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第10話 銀竜草と光る池

 ホテルを出て次の落語会場に行くのに用意されたのは、白い手袋の運転手が操る黒塗りのベンツだった。 〝山の県境落語会〟席亭の友人だという地元製菓会社の社長が自宅で開くごく個人的な落語会である。  山を下りた市街地の会場は長い塀に囲まれた豪邸だった。二十畳ほどの和室に座布団が敷かれ、集っているのは上品そうな老若男女である。三十人程もいたろうか。  それぞれに地元銘菓詰め合わせの袋が配られている。どうやら毎夏のお楽しみのようである。  三弦はまるで前座であるかのように、逸馬師匠の独演会の手伝いをした。  カセットデッキなどという古代の遺物にカセットテープという代物をセットして出囃子を流したりする。幼い頃に祖父の会で手伝ったことをすぐに思い出した。動けば自然に身体がやるべき事を思い出す。しまいには咲也を「あねさん」などと呼んで指示を仰いでいるのだった。  落語会の後は、お定まりの打ち上げだった。酒の入った席でまた咲也に下卑た真似をする輩が出て来るのではないかと目を光らせたが、総体的にこの場の客は品がよいのだった。遅い昼食は会席料理だった。  食後には抹茶や和菓子が供される。道理で逸馬師匠が〝茶の湯〟をかけた時の爆笑がハンパなかったはずである。最後に茶の湯の実演があると皆知っていたのだ。  帰りは黒塗りのベンツで長野駅まで送ってもらう。客に配られた地元銘菓詰め合わせ袋の他に、高級そうな菓子折りまで持たされた。  柾目家師弟は長野新幹線で帰京して、夜には都内の寄席に出演するとのことだった。  新幹線の改札口は、在来線の乗り口からエスカレーターを上がった先にある。三弦は咲也が持て余す師匠の重いスーツケースを運んで改札口まで見送った。その合間にもスマホの連絡先を交換するのも忘れない。 「今度、東京の寄席に行くから。咲也さんが出る時は教えてね。勉強会とかあれば手伝うし」  自分でも信じられないほど積極的になっているのだった。  だが、ひょっとして自分は逸馬師匠やあの助平オヤジどもと同じセクハラをしているのではないかと心配になる。なので殊更に距離をおいて話したりするのだった。  この際、音丸の距離感はとても参考になるのだった。      音丸はといえば、珍しくスマートフォンをいじってばかりいた。  長野の〝山の県境落語会〟から新潟へ、そして酒田、長岡、越後湯沢と落語をして回り、夜  ホテルに入れば地酒を吞みつつスマホである。  まずは〝文七元結〟の稽古だった。録音した逸馬師匠の音源を何度も聞いては口ずさんでいた。  落語とは口伝で残って来た芸能である。  プロの落語家として高座に噺をかけるには、直接プロの落語家から教わらねばならない。レコード、CD、YouTubeなどで勝手に覚えて話すのはアマチュアである。  稽古を頼めるのは自分の師匠だけではない。一門や協会が違っていても問題はない。案外に自分の師匠から習うことは少ない。今回の〝文七元結〟にしても仁平師匠が逸馬師匠に習うように手配してくれたのだ。  というのもこの噺は年末恒例の仁平一門会で披露することになっているのだ。弟子全員がネタ下ろし(新しく覚えた噺を初めて客前で演じること)と定められたなかなかシビアな会で、今回音丸はこの噺に決められていた。  なるべく早く覚えて、逸馬師匠に上げの稽古をしてもらうつもりである。  稽古に倦めばLINEなどをしていた。  三弦から頻繁にメッセージが届くようになっていた。  やれ逸馬師匠や咲也と共に製菓会社社長宅での落語会に行ったの、大学の山野草研究会は辞めて落語研究会に入ったの、柾目家咲也は元気か……等々。  既読スルーにしたかったが、一人であの渓谷を覗き込んでいた姿を思い出すにつけ放ってはおけなかった。  つい相手をしてしまうと、果てしなく柾目家咲也のことを訊いて来る。咲也はいつどこの寄席に前座として入るのか。音丸は咲也を開口一番に使う予定はないか。咲也の前座勉強会はあるのか。咲也は、咲也は、咲也は……。 〈咲也は芸協で私は落協です。協会が違うと仕事が一緒になることは少ないです。あいにく咲也の仕事は存じません。開口一番を頼む予定もありません〉  と切り口上のような返事を送ってしまう。  次から次へと問いが飛んで来るLINEにはどうしても慣れない。楽屋内の連絡はメール主流なのである。何となれば老師匠方の大半が未だにガラケーユーザーだからである(令和の今も楽屋は昭和なのである)。だから師匠方への連絡手段は電話かFAX、メールこそが最新アイテムでLINEの出る幕はない。  