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第15話 信濃金梅と三角おにぎり
三弦はまだ音丸の告白をうまく吞み込めないらしく目をきょろきょろ動かしている。
「ええ? じゃあ、音丸さんがそうだって……おじいちゃんやおばあちゃんも、なっぱちゃんとか、みんな知ってるの?」
「いいえ。ご存知なのは仁平師匠だけです。入門の時に打ち明けました。もし同性愛者が落語家に向かないのなら諦めると言って」
「おじいちゃんは何て?」
「では男女の噺は出来ないのですか、と訊かれました」
「出来ないの?」
音丸はにやっと笑った。
「出来ますよ。男同士でも、とんと来ます。男女に置き換えればいいだけです」
「そんなの全然知らなかった」
「黙っている方がいいと師匠はおっしゃいました。落語界のような古い世界では……」
と言葉を切った。
「たとえば女が入門するようになったのもつい最近です。それでも女性落語家をよく思わない者は大勢います。まして同性愛者の落語家なんて、ばれたらどんな目に遭うか」
「そうだよね。咲也さんだって大変そうだし」
音丸は頷きながら肩透かしをくらった気分である。
生れて初めてカミングアウトをしたのに(仁平師匠は別である)三弦が気にしているのは咲也のことである。何故そんな気になったのか自分でも知れないが、それこそハイウェイから谷底に身を投げるような告白だったのに拍子抜けも甚だしい。
音丸はグラスの底に残った芋焼酎を飲み干した。ティッシュで洟をかんでいた三弦は思いついたように音丸を見つめた。
「音丸さんは……同性愛者でいじめられて、死にたいとか思ったことはないの?」
「ありません」
きっぱり首を横に振る。それは事実だった。
「私がこうなのはもう仕方がないと思っていました。大体いつも好きな人がいて、そこそこつきあえたのであまり悩みませんでしたし」
「え、じゃあ今も好きでつきあっている人がいるの?」
音丸は答えずに一升瓶とグラスを持って立ち上がった。脳裏には駅でずっとこちらを見つめていた天然パーマの姿がちらついている。
「なかなか良い酒でした。仕事が終わってからまたいただきます」
と流し台の下に一升瓶をしまい込み、グラスを洗うのだった。そして日本茶のティーバッグを湯呑に二人分淹れながら、
「〝山の県境落語会〟で咲也が逸馬師匠の前座についたのはピンチヒッターだったそうです」
と話題を変えた。二個目のおにぎりにかぶりついている三弦は、
「逸馬のおいちゃんが女の子に……孫弟子なのに、あんなことするとは思わなかった」
と、ちらちら音丸の様子を伺っている。
「三弦さんは子供だったからみんな黙っていましたけど。あの師匠はそっち方面はゆるゆるでしたよ。結婚も五回もしている」
「えっ⁉」
「今のおかみさんと別れて六回目の結婚をする気力はもうさすがにないでしょうけど」
知る限りの逸馬師匠の女性関係について話して聞かせる。決して高座には持ち出さない楽屋噺である。話芸のプロたちが面白おかしく語り継いだ噂話は、もはや一席の新作落語のように完成しているのだった。
先程までの涙はどこへやら、三弦はげらげら笑いながら聞いていた。
「そもそも三弦さんが仁平師匠の家で、逸馬師匠に可愛がられたのも変だと思いませんか?」
「何が変なの?」
「だって逸馬師匠は芸協ですよ。仁平師匠は落協なのに」
「あっ、そうか……」
かつて落語家協会と落語芸能協会は犬猿の仲だった。協会の違う落語家同士が家族ぐるみのつきあいをするなど考えられない時代があったのだ。
それなのに二人の仲が良いのは、実はもともと逸馬師匠は柏家一門だったのだ。
「仁平師匠の兄弟子だったんですよ。一年違いの入門と伺っています。それが酒と女でしくじって破門されて……芸協の柾目家一門に拾われたわけです」
「ええっ? 逸馬おいちゃんて、おじいちゃんの兄弟子だったんだ。だからいつも偉そうにしてるんだ」
「さあ? あの方は誰にでも平等に偉そうですから」
音丸は苦笑せずにはいられない。初カミングアウトは柾目家逸馬の楽屋噺の向こうに消えた。少なくとも音丸はそう受け取った。
三弦が自分より遥かに大人の良識を備えていたと知るのはもっと後になってからである。
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