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第21話 青天の霹靂
そして通常通りに出演する他の寄席でも気がつけば楽屋には妙な空気が漂っていた。九月も上席に入る頃には、いかに鈍い音丸でも気づかずにはおれなかった。
楽屋入りしても誰も音丸に目を留めない。偶然目が合った前座があわてて目を逸らすことまである。うるさ型の老師匠なら「失礼な!」と一喝する行為である。だが、当のうるさ型の老師匠が、
「おはようございます」
と挨拶をする音丸に気づかぬふりで新聞を読んでいたりする。にわかに自分が透明人間になった気がする。
同門の弟弟子こっぱでさえ音丸の着付けについたのに、
「一門会のネタ、さらってるか?」
などと話しかけても「はい」と迷惑そうに小さく答えるだけである。着替えが終わるなり逃げるように立ち去った。
ハブられている?
自分の性的指向が楽屋中に知れ渡っている?
形を成さない不安に捕らわれて一人立ち尽くしていると、
「おう、あんちゃん。またぐるぐるやってるか?」
ぽんぽんと肩を叩くのは音羽亭弦蔵だった。今日は背中に上り龍の刺繍が施されたスカジャンを着ている。
たちまち音丸は長野の楽屋に、この師匠と福助師匠そして三弦と共に居たことをまざまざと思い出す。
あの日、三弦に自分の秘密を明かしてしまったことも。
……しくじった。
師匠の孫は秘密を守らなかったに違いない。
音丸が同性愛者だと知った人々が薄気味悪がって遠巻きに見ている。
恐慌に陥りそうな気分で頭を下げた。
「今日はループしないように気をつけます。お先に勉強させていただきます」
他の師匠方にもお辞儀をして逃げるように高座に向かった。小気味のいい三味線の音に鉦が鳴る。出囃子だけが自分の味方に思えた。
それでも今回はループしないで〝金明竹〟を語った。前半をかいつまんだ寄席サイズできちんと時間内に収めたのだった。むしろ頭は真っ白に冴え渡っていた。
「あんちゃん。タレ前座に手を出したんだって?」
いきなり拳を突き出して卑猥な手つきをする弦蔵師匠である。
芋焼酎のロックを口に含んだ音丸はむせ返った。
とりあえずのビールを空けて本格的に呑み始めたところである。弦蔵師匠はまだビールを呑みながらにやにやと実に嬉しそうな顔である。
わずかな金でたらふく飲み食いできる歌舞伎町の居酒屋だった。学生やサラリーマンで満員の店内で落語家二人が向かい合って呑んでいる。
楽屋を出てここに来るまで、いつ弦蔵師匠に「ホモなのか?」と問い詰められるか戦々恐々としていたのにこの質問である。
「嫌がるタレ前座を無理に押し倒してカイたって噂だけど。そりゃねえだろ。あんちゃんならどんなタレでも喜んで股を開くさ」
いくら騒がしい店内とはいえ落語家のよく通る声である。この際、隠語など雰囲気でばれる。背後の客が振り返って音丸の顔をちらちら見るのも疎ましい。
「その噂はどこから?」
「さてね。噂はもうあらかたの寄席に出回ってるよ。楽屋で気がつかない? あんちゃんの着替えにタレはつかないだろう?」
「そう言えば……」
言われて初めて思い当たる。もともと女性の動向は気にしない質だったが、弟弟子のこっぱが着付けにつくのは近頃珍しいとは思っていた。
「柏家音丸は、むっつり助平だ。山の仕事で柾目家のタレ前座に手を出したって」
「柾目家のタレといえば一人しかいないでしょうに」
「ピンポイントな噂だよな。新宿は柾目家が出る芝居に、あんちゃんがぶち当たらないようにしたそうじゃないか」
師匠は芋タコの煮物を口に放り込みながら思わせぶりな視線を寄越す。音丸は素直に頷いた。
「四派連合の会なら全キャンされましたよ。福助師匠がトリの芝居」
「だろ? 新宿の若旦那はあの山手線事故で柾目家にミソつけちまったから。福助師匠も出る芝居に音丸は出せねえってんで、手を打ったんだろうな」
「せめてもう少し早めにキャンセルしてくれれば……」
「そこが間抜けなとこだな。若旦那、何とかなると踏んだんだぜ。甘かったねえ。錦家にねじ込まれたってもっぱらの噂だ」
音丸は焼酎のロックを水のようにごくごく吞み干す。
「おい、やけくそになるなよ。あんちゃん」
弦蔵師匠に注意されるが構わない。一升瓶を一人で空けても酔いやしないのだ。一度でいいから前後不覚になってみたいものである。
やはり錦家福助師匠の差し金か。今になって長野の楽屋で言われた言葉が理解できた。
「前座噺もろくに出来ないのに女の尻を追いかけ回すことだけは一人前か」
既にあの頃から楽屋には事実無根の噂が流れていたのだろう。
同性愛者だとばれたのではなかったと安堵して、更に酒のピッチが速まる。
「福助師匠は芸協の会長だし、逸馬師匠とも仲良しだ。あの辺が出る席は全部蹴られると思った方がいいぜ」
「ああ……そうか」
思わず呟いた。逸馬師匠が〝文七元結〟の二度目の稽古を受け付けてくれないのも、これが原因かと気づいたからである。
テーブルに何本もの銚子が並び、音丸の芋焼酎の瓶が空になる頃には、弦蔵師匠は魚肉ソーセージをかじりながらうっとりと言っているのだった。
「真鯛にカサゴにキジハタ、ノドグロ……魚が新鮮でうめえんだよ。例の海っぺりの仕事」
「お手伝いできずに申し訳ありませんでした。〝山の県境落語会〟が先に入っていたので」
頭を下げる音丸は新たに取り寄せた焼酎のボトルを生で呑んでいる。もう割るのも面倒臭い。
「山では何を食ったんだい?」
「蜂の子とかザザムシとか食べましたよ」
「ああ、蜂の子の佃煮ね。あれは炊き込みご飯にすると美味いんだ」
「…………」
蜂の子とは蜂の幼虫で、有体に言えば蛆虫的な形状である。それがご飯の中に展開している様はあまり想像したくない。
「あの仕事はワリもすごかったぜ。大昔、北前船で儲けた豪商っての? その末裔の土地持ちジジイがよ。素人席亭で相場を知らねえから……」
ワリとはギャラのことである。親指と人差し指で丸を作って弦蔵師匠は音丸の耳元で金額を囁いた。まともに師匠の目を見てしまう。「うそ」と口の形だけで言うと得意気に頷かれる。
「あんちゃんの代りに柾目家の桐也を呼んだけど、使えねえな。仁平師匠の孫って居たろう。あっちのがいいぜ。マジ入門しねえのかな?」
「三弦さんですか? あの子は繊細で気が利くけど、芸人向きじゃないですね。むしろお席亭です」
心の中で三弦を疑っていた音丸は、謝罪代わりにここぞとばかりに褒め上げる。
「聞く耳を持ってるし、新宿の若旦那よりよっぽど頭がいい。いい仕事しそうですよ」
そしてグラスに焼酎を注いでは水のように一気に吞み干すのだった。
この日、店を四軒ばかりハシゴして明け方まで呑みまくった音丸は、初めて二日酔いというものを知ることになる。
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