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第18話 噺はループする
「しかし、新宿はヤバかったかもな」
「はい?」
「あそこは究馬師匠の主任だったろう。芸協の柾目家一門の芝居。そこに落協のあんちゃんが出るってのは、ちょいと昔なら考えられねえ」
「ええ。でも、あの場合もう仕様がないとお席亭がおっしゃって。それで出たんですが」
「若旦那はね。けど爺さん連中はまだまだ反目しあってるからなあ」
芸協と落協の反目は音丸のような若い世代にとってはもはや昔話である。寄席でも代替わりした席亭は、こだわらなくなっている。
「福助師匠なんか特にうるさ型だから。あんちゃんの〝金明竹〟のしくじりより、代バネの方が気に入らなかったのかもな」
と弦蔵師匠に言われて、ようやく福助師匠の真意に気がつくのだった。
「今更そんなこと言われても……」
「だよなあ。せっかくお姉ちゃん置いて走ったのにな」
「いえ、別に」
音丸が置いて走ったのは、あの天然パーマだが。
三弦はこちらの噺に興味なさそうに楽屋の茶道具や座布団などを片付けている。それを見て弦蔵師匠は、
「あっちのあんちゃんは仁平さん所の前座かい? こないだ桐也と仕事したけど、こっちのがよっぽど気が利くな」
「あれは仁平師匠のお孫さんです。大学の落研だそうですよ」
「そりゃ失敬。まだ学生さんだったのか」
師匠は楽屋に残った差し入れの菓子や酒をいじましくもスーツケースに詰め込んでいる。すかさず三弦はテーブルに残っている菓子袋を師匠に手渡すのだった。
「しかし卒業したら仁平さんに入門するんだろう?」
強面の師匠に睨み付けられて三弦は棒立ちになった。けれど人形のようにふるふると首を横に振ると、
「僕は落語家にはなりません」
と、きっぱり言うのだった。
「へえ。可愛い顔してんのに。落語家になりゃ好きなだけタレとカケるぜ」
と顔を覗き込まれて立ち尽くしている。あわてて音丸が口をはさむ前に、
「僕はそういうのは……好きな人と出来ればいいです」
またきっぱりと言い切る。
「タレ」とは女で「カク」とは性交の意味である。いかに大人たちが気を使っていても、落語家の家庭にいれば楽屋の隠語ぐらい覚えてしまうらしい。
「とんだ時次郎だね」
げらげら笑うと弦蔵師匠はハンチングを被って立ち上がった。
「まあ、気をつけるがいいぜ、あんちゃん。出る杭を打ちたがる奴も多いからな」
と言うと、お土産をたっぷり詰め込んだスーツケースを引いて出て行くのだった。
「お疲れ様でございました!」
と頭を下げる音丸の仕草はヤクザの舎弟さながらだった。弦蔵師匠相手だと何故かこうなる。
それにしても納得のいかない話である。
あの山手線事故の新宿の代バネについては芸協の咲也から、そもそも逸馬師匠の提案だと聞いている。何よりお席亭の許可があったのに、福助師匠は恨んでいるのか。
恨みたいのは天然パーマとの仲がこじれたこちらである。今日の再会だけでは挽回は難しかろうとため息をつかずにはいられない。
三弦の部屋に戻って改めて芋焼酎をグラスになみなみと注いだ。つまみはきんぴらごぼうである。このために味を濃く仕上げておいた。
一組しかないという布団を三弦は音丸に譲ってくれた。敷き延べた布団に胡坐をかいてちびちび嗜む。
座卓を挟んで呑んでいる三弦は広げた寝袋の上に座っている。今夜はそれで寝ると言う。窓は全開してあるが山でもない地上の八月である。寝袋では蒸し暑い気がするのだが。
の
「登山用具一式を揃えたんだ。この寝袋も買ったけど、八ヶ岳の山小屋はどこもちゃんと布団があるからずっと使ってないんだ。だから今日初めて使うんだよ」
と、うきうき楽しそうである。山のホテルでも見たスマホの山野草写真をまたいちいち説明しながらスワイプするのだった。
黄色いシナノキンバイという花は柾目家咲也に似ているなどと言って頬を染めている。
〝明烏 〟は奥手な若者、時次郎の童貞喪失をドタバタ劇のように描いた落語である。仁平師匠の時次郎もそれなりに色気づいているのは喜ばしい限りである。
楽屋で聞いた内輪話にも、音丸の〝金明竹〟の失敗にもまるで触れない。共に暮らしていた頃も大人たちの話や失態にも知らんふりの出来る敏い子供だった。
とはいえ酔っているのか、しつこく写真を見せつけられるのには参る。
「あ、こっちは木曽駒ケ岳で撮った写真。ミヤマクロユリ。あの人に似てると思わない?」
「誰ですよ?」
と音丸は呑むのが先で適当に眺めていたのが、
「あの、髪の毛が天然パーマの人」
と言われてとっさにスマホを覗き込む。
ミヤマクロユリ……薄暗い地味な色の花である。名前負けしているだろう。奴のような華やかさがまるでないし。
そうは言わずに「ふうん」と呟いて、
「寝る前にちゃんとおしっこに行ってくださいよ」
と付け加えただけだった。
「音丸さんてば。もうそういうの大丈夫だからさ」
ぶつぶつ言いながらトイレに行く三弦だった。
布団に寝転んでスマホをチェックしていると、そのミヤマクロユリからLINEメッセージが届いていた。
〈軽井沢の研修所に着いたよ。また東京で会いたいな。今度はちゃんと最後までね〉
自然に口元が緩んでしまう。〈最後まで何を?〉とか返事を送ってやろうか。
スタンプの使い方を知らないのは幸いだった。もし知っていればハートマークやLOVEだの怒涛のように送信してしまいそうである。
トイレから戻った三弦はいそいそと寝袋に入ってファスナーを上げている。音丸は頭をぶつけないように気をつけて立ち上がると電気を消して、
「みっちゃん。LINEのスタンプの送り方……」
と言いかけて「いや、何でもない」と暗闇の布団に寝転がった。
殆ど同時に三弦が「あのさ」と起き上がった。いや、寝袋でうまく身を起こせずに、結局ファスナーを開けている。暑かったのかも知れない。
「何ですか?」
「あの人って、もしかして……」
「はい?」
「あの天然パーマの人。もしかして音丸さんの好きな人? いつも恋人がいるって……」
音丸は黙っていた。一気に酔いが醒めた気がする。
三弦は暗闇で結局寝袋を脱いで、ただの敷布団にしたらしくがさごそ音がする。
「ねえ。同性愛者って……つまり、そういうこと? あの人が音丸さんの恋人?」
「違います。あの方はただのファンです」
強く言い切った。ここで認めるのは、とてもまずい気がした。
「確かに私はそうですが、あの方は違います。何も私のファンが全てそうだというわけではありません」
「そうか……そうだよね。ごめんね。ただのファンの人だよね」
またがさがさ音がするのは寝袋の上で三弦がこちらに背を向けたようだった。やはり三弦に告白したのは間違いだったと不安が兆したところに、
「僕、絶対に言わないから。音丸さんのこと。安心して」
と、きっぱり宣言するのだった。
そして「おやすみなさい」と小さく言った。妙に懐かしい響きである。低い声で同じ挨拶を返しながら、にわかに前座時代に引き戻されるのだった。
あの頃も和室で布団を並べて寝ていたのだ。たっぱだった音丸は幼い三弦の寝息を聞きながら〝金明竹〟を口ずさんだものである。
そんな昔に覚えた噺をしくじった。後悔と共に深い眠りに落ちていた。
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