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第16話 噺はループする

5 噺はループする  昼食を終えると楽屋入りの時間だった。  アパート前から会場までは車で十五分ほどだった。音丸はスーツケースは部屋に置いて衣装の入ったザックだけ背負っていた。  タクシーが来ると三弦は促されて後部座席の奥に乗り込んだ。そしてシートベルトを着けながら、 「たっぱちゃん、シートベルト」  と口をついて出た。  幼い頃はシートベルトを締めて欲しいという意味で言った言葉である。逆に今は傍らにザックを置いたまま座っている音丸を促す言葉だった。  落語家はちらりと三弦を見ると面倒臭そうにシートベルトを締めるのだった。  正直、心の中がごちゃごちゃになっていた。時々襲われる厭世観を言葉にして誰かに伝えたのは初めてのことだった。 「生きてたって意味がない」そんなことを言えば離婚や再婚で心労の絶えない母がどれほど悲しむことだろう。いじめられていることだって誰かに相談したことはなかった。  月の湯で誰にも言わなかった離婚家庭のエピソードを教授に話したのは、まるで今日の助走のようだった。あの〝金明竹〟の言い立てを怒鳴った時、三弦の中で完全に何かが吹っ切れていた。  もし仮に今日打ち明けたことが音丸の口から祖父に伝わり母親を心配させる結果になったとしても構わない。そんな覚悟はあった。もちろん、音丸は決して口外しないと信じた上での告白だったが。  告白と言えば音丸はよくわからないことを言っていた。  同性愛者などと言われても三弦には今一歩ピンと来なかった。そういう種類の人間は化粧をしたりシナを作ったりするのではないか?   どう考えても音丸には当てはまらなかった。  同性愛者だからいじめられたという話は一般論としてはありそうだが。  正直、音丸の性的指向など三弦にはどうでもいいことだった。たとえて言えば、父母がセックスをすると知っても、親の房事をリアルに想像する子供はいないだろう。両親がどんな体位で交わるか特殊な道具は使うのかなど到底知りたくはない。それに近い感覚である。  会場前でタクシーを降りると楽屋口に向かう音丸と「じゃあね」と別れた。何となく黒い服の後姿を見送っていると、 「蓮見くん!」  と感に堪えないような声が飛んで来た。 「あれ、柏家音丸さんじゃない。知り合いなの?」 「だって蓮見くんは仁平師匠の孫だよ。知ってるに決まってるよ」  と自慢げなのは四角い黒縁眼鏡の部長である。 「うそ! すごーい‼」  落語研究会のメンバーが三弦を取り囲むのだった。少し離れて加瀬教授も立っている。実は今日の落語会は落研が手配したチケットを買ったのだ。  また集団に属すれば仲間外れになる不安もあったのだが、もはやこの場で三弦はヒーローだった。とはいえ、油断はできないと妙に気を張っていた。気を紛らわせる意味でも音丸を部屋に招いたのは正解だった。  会場は善光寺に到る参道沿いにあった。昔の見世物小屋を模した新しい建物である。小屋の前には開場を待つ人々が群れ始めている。客席数380程の会場はまだ当日券が残っているようだった。  チケット売り場の窓口を見ると、くりくりの天然パーマの男が立っている。黒いスーツにビジネスバッグ。やはり全身が魅惑的なオーラに包まれている。  この真夏に喪服なのだからさぞ暑かろう。ネクタイで締め上げたワイシャツのボタンは襟元まできっちり留めてある。  ビジネスバッグから取り出した手拭いで額や襟元の汗を拭っているのを目にした途端、三弦はそばに駈け寄っていた。 「あのっ」と勢いよく横付けして顔を覗き込む三弦に、天然パーマの男はぎょっとして飛びのいた。近寄ると美青年ぶりに目も眩む。 「さっき長野駅にいらっしゃいましたよね?」  と尋ねる三弦を胡散臭げに見ている。 「それが何か?」と社会人として礼儀を失しないように努めているのが見え見えである。 「柏家音丸のファンの方ですよね?」  と三弦は青年が持っている抹茶色の手拭いを示した。 「その色の手拭いは音丸が二つ目に昇進した時に初めて染めた手拭いです。今は藍色に染め直しています。つまり抹茶色をお持ちの方は昔からのファンでいらっしゃる。でしょう?」  三弦が重ねて尋ねると、まるで外人のように軽く肩をすくめて手拭いをバッグにしまった。そして構わず窓口で当日券を贖っている。そこに、 「あら、龍平さん。いらしてたの? お仕事で来られないとばかり思ってましたわ」  と古風な話し声がした。  振り向くと大柄な女性が立っていた。浮世離れした上品な口調だが、輝くばかりの笑顔はやはり人を惹きつけるオーラに満ちている。三弦はこの女性もどこかで見たような気がするのだが思い出せなかった。 「百合絵さんこそまた遠征ですか」  天然パーマは三弦に構わず女性をエスコートするように腕に手を添えると、さっさと開場した入り口に向かうのだった。  さながら古い邦画に出て来る美男美女カップルである。  しかも漏れ聞こえるのは英語のお喋りである。なるほど、あの二人は日系アメリカ人なのだと決めつける三弦だった。

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