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第19話 青天の霹靂
6 青天の霹靂
翌朝三弦は音丸と共にバスで駅に向かった。大学に行くには回り道だが、いったん駅前でバスを降りて見送った。
近いうちに東京の寄席に音丸の高座を見に行くと言った後で、
「咲也さんにも会ってみたいし」
などと妙に一人でにやにやしながらつけ加えるのだった。冷静に考えれば協会の違う二人が同じ寄席に出るはずもないのに。
音丸はまるで贔屓客に言うように「お世話になりました」と丁寧に頭を下げるのだった。大きなザックを背負いスーツケースを引いて改札階行きエスカレーターに乗る音丸を、また手を振って見送った。
昨日、新幹線の改札階から降りて来た天然パーマの美青年はやはり音丸の〝好きな人〟〝恋人〟であるような気がした。
夕べトイレに入っている時に唐突に閃いたのだ。ミヤマクロユリからの連想でギンリョウソウに似合う気がして(生息域はまるで違うが)思い到った。やっと音丸が同性愛者だという事実が腑に落ちた瞬間でもある。
どんな時でもファンには愛想がいい音丸が(仁平一門の教えでもあるのだが)あそこまで見事に無視するのはそれが許される相手なのだろう。たとえば身内のような。
だが当人が否定している以上、想像は想像でしかない。常に他人との距離が遠かった音丸の人となりが今になって理解できた気がする。
随分と孤独な道のりを歩いて来たのかも知れない。何やら励まされた気になって、背筋を伸ばして大学に向かう。
落研の部室で昨日の反省会があるのだ。演じた側ではなく聞いた側が何を反省するのかよくわからないが、夏休みで暇を持て余しているから出かけてしまう。
サークル棟に入るなり茶髪の女子が近づいて来て、つい挙動不審になってしまう。山野草研究会の部員だったはずである。〝金明竹〟の言い立てを怒鳴っている三弦を珍しいもののように眺めていたのを覚えている。
「蓮見くんて有名な落語家の息子なんだって?」
と肩をすり寄せるようにして言われる。
「息子じゃなく孫だけど」
「笑点とか出てるの?」
「出ないよ。日曜日のめっちゃ朝早い番組とかEテレとかは時々出てる」
「えーっ⁉ すごーい!」
昨日、落語会場の前で聞いた落研部員の「すごーい‼」とは明らかに違う部分に力点がある声だった。
そして腕を組まれそうになるが「じゃあね」と逃げるように落研の部室に入ってしまう。自分の仕草が完全に昨日音丸にされたことだと気づくのだった。
部室にはA4用紙の束があった。数人の部員達が包みを開いて眺めている。大学祭落語会のチラシだった。モノクロで〝柏家徳丸独演会〟とある文字の下では黒紋付を着た四角い顔の男が扇子を広げて破顔一笑している。三弦には実に懐かしい顔だった。
部室に集っているのは昨日の落語会に来たメンバーだった。
「蓮見くん、昨日はありがとう。まさか出演者全員のサインがもらえるとは思わなかったよ」
と口々に三弦に向かって色紙の礼を言われる。
「とんでもないことでございます」
と言ってしまってから口を噤む。こんな言い方をするからいじめられるのだ。けれど部長は頷きながら「とんでもないことでございます」を繰り返してから、
「これが正式な言い方だよな。とんでもない、なんて簡易的で礼儀にかなってないわけだ」
と感心するのだった。
今日の仕事はこのチラシを大学近辺の店に置いてもらうことだった。誰がどこに配るかなどとおしゃべりしているうちにまた、
「蓮見くんは落語できるんでしょう? 〝金明竹〟の言い立て覚えてるんだもん」
「徳丸師匠の前座をやりなよ。先輩が辞めちゃって困ってたんだ」
という話になる。落語は諳んじているが、高座で語ることなど出来ない。そう断わってから、にわかに思いついて、
「徳丸師匠に前座を連れて来てくれるように頼んでみようか? もし予算が許すならだけど」
などと提案してしまう。
「女性の前座を連れて来てもらうといいよ。今は落語の世界だってジェンダーフリーなんだ。コンプラに配慮した改作だってあるし。新しさを知ってもらえるよ」
ここぞとばかりに力説しているのだった。もちろん頭に浮かんでいる女性前座はただ一人だった。自分が案外に不純な動機で動く人間だと知る。
