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第22話 ホームにて
7 ホームにて
音丸が仁平師匠に呼び出されたのは、めったにない二日酔いを体験した数日後である。
都心の一等地になぜこんな森があるのかと思うような豪邸である。
暦の上では秋なのに木々の緑は未だ色濃く蝉しぐれも止むことがない。冠木門をくぐって飛び石を伝って玄関を訪う。
顔を出したのは弟弟子のこっぱだった。音丸に気づくなり、
「あにさん、こないだは寄席ですみませんでした」
と頭を下げて来る。
音丸に師匠に呼ばれたと告げると、廊下を座敷に案内しながら訳を話して聞かせた。
「あにさんとあんまり口をきいちゃいけない空気感なんすよ。大御所が言うんすよ。音丸の、あにさんのせいでまた落協と芸協の空気が悪くなったとか」
「今時、協会同士の空気とか何なんだ?」
「そっすよね。芸協の逸馬師匠なんか、お囃子のお姐さんのお尻を触ってバチで殴られてんすよ。こっちこそ、そんな大御所のいる協会と仲良くしたかないっすよ」
「おまえ、それ見たのか?」
「いえ。芸協の桐也に聞きました」
「自分で見てもいないことを言いふらすな」
と弟弟子をたしなめながらも、音丸はつい笑みが浮かんでしまう。
とりあえず逸馬師匠の頭にあるのは酒と女だけである。尊敬は出来ないがわかりやすい。
〝文七元結〟の稽古を先延ばししているのも、逸馬師匠の思いつきではなく福助師匠の差し金だろう。落協を破門になって芸協に拾われた逸馬師匠が、そこの先輩に逆うのは難しいのだろう。
屋敷はしんと静まり返っていた。うら寂しい雰囲気なのは人気がないせいか。今は母屋に師匠夫妻とこっぱの三人が暮らしているだけである。かつて三弦母子や音丸たちが暮らしていた離れは今は来客の宿泊所になっている。
甘い物の好きな師匠はこっぱがお茶と共に持って来た富山銘菓、月世界をさくさくと食べるのだった。
ちんまりと座布団の上に座っている柏家仁平は、その形で高座に居ればただそれだけで客が微笑む。何とも言い難い可笑し味があるのだ。落語の世界ではそれを〝フラ〟と呼ぶ。
けれど今は笑っている場合ではなかった。切り出されたのは弦蔵師匠に聞いたあの噂についてだった。
「あれだな」
仁平師匠は菓子を食べながら困ったように話している。
「おまえさんは、女子供に乱暴をするような男じゃない。それはよくわかっている。住み込みの時も三弦の面倒をよく見てくれたよ」
「はあ」
「究馬師匠もそこら辺は信用してくれている。音丸は堅い。打ち上げでみんなでソープに行く時も断って、一人で帰って稽古に打ち込んでいると」
それは芸人としていい評判なのか悪い評判なのか難しいところである。音丸としては単に女性のいる風俗店に行っても困るだけなのだが。
「ただ、まあ……楽屋の噂になっちまったからな。落とし前はつけにゃならん」
「申し訳ありません。噂と言うのは正確にはどんな噂なんですか?」
音丸は畳に両手をついて頭を下げた。座卓越しの師匠がひらひら手を振って、頭を上げろと促している。そして説明した内容は弦蔵師匠に聞いたことと大差なかった。
「当の咲也は身体をこわして富山の実家に帰っちまったそうでな」
と師匠は甘い物の合間にお茶を啜る。
「究馬のかみさんが聞き出したところでは、音丸には何の罪もないってことだ。とある師匠に乱暴を働かれそうになったところを音丸が助けてくれたと」
「とある師匠って……」
「咲也が言った通りの言葉だ。まあ、誰かはみんな知ってるが」
「おいおいおい」とツッコミを入れたくなる。
「お騒がせして申し訳ありませんでした、と究馬の所に謝りに行く。それと、あれだ。福助師匠の所にもな」
音丸はただ黙ってうつむいていたが、
「すまんな。おまえのせいじゃないのは、わかってるんだが」
とまたひらひら手を振る師匠である。仕草の全てが実に軽い。寄席の高座に出る時もまるで風に流された凧のようにふわふわ出て来て座布団に座るのだ。
「連中は火種にしたいだけなんだよ。落協の音丸は、山手線事故の代バネで芸協の噺家をないがしろにした。その上、芸協の女前座に乱暴を働いたと。福助師匠は協会に正式に抗議を申し込むと息巻いてるそうだ」
「謝るべきは逸馬師匠じゃないか」と言いたいが言えないのがこの世界である。向ける先のない憤懣が我が身に渦巻くばかりである。黙っていると仁平師匠は何度も頷いている。
「あれだよ。おまえが言いたいことはよくわかる。しかしここはひとつ堪えてくれ。音丸が頭を下げた。それがまた楽屋に広まれば治まることなんだ」
音丸は殊更に手を揃えて前に着き、ただ頭を下げていた。
と、みしみしと廊下を近づいて来る足音がする。
「音丸さんが来てるの? あ、ホントだ!」
礼儀正しく廊下に正座して襖を開く様は大人だが、表情は子供のように屈託がない。
「おお、何だ。みっちゃん来たのか。ほら、美味いお菓子があるぞ」
師匠はにわかに相好を崩して富山銘菓を差し出す。
座敷はまるで日の光が差し込んだかのようである。仁平一門の弟子が総力を挙げたとて師匠をこんな蕩けるような笑顔にすることはできまい。
孫とは誠に偉大である。などと思う音丸こそが今や、あの谷底を覗き込んでいた三弦のような空ろな目をしている。
三弦にお茶を持って来たのはおかみさんだった。そのまま師匠の隣に座って嬉しそうに孫を見ている。いよいよ華やぐ座敷である。
お茶を飲んで一息つくと三弦は音丸を見やった。
「咲也さんから連絡がないから来てみたんだ」
「落研の落語会ですよね。徳丸あにさんに頼まれてます。咲也に前座と伝えたんですが……」
「あら、みっちゃんは落研に入ったの?」
おかみさんが尋ねるのと師匠の言葉は殆ど同時だった。
「咲也というのは、芸協の柾目家咲也かい?」
祖母に向かって「うん」と頷きながら、祖父に説明する孫息子はもう耳まで赤くなっている。
「じょ、女性前座をね、ダイバーシティだから呼ぼうって落研の顧問が……」
不純な動機が丸見えで、思わず笑いそうになる音丸である。
「今は身体を壊して田舎に帰っているそうだよ」
「えっ⁉ おじいちゃん知ってるの? 大丈夫なの?」
「小耳にはさんだだけだが。少しばかり具合が悪いそうだよ。まあ、大したことはないだろう」
「また咲也に連絡して見ますよ。大学祭まではまだ時間がありますから」
すっかり笑顔を失って不安そうな三弦に仁平師匠と音丸とが口々に言うのだった。
「そうだね。ありがとう」と頷く三弦は無理にも笑顔を作っている。そしておかみさんから師匠が夜席のトリだから聞きに行くように勧められると、更に大きく頷くのだった。
常に大人の配慮が出来る。ひょっとしたら自分よりはるかに大人かも知れないと思う音丸である。子供の中に大人がいると仲間外れにされる。などと思ったりもする。
この日、三弦は寄席が終わるや横浜の実家に向かったらしい。
トリの高座を終えて楽屋に戻った師匠は、孫が帰ったと知ってがっかりしていた。と楽屋働きをしていた前座こっぱの報告である。
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