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第17話 噺はループする

 寄席の太鼓は前座が叩く。一番太鼓に二番太鼓。  音丸は二つ目ではあるが今日は前座代わりに呼ばれている。開口一番だから自分の出囃子の太鼓も叩いていたが、途中で次の出番の音羽亭弦蔵(おとわていげんぞう)師匠が代わってバチを握ってくれた。  そして高座に上がると客席を見渡した。  前方の席に学生らしい若者たちが並んでいる。その中に三弦の姿を認めてほっとする。  先程涙を流した後で、いじめのある山野草研究会は辞めて落語研究会に入ったと聞いていた。ここでは仲間に入れてもらったようで安心する。  わざわざ都内から遠征して来たコアなファン四人組ジジババは、その若者らの後ろにいる。  下手側前方には同じく遠征して来たファンサイト運営管理人の菅谷百合絵が座っている。  馴染んだ顔を眺めながら〝金明竹〟を語り始めた。常よりも軽くやや早めの口調である。  客席後方に目をやって天然パーマに気がつく。  中園龍平(なかぞのりゅうへい)が来ている。  駅のエスカレーターで見たのはやはり見間違いではなかったのだ。ついさっき三弦にカミングアウトしてしまったことを思い出して動揺する。  だからと言って言葉に詰まっている場合ではない。すらすらと言い立てを繰り返すうちに音丸は妙なことに気がついた。  目の前で三弦が焦り顔で胸の前に両手を浮かせている。内心疑問に思いながらも、 「並びに備前長船の則光、四分一拵え横谷宗岷小柄付きの脇差、柄前は鉄刀木さんいうてはりましたが、ほんまは埋れ木やそうで木が違うとりましたのでちゃっとお断り申し上げます。  並びに備前長船の則光、四分一拵え横谷宗岷小柄付きの脇差、柄前は鉄刀木さんいうてはりましたが、ほんまは埋れ木やそうで……」  と言いかけてようやく気がついた。 「って同じこと言うとる! ループしとるやないかい‼」  と自分でツッコミを入れる。  たちまち客席は大爆笑である。三弦は安堵したように両手を膝の上に戻した。  言い立ての同じ部分を繰り返していたのだ。  一体何回ループしたのだろう? 客席の笑い具合では、かなり何度も重ねたようだが見当もつかない。嫌な汗をかきながらサゲまで辿り着いて頭を下げた。  高座を下りかけて今日は前座代わりだったと気づいて、取って返して座布団を返す。これまた客から爆笑をとる。  本来落語はこんなしくじりで笑いをとる芸能ではないのに。メクリを返して袖に入ると、待ち構えていた弦蔵師匠が、 「あんちゃん。ぐるぐるよく回ったなあ」  と笑いながら肩を叩くと舞台に出て行った。  死んでしまいたい。  ゲイで死にたかったことはないが、芸をしくじれば死にたくなる。何だこのサイテーな地口は。  弦蔵師匠の噺を聞く余裕もなく意気消沈しているうちに仲入り(休憩)だった。 「おなーーーかーーーいりーーーー‼」 幕を降ろしながら大声で告げる。  楽屋に戻ると三弦が待っていた。 「音丸さん、ファンの方お連れしたよ」  と傍らに中園龍平を従えている。 「ファ、ファンて、何でいきなり……」  思わず回れ右して舞台袖に戻ろうかと思った。龍平は知らん顔ですましている。 「だって、二つ目昇進の時の手拭いをお持ちなんだよ。僕が駅で言った通りだよ。やっぱりファンの方だったんだ。サインしてさしあげなきゃ」  すかさず筆ペンと色紙とを差し出される。三弦は胸にも別に色紙の束を抱いている。 「僕は落研の先生に頼まれたのがあるから、師匠方のサインをもらって来る。全部で八人分あるんだ」  と奥の座敷で寛いでいる本日の主役、錦家福助(にしきやふくすけ)や音羽亭弦蔵のサインをもらいに行くのだった。  この寝小便たれ小僧は、さっき死にたいとかほざいていなかったか?  というか、カミングアウトした音丸と天然パーマの関係を疑っているのではないか?  と楽屋の奥に行く三弦を睨み付けながら心は千々乱れるのだった。 「写真、ありがとうございました」  天然パーマが唐突に言う。  振り向けば眼下にカールした黒髪がある。思わず一歩退いて改めて顔を見る。むしろしみじみ拝む感覚である。黙って会議テーブルの前に着く。 