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第12話 銀竜草と光る池
母が出産で実家に帰った頃、前座こっぱは二つ目徳丸となって家を出て行ったという。だが、まめに師匠宅を訪れる徳丸と、何かといえば実家に戻る母親のお陰で、三弦は徳丸によく遊んでもらったものである。
徳丸が真打昇進したのは母が離婚して実家に戻った頃だった。そのため当時、家は妙に慌ただしかった。けれど逆に三弦にはそれが救いになった。明るく張り切っている徳丸や訪れる客達のにぎやかさに、父親と別れた不安が紛らわされていた。
正直なところ三弦は当初、世話係の音丸が怖かった。初対面で音丸を見た母親は思い切り眉間に皺を刻んだものである。当時の音丸はヤクザかチンピラのような雰囲気だったのだ。
教授とカランの前に並んで身体を洗ったり、風呂から上がって脱衣所でコーヒー牛乳を飲んだりしながら、三弦は徳丸のことを話すはずが、気がつけば自分の来し方を話しているのだった。他人に語るのは初めてと言っても過言ではない。
教授が熱心に聞いてくれたのは、
「仁平師匠と一緒に暮らせるなんて羨ましいなあ。いや、そう言っちゃ君に悪いけど」
という落語マニアの本音あらばこそで、逆に三弦も話しやすかった。
風呂桶を持って銭湯を出る頃には、
「僕があの家で暮らしたのは小学校三年生から中学一年が終わるまでのたった四年間なんですよね……」
などとしみじみ語っていた。
「たっぱちゃんがいたのだって三年間だけなのに。あの時期が人生で一番長かった気がする」
「そりゃあ、十代の一番多感な時期だからねえ」
陽はとっぷり暮れて昼間の蒸し暑さは和らいでいた。
二人並んで歩きながら、夏休みなのに帰省しないのかと訊かれて三弦は、
「去年は帰省したんですけど……」
と気まずく笑うしかなかった。
昨年は入学して初めての夏休みだから、山野草研究会の合宿が終わるなり帰省した。
ただ実家と言っても、三弦が大学進学後に両親が購入したマンションなのだ。赤ん坊の異父妹と義父と母親とが三人で暮らし始めた新居である。
もちろん三弦の部屋もあったけれど、何とも落ち着かなかった。そうして一人で山に入って山野草の写真を撮ることを始めたのだが。
「よかったら落研に遊びに来れば? 帰省しない学生がごろごろしてるから。落語の話も出来るよ」
大学の職員寮で暮らしていると言う加瀬教授は、そう言って別れて行った。寮にはユニットバスもあるのだが、広い銭湯がいいのだと言っていた。
時代がついたアパートに帰り着くと、急にほのぼのと懐かしい建物に見えるのだった。
その数日後、三弦は山野草研究会に退部届を出した。夏休み中だが大学構内にはまだちらほらと学生の姿があった。部室にも合宿反省会と称して帰省していない学生たちが集まっていた。三弦は部長に件の菓子を渡して退部の意志を伝えたのだった。
「あれ? 蓮見くん、どこ行ってたの。合宿所に来なかったねえ?」
と、にやにやする男子部員たちはあのマイクロバスを追いかける三弦の姿を指差してげらげら笑っていたはずである。回りにいた女子学生たちも一様ににやにやしている。
自分がバスに置いて来た荷物の行方を尋ねるも「そんなのあったっけ?」と目を見交してはにやにやしている。
一瞬、見当識障害に陥ったような気がした。山で音丸や咲也に会ったのは夢だったのか? 強引にいじめ環境に巻き戻されるような、眩暈にも似た感覚を覚えたが、
「山で遭難したかと思ったよ」
と言われた途端に、
「じゃあ何で捜索隊に連絡しなかったんですか?」
と返していた。気づかぬうちに足元を踏ん張っている。
瞬間ぴたりと場が鎮まり返った。まるで木偶人形が話し出したと言わんばかりの空気である。