そんな風にスマホばかりいじっているうちに、天然パーマの奴に写真を送信してしまった。酒田の夜だった。ほんの貧の出来心である。  ファンサイト運営管理人の菅谷百合絵に手厳しい叱責を受けた後だった。 「結局あの夜、咲也は師匠に何をされたんですかね?」  と電話で百合絵に尋ねたのだ。仕事を終えた後である。メールで文字に残すことでもないと思ったから、あえて電話にした。  百合絵は質問に答える前に、 「あの仕事はそもそも咲也さんではなくて、兄弟子が受けたそうですわ」  との情報をもたらすのだった。 「咲也の兄弟子というと……桐也?」 「ええ。柾目家桐也(まさめやきりや)さんですわ。急に都合がつかなくなったと咲也さんがピンチヒッターを頼まれたんですって」 「何を考えてるんだ、あいつは。男の前座もいるだろうに」  思わず乱暴な口調になってしまう。百合絵は気にすることなく同調した。 「そうでしょう。おかしいと思いませんこと? わざわざ酒癖が悪くて、女好きの師匠に女前座をつけるなんて」 「……おかしい?」 「いえ。少し気になったものでお伝えしました。それで、あの夜のことでしたわね」  と改めて百合絵が話したことは音丸には少々肩透かしのような内容だった。  酔っ払った逸馬師匠は無理やり咲也の浴衣の襟を広げて胸に触り、帯を緩めて下着も脱がそうとしたらしい。咲也が必死で抵抗して部屋を飛び出したところに、音丸たちが行き合わせたようである。  そう聞いてかなり拍子抜けした。咲也の取り乱し様に、相当な被害を受けたのだろうと予想していたのだ。 「じゃあ、レイプはされなかったのか」とまでは、さすがに言えなかったが。  逆に、百合絵は話しているうちに怒りが再燃したらしく、強い口調で続けるのだった。 「咲也さんは何とか良い方向に解釈したがっていましたけど。大師匠は浴衣の着方がだらしないとおっしゃっていたから、前座の教育のためにしてくれたんだと……」 「いや。あの場合それはないでしょう」 「ですわよね。あれはもう権力を笠に着た性暴力ですわ」 「ええと……百合絵さん。つまり師匠は、胸を触って下着を脱がそうとしただけですか?」 「だけ、とおっしゃいますと?」  百合絵は珍しく尖った声で反論した。 「音丸さん。触られただけ、とはどういう意味ですの? 触られただけで強姦はされなかった。だから大したことではないとおっしゃりたいの?」 「いえ、そんな。そういうわけでは……」 「咲也さんにとって逸馬師匠は大師匠ですのよ。直属の究馬師匠が教えを受けた方ですのよ。音丸さんだって大師匠がどういう存在かはご存知でしょう?」 「私の大師匠は入門した時にはもう亡くなっていましたが」  時々音丸は真面目に過ぎる。 「ご存知かと伺ってますのよ!」 「え、ええ……はい。大師匠と言えば雲の上の神様みたいな存在ですね」 「そうですわ。神様のように尊敬する人にあんな仕打ちをされて、どれだけショックだったかわかりませんの⁉」  対面で話していたら横っ面を貼り倒されていただろう剣幕だった。 「はい。わかります。咲也がひどいショックを受けたように見えたので、百合絵さんに付き添いをお願いしたんです。ご迷惑をおかけしました」  音丸は電話口で頭を下げながら謝っているのだった。 「時々いらっしゃいますわね。触られて減るもんじゃなし……なんておっしゃる殿方が」  音丸はまるで反論できない。楽屋ではよく聞く台詞だからである。 「女性にとっては冗談ではありませんのよ! 触られたら減りますのよ。心が削り取られるんですわ!」 「はい……」 「望まない性的接触は一生涯、心に残る深い傷跡ですのよ。〝ちょっと触った〟なんて軽々しくおっしゃらないでいただきたい」 「はい……申し訳ございません」  音丸には女性ファンが多いのだからくれぐれも気をつけるようにと百合絵のお説教はしばらく続き、 「肝に銘じます。ご忠告ありがとうございます」  とひたすら謝り倒して電話を切った。  高座で話す何倍も疲れ果てていた。  そして気分転換にスマホのアルバムの整理を始めたのだ。  ふと、池の写真を眺めてタップした。  山のホテルから駅に向かう途中、送迎バスが停車して撮影タイムを設けたのだ。朝日が射し込んで湖面が七色に光る絶景スポットとして有名な池だった。  湖畔には既に三脚に撮影機材を据えたカメラマンたちが群れている。  音丸は面倒なのでバスの中からスマホで撮影しただけだった。  それでもこうして見ると、なかなか美しい景色なのだった。  どういう心の作用かその写真を奴に送信してしまった。LINEではなくメールの添付ファイルである。  

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