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第13話 信濃金梅と三角おにぎり
4 信濃金梅と三角おにぎり
音丸が泊りに来たのは八月に入ったばかりの夏らしい陽気の日だった。
これまで三弦の部屋に人が訪れたことはない。入学時に両親が立ち寄ったぐらいである。
泊りの客は初めてだから数日前から浮足立って、布団を干したり掃除に買い物にと大いに張り切った。そしてバスで長野駅に迎えに行った。
咲也は今頃どうしているだろうか? 今日やって来るのは音丸一人だが、もしや何らかの変更があって咲也が前座としてついて来ないだろうか? などと無駄な期待をしてみる。
このところ咲也からは連絡がなく既読スルーばかりなのだ。
あの日この駅で柾目家師弟を見送ってから三弦はすぐさまLINEをした。咲也からは即座にお礼が届いたものである。
それから数日はあれこれメッセージのやりとりをしていたのだ。
あまりしつこいと思われるのも嫌なので、一日一回と自分で自分に制限を設けていた。
それでも、黄色い花の写真と共に、
〈この花はシナノキンバイという高山植物です。信濃金梅と書きます。きれいな色や可憐な姿が咲也さんにそっくりだと思います〉。
などというビミョーなメッセージも送っていた。
それに対しても咲也は、
〈ありがとうございます。シナノキンバイ。黄色くて美しい花ですね〉
と礼儀正しく、しかし差し障りのない返事を寄越していた。
なのに最近は何を尋ねても何も返って来ない。
広々とした駅コンコースは明るい光に満ちている。その中を影のように黒い服を着た背の高い男がやって来る。山で見たのと同じザックを背負ってスーツケースを引いている。三弦はまるで子供のようにひらひら手を振っているのだった。
「お酒がないんだ。そこでたっぱちゃ、音丸さんの好きなのを買って帰ろう」
と駅ビルに案内する。
銘酒売り場に並んでいる酒は目玉が飛び出んばかりの金額である。三弦が買い慣れている発泡酒とは比べ物にならない。だが、仕送りはふんだんにあるのだ。金はこういう時こそ使うのだと、音丸が舌なめずりせんばかりに見つめている高級芋焼酎を購入する。
「いいんですか?」
と一応遠慮する音丸に、
「その代わり、料理は音丸さんに頼むから」
と言って一升瓶の入った袋を手渡す。
祖父の家で前座たちは家事全般をやっていたが、音丸は特に料理に秀でていた。祖母や母も教え甲斐があるのか、他の前座よりも音丸に難しい料理を仕込んでいた。お節料理も毎年全て手作りの食卓だった。
だが三弦が好きだったのは、ただのおにぎりだった。
「音丸さんの作るおにぎりは、ちゃんと三角で角が立ってるんだよね。おばあちゃんやママのは丸いのにさ」
「単に私は手が大きいから三角になるだけです」
と音丸は掌を広げて長い指を折り曲げて見せる。思わず三弦は自分の掌を広げて音丸のそれに合わせて見る。ぎょっとして身を引く音丸に、へへっと笑って、
「昔はもっと大きかったのにな。たっぱちゃんの手」
と手をつないでしまう。
そうするともっと昔との違いが際立つ。初めて会った頃は三弦の手など完全に音丸の掌の中に納まっていたはずなのに。きまり悪そうに手を放そうとする音丸と逆に腕を組んでしまう。
駅コンコースに戻って地上に降りるエスカレーターに向おうとした時、何やら視線を感じた。振り向くとやや高い位置にある新幹線改札口からエスカレーターでこちらに降りて来る男性がいる。
喪服らしい黒いスーツにビジネスバッグを斜め掛けした天然パーマの男である。
典型的なサラリーマンスタイルなのに明るい陽が入るコンコースでスポットライトが当たったかのように目立っている。背筋を伸ばした立ち姿にはモデルのようなオーラがある。平均的身長だからモデルではなかろうが。
周囲の女性達が目を奪われており、わざわざ見送る者までいる。漆黒の巻き毛に色白の肌で唇ばかりが赤い。白いワイシャツのカラーと黒いネクタイのコントラストが美貌を引き立てている。
三弦もまた振り向いたきり目が放せなくなっていた。