確かに三弦はいじめる相手の反応が怖くてこれまで何も言い返せないで来た。事を荒立てずに微笑んでいたのは、ただにやにやしているだけに見えたのだろう。
「僕の荷物はどうしたんですか?」
さらに声を大きくすると、何人かの学生の手を経てザックが手渡された。
きちんとパッキングしたはずの荷物は滅茶苦茶に詰め込まれていた。みんなで広げて遊んでから適当に詰めたのだろう。開いたファスナーの隙間から捩れた下着が垂れている。
三弦は珍しくかっと頭に血が上り(普通はそういう惨状に逆に血が下がるように頭が真っ白になるのだった)強い視線で辺りを睨め回した。
「それと、僕は合宿に参加しなかったから、振り込んだ費用は後で返してください」
と言うと今度は全員が口を開いて非難を始めた。
「バカじゃねーの⁉」「自分で勝手に無断欠席したくせに!」「バスに乗り遅れるのが悪いんだ!」と笑う者、怒る者、様々だったが、
「参加できなかったのはあんたらのせいだ! 夏休みが終わったら顧問の先生にそう言って、全額返してもらう!」
とだけ宣言した。ザックの紐を強く握り締めながら。
そして頭を下げて部室を出ようとしたのだが、男子部員達に取り囲まれた。今にも力に訴えそうに睨みつけている。うつむいた三弦が何をどう言い返そうかと思っているうちに、口だけが勝手に動いていた。
「わて……中橋の加賀屋佐吉から参じました……」
「てめ、何言ってんだ!」「顧問に言うだと⁉」「ふざけんなよ!」
口々に怒鳴られて、それに負けない大声が腹の底から出た。
「わて‼ 中橋 の加賀屋佐吉 から参じました‼」
まるで謎の呪文である。周囲の顔を睨めつけながら三弦は噛みつくように怒鳴っている。
「先途、仲買 の弥市 が取り次ぎました道具七品のうち‼ 祐乗 ‼ 光乗 ‼ 宗乗 ‼ 三作 の三所物 ‼」
今ここでこんな台詞が出て来る訳がわからない。取り囲んだ部員たちはぽかんとしていたが、実は三弦も同じ気分だった。
「何だ?」「イミフ!」と嘲笑している部員たちもいたが、構わず大音声で続けた。殆ど絶叫である。
「並びに備前長船 の則光 ‼ 四分一拵え 横谷宗岷小柄付き の脇差 ‼ 柄前 は古鉄刀木 やいうてはりましたが、ほんまは埋れ木やそうで木が違うとりましたのでちゃっとお断り申し上げます‼」
三弦の気が触れたとでも思ったのか次第に皆の表情が失せて行った。
それが妙におかしくて、しまいには半分笑いながら言葉を継いだ。男子部員たちはそれぞれ後ずさって包囲は緩んで行く。
部屋の隅でさっきまで知らんふりをしていた茶髪の女子が珍しそうにこちらを見ている。
「自在 は黄檗山金明竹 ‼ 寸胴の花活けには遠州宗甫文字 の銘がおましてな‼ 織部の香合 ‼ のんこの茶碗‼ 古池や蛙飛び込む水の音と申します‼」
怒鳴りながらじりじりと下がって、三弦は部室を飛び出した。
ザックを背負って、げらげら笑いながら廊下を走った。何故今この台詞なのだ?
ここで落語の台詞を言うならば〝大工調べ〟の啖呵がふさわしいのに。この言い立てじゃ意味がわからない。部員たちはさぞや怨念の真言でも唱えられたと恐慌に陥ったことだろう。
三弦は一向に笑いが止まらない。
そして飛び込んだのはサークル棟の端にある落語研究会の部室だった。日当たりのいい山野草研究会の部室とは裏腹の薄暗い部屋である。何枚かの畳が敷いてある所に寝転んで漫画を読んでいた男子学生が顔だけこちらを向けて尋ねた。
「さっき向こうで〝金明竹 〟の言い立てを怒鳴ってた?」
令和のデザインとは思えない四角い黒縁眼鏡をかけている。それを直視して、ようやく三弦は笑いの発作が治まった。
「入部希望です」
と力強く言い切った。
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