「あれはどこですか?」  と問われて顔を上げると、白目が青く見えるほどに澄んだ瞳で見つめられている。どぎまぎと目を伏せて色紙にサインをしていると、 「添付メールの写真」  と言われてやっと何を問われているのか理解する。 「池」  即答した途端に龍平は吹き出した。 「それ、何の答にもなっていない。どこの池か訊いてるのに」 と遠慮なくげらげら笑っている。音丸は気まずく黙り込んで、サインの横に書き添えた。 〝水面より輝く君の瞳かな〟  柄にもない駄句である。普段はサインの横に書くのは日付ぐらいである。  最後に〝中園龍平様〟と印して手渡す。  龍平は黙って両手で色紙を受け取った。 「ありがとうございます。今後ともよろしくご贔屓願います」  と頭を下げると握手の手を差し出された。仕方なく手を握り返す。  おや? 手が離れないのは何故だ? 「軽井沢で三日間会社の研修なんです。今日が初日だったんですけど、長野の叔母がみまかって。いったん研修所に荷物を置いて、着替えて葬儀に来ました」 「それは大変なことでしたね」 「と会社には言ってあります。本当は音丸さんの落語を聞きに来ただけです」  言われて思わず腰を浮かす。 「早目に軽井沢に戻らなきゃなりません。トリの師匠が始まる前に失礼します。申し訳ありません」  そして握手の手を放すと龍平は色紙を持って楽屋を出て行った。  音丸は立ち上がったきり身動きも出来ずに閉まるドアを見つめていた。  せっかく来てくれた奴の前でループする〝金明竹〟を披露してしまった。悔やんでも悔やみきれない。  テーブルの上にどさりと色紙が置かれた。 「はい。福助師匠と弦蔵師匠のサインはもらって来たから、後は音丸さんがサインをしてね」  と得意げな三弦を思わずじろりと睨めつけた。  全てのプログラムが終わり追い出し太鼓を叩いて楽屋に戻って来ると、三弦がまるで前座のように福助師匠の着替えを手伝っていた。 「仁平さんにこんないいお孫さんがいたとは知らなかったよ」  と福助師匠は鏡越しに三弦と音丸を見比べている。 「弟子には恵まれなかったようだがね。未来の名人なんて評判だからどうかと思えば……」 〝金明竹〟をしくじった音丸に対する嫌味だろう。何も言わずに帯を解く。代わって声を出したのは三弦だった。 「でも師匠の〝子別れ〟は素晴らしかったです。僕ちょっと涙が出ちゃいました」  と着物を畳んでいる。福助師匠は洋服を着ながら、 「おたくの仁平さんも〝子別れ〟は得意だろう」 「僕は福助師匠のが好きです。祖父はどっちかと言うと滑稽噺のが面白いと思います」  錦家福助は落語芸能協会である。しかもかなりの年配。つまり落語家協会を蛇蝎の如く嫌っている世代である。  それが落協の弦蔵師匠や音丸と共演せざるを得ない状況に憤懣が溜まっているのだろう。  三弦もその辺は察しているようで、殊更に福助師匠を持ち上げている。音丸よりはるかに大人の対応が出来る若者である。  福助師匠は三弦から渡された着物の風呂敷包みを鞄に詰め込みながら音丸には一瞥もくれず、 「前座噺もろくに出来ないのに、女の尻を追いかけ回すことだけは一人前か」  と捨て台詞のような言葉を残して楽屋を出て行くのだった。 「お疲れさまでした!」  すかさず大きな声を出したのは三弦だった。音丸も遅れて声を上げたが、扉が閉まるなり首を傾げずにはいられなかった。 〝女の尻を追いかけ回す〟とは何の意味だろう?  三弦は今度は音丸が脱ぎ捨てた着物を畳んでいる。「いいよ、みっちゃん」と音丸が洋服を着ているうちに手早く風呂敷包みを作っているのだった。 「しくじったな。あんちゃん」  既に洋服でお茶を飲んでいた弦蔵師匠がにやにやしている。赤や黒の鮮やかな錦鯉柄のアロハシャツを着た姿は、落語家というよりただのヤクザである。  地元銘菓ガラムマサラ味の柿の種をザラザラと口に入れながら、 「こないだの山手線事故。あんちゃん新宿と池袋の代バネ(代演)だったんだって? すまなかったな。池袋は俺の出番だったんだ。品川から乗ってすぐ閉じ込められてよ」 「災難でしたね。どっちも来られない師匠が大勢いらっしゃいましたよ」

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