗しろ!」「嫌なら嫌と言え!」と叫びたい。  落語家の前座にその自由がないのは知っている。けれど自分は前座でもないのに、何故いじめられるがままに居たのだろう。そんなことまで思うのだった。

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