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第23話 ホームにて
〈今日、新宿の寄席に行ったけど音丸さん出てなかったね〉
と龍平からメッセージが届く。
仁平師匠がトリをとった寄席に音丸は二つ目枠で出演するはずだった。けれどこれも他の二つ目に変わっていた。
このところ音丸は仕事のキャンセルをいちいち百合絵に報告するのが面倒になっている。結果ファンサイトのスケジュール表も正確さを欠くことになり、龍平の無駄足につながったわけだ。
百合絵は何度も電話を寄越しており着信履歴に名前が並んでいる。おそらく音丸の無精に対する小言だろう。いよいよ連絡が億劫になって来る。
無意識に龍平にメッセージを送っている。
〈おまえに会いたい〉
いや、何を送信しているのだ?
一人で赤くなって取り消そうとすると、打てば響くように返信が届く。
〈長野の楽屋で会ったきりだもんね。あの色紙、部屋に飾ったよ。見に来ない?〉
〈行ってるヒマはない〉
正直な事実ではあるが、タイミングも言い方もよろしくない。
龍平からは何の返信もなかった。
既読スルーは珍しい。怒っても火を噴くちびドラゴンのスタンプぐらいは寄越すのに。
いよいよ関係終了も間近かと、またもため息をつく。
謝罪行脚が始まる。
身に覚えのない悪事を謝るために仁平師匠と共に究馬師匠宅、福助師匠宅と歩いて回る。手土産はおかみさんが用意してくれていた。
「これなら軽いから持ち歩きやすいでしょう」
と、それが基準の高級海老煎餅だったりする。
落語芸能協会事務局、落語家協会事務局、そして新宿の若旦那の許にも迷惑をかけたと高級海老煎餅を届ける。それだけのことが、とてつもなく大変なのだ。
そもそも落語家の世界ではお中元お歳暮など季節の挨拶も宅配便など使わずに直接持参するのが礼儀とされている。そして事前に予約することは許されないのだ。相手の時間を束縛するのはとても失礼という認識なのだ。
事務所はともかく師匠方の自宅にアポなし訪問するのは想像以上に大変である。相手の出演状況を調べて出かけても、何も外出は仕事だけではない。当人が留守であればまた出直さなければならない。
まだまだ蒸し暑い最中に何度も訪問するのは負担だった。まして音丸は身に覚えのないことを謝るために足を運んでいるのだ。
そうしてようやく相手が在宅していて対面しても特に事件に関して触れることはない。時事ネタに野球にサッカー相撲とスポーツネタと、軽い話題で時間が過ぎるだけだった。
柾目家逸馬師匠宅も訪れて仁平師匠自ら頭を下げてくれるのだった。〝文七元結〟の稽古についても、なるべく早めに上げて欲しいと平身低頭してくれる。音丸も師匠の横に這いつくばって、これ以上ない程に額を畳みに擦り付けているのだった。
逸馬師匠はあのホテルでの出来事は酔いの彼方に消えているのか、気まずい顔のひとつもせずに菓子折りを受け取るのだった。
あちこちで頭を下げている間中、
何故自分が?
何故自分が?
という疑問が頭の中で渦を巻いていた。
「しかし何だって楽屋に噂が出回ったんでしょうね?」
地下鉄の長いホームを師匠と並んで歩きながら疑問を口にする。長い弧を描いたようなホームには、まだ転落防止のホームドアはない。
そもそも山荘ホテルのあの現場に居合わせた誰もが事件について口外するはずがない。咲也も逸馬師匠も、もちろん自分も三弦も百合絵だって言わないだろう。
なのにまことしやかに噂が流れたのは何故なのか?
仁平師匠も首をかしげているが、音丸は特に回答を求めていたわけではない。こういう時あいつなら頭がいいからすぐ回答を出しそうな気がする。と、また龍平のことを思っているのだった。
あの天然パーマをくしゃくしゃにしていたい。湖面のように光る瞳を見つめて居たい。「ねえねえねえ」と三度重ねる甘え声をいつまでも聞いていたい。それだけでもう充分なのだが……。
そこに天井から電子警告音が鳴り始めた。列車が入って来ると言う合図である。促されるように音丸は歩いていた足の向きを変えた。
線路に向けて歩いている。まるで自分の出囃子を聞いたかのような足取りだった。
駅のアナウンスが、
「二番線、快速電車が通過します。黄色い線の内側にお下がりください」
と呼びかける。
楽屋から高座に一歩踏み出すように足は軽く黄色い線を越えた。
もう一歩、踏み出した先にホームはなかった。
途端に腕を掴まれて身体を後方に引かれた。
いきなりだったから受け身を取る間もなく、激しい勢いでばったりと背後に倒れた。
まるで棒が一本倒れるような形だった。
背中でごんと鈍い音がすると同時に、靴底の一寸先を快速電車が音を立てて走り抜けて行った。
「え?」
狐につままれた思いで身を起こすと、小柄な仁平師匠を完全に下敷きにしていた。渋面で後頭部をさすっているのは、先程の鈍い音が原因のようである。
「大丈夫ですか⁉」
慌てて師匠を助け起こす音丸と声を合わせるかのように、
「大丈夫ですかっ⁉」
叫びながら血相を変えた駅員が走って来る。
音丸の身体から這いずり出した師匠は、
「バカな事を考えるな‼」
と音丸の胸倉を掴んで怒鳴りつけた。
「いや、別に何も考えていない」と思っただけで声は出ない。
何を考えていたのかわからないのだ。
ただ、めったに大声を出さない師匠が血相を変えているのを珍しいもののように眺めている。
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