その男性もじっとこちらを見ている。濃い睫毛に縁取られた大きな瞳である。そしてエスカレーターを降りると迷いなく三弦や音丸に向かって歩いて来る。
途端に組んでいた腕が振り払われた。音丸がものも言わずに地上へのエスカレーターに向かっている。
「待ってよ、たっぱ、音丸さん」
あわてて後を追いながら、
「ねえ。あの人、音丸さんの知り合いじゃないの? ずっとこっちを見てるよ」
と袖を引くもまた振り払われる。三弦に触られるのがとても嫌そうである。にわかに心がくじけそうになるが、
「タレントさんかな? めっちゃイケメン」
強引に音丸の横に立って笑って見せる。
「それとも音丸さんのファンの方かな? ならサインして差し上げなきゃ」
「存じません。三弦さんの家はどちらですか」
と音丸は迷うことなくタクシー乗り場を目指している。バスで帰るつもりだったのだが、三弦は音丸がさっさと乗り込んだタクシーに続いて乗ると運転手に行き先を告げるのだった。
古いアパートは天井が低い。ぶら下がっている丸型蛍光灯の傘も低めである。
初めて三弦の部屋に訪れた音丸は入るなりその傘に頭をぶつけた。「いてて」と頭を抱え込んでいる音丸に思わず三弦は吹き出していた。
駅であの美青年を見てからの音丸は、かつて覚えのない挙動不審さだった。三弦はかなり不安になっていたから同情よりも笑いの方が先に立ってしまったのだ。
「私の部屋にそっくりじゃないですか。ぶら下がった電球の高さまで同じだ」
不機嫌に蛍光灯の傘を見やる音丸に、三弦は「あっ」と思い当たる。
音丸が暮らしているのは三弦の部屋と大差ない年代物のアパートである。いや、もっと不便な六畳一間だった。何しろ玄関も台所もトイレも共同なのである。
三弦は一度だけ母と訪ねたことがある。音丸が二つ目に昇進して家を出てから間もなく、祝いの品を届けに行ったのだ。
不動産屋に初めてこのアパートを案内された時、不思議な懐かしさを感じて即決してしまったのは、あの記憶があったからに違いない。
「そうだったのか……」
思わず呟けば、音丸はまた挙動不審にも「えっ⁉」と三弦の顔を凝視する。
「いや。あの……ゴーヤチャンプルーとか作れる? ゴーヤがあるし肉や豆腐も買ったんだよ」
どうにも奇妙な音丸から離れるように、狭い台所の冷蔵庫から食材を取り出すのだった。
音丸は料理をしながらも心ここにあらずだった。
中園龍平 。
天然パーマのあいつである。
何だって長野駅に現れたのか。会社の研修で来られないと言っていたくせに。
というか、三弦と腕を組んでいるところを見られた。これは師匠の孫であって何の関係もないと言うべきだったか。いや、それもおかしいだろう。けれど、さっさと新しい恋人を作ったと誤解されたかも知れない。
台所は一口のガスコンロがあるだけの狭い空間である。三弦が希望するゴーヤチャンプルーは作ったが、他に何を作るつもりだったのか小さな冷蔵庫には脈絡のない食材がぎゅうぎゅうに詰め込んである。
とりあえず、長野名物の七味唐辛子を大いに効かせたきんぴらごぼう、茄子の味噌炒め、胡瓜のナムル、セロリとイカ燻製のサラダなどを怒涛の勢いで作り上げる。
その間も音丸の頭の中をまとまりのない思考が駆け巡っている。
いや、きっとあいつこそ別れた勢いですぐに違う男を作ったに違いない。音丸に言い寄った時の積極性を思えば、新しい恋人を手に入れるのはたやすいことだろう。そうか。新しい男に会うために会社の研修も放り出して長野に来たのか。そうだったのか。
「音丸さん、どうかした?」
「どうもしません!」
睨みつけてから口の中で「すみません」などと呟いてみる。
そこに炊飯器の電子音がご飯が炊けたとピーピー鳴った。
三弦待望の三角おにぎりは、野沢菜、梅干し、シーチキンマヨなどで作る。
「粗熱がとれてから一個ずつラップでくるんで冷凍すれば、かなり長期間もちますよ」
と説明するのは、音丸も自炊でそうしているからである。
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