落語の仕事は口約束が殆どである。契約書などない。LINEやメールで文字として残るようになったのはつい最近のことである(落語の長い歴史から見れば)。
音丸は東京に戻る新幹線の中でスマートフォンをチェックして驚いた。LINE、メール、留守電とあらゆる手段で各所からキャンセルの連絡が届いていた。まるで何かが封切られたかのようにどっと増えていたのだ。
〈突然で申し訳ございませんが〉
と前置きがあるのは丁寧な方である。
〈次回の落語会は中止です〉
と用件のみのものもある。
この事態はコロナ禍を思い起こさせる。あの時は仕事が全てキャンセルになって、連日蟄居を強いられた。また何か集客を禁じる通達でも出たのか。
世情に疎い落語家である。後で調べようとは思ったが、まずはスケジュール管理である。
電車の中でファンサイト管理人の百合絵にスケジュール変更の依頼をした。すると返信までがキャンセルがらみである。
〈坂上焙煎珈琲店様から独演会キャンセルのご連絡がありました。スケジュール表の予定は訂正済みです〉
と行き届いたことである。
この会では弟弟子のこっぱと柾目家桐也に交互で開口一番を頼んでいる。今回は桐也の番だった。昼前に上野駅に着いて電車を降りるなり電話でその旨を伝える。
「はいはい、中止ですね。了解しました」
「はい、は一度だけ」
「あっ、はいはい。失礼しました。あにさん」
わかっているのか? と問い直すのも面倒で電話を切る。
今夜は赤坂の居酒屋で落語会があるはずだったが、これもにわかにキャンセルである。
空いた時間は稽古に限る。今のうちに〝文七元結〟を上げてしまおうと目論む。旅の間にある程度は仕上げてあるのだ。
落語は基本三遍稽古である。
最初は一対一で師匠の噺を聞く。
二回目は覚えた噺を師匠の前で語り、注意や指導を受ける。
そして上げの稽古と呼ばれる三回目、改善したものを師匠の前で披露する。
そこでOKが出れば高座にかけることが出来るのだ。
初回の稽古を先日の逸馬師匠のように袖で高座を聞かせたり、自分の音源CDなどを渡すだけの師匠もいる。ただ二回目、三回目の稽古は直接対面する必要がある。
逸馬師匠は今、浅草に出演しているはずである。上野駅から荷物を引いて直接浅草に向かった。すぐにでも二度目の稽古を申し込むつもりだった。
昼時だから当たりをつけて寄席近くの蕎麦屋に行ってみれば案の定、逸馬師匠は昼酒の真っ最中だった。板わさで冷酒を吞んでいる。
「お食事中、申し訳ございません。〝文七元結〟のお稽古をお願いしたいのですが」
と日程の打ち合わせをしようとするが、逸馬師匠は渋い顔で杯を傾けるばかりである。
「すまんが私も忙しいんでね。じき喜寿記念落語会があるから」
「伺っております。歌舞伎座で昼夜公演をされるそうですね。うちの師匠もゲストに呼んで頂いたそうで」
「うん。そういうわけだから、稽古は喜寿記念落語会が終わってからにしてくれ」
あっさり言われてぽかんと口を開けてしまう。
喜寿記念落語会は来年の春である。音丸は今年の年末の一門会のために稽古をつけて欲しいと頼んでいるのだ。そう言って丁寧に何度も頭を下げるも返事は「忙しい」の一点張りだった。
うなだれて浅草を引き上げる。巡業中引いて歩いたスーツケースが殊更に重く感じられる。主催者からもらった土産などで荷が増えているのは事実だが。
辿り着いた自室は築何十年とたつ老朽木造アパートである。住人の大半は日本人ではない。共用玄関に一歩入れば、ガラムマサラかニョクマムかそれとも五香粉なのか多国籍料理屋めいた臭気が押し寄せて来る。
二階の音丸の部屋にかろうじて日本の香が漂っているのは唯一の家具、桐箪笥に収めた着物に挟んだ匂い袋のお陰である。これまた随分と古い型のエアコンのスイッチを入れる。ぐおんと身震いをして稼働はするが冷気が出ているのか定かではない。
箪笥しかない六畳間でザックやスーツケースの荷解きをする。巡業中着て歩いた着物を衣桁に掛ける。後で下着などの洗濯物を持ってコインランドリーに行こうと思いながら部屋に寝転んでしまう。稽古をする気はすっかり失せている。
天井にぶら下がっている蛍光灯を眺めながら、似たようなボロアパートに住む若者を思うのだった。こんなことなら長野に残ってもっと話を聞いてやればよかったと少しばかり後悔する。
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