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第24話 ホームにて

 音丸は電車が入って来る線路に飛び込もうとしていたらしい。  仁平師匠が背後から遮二無二身体を引いてくれたから、下に落ちずにホームに倒れ込んだのだった。  ようやくそれを認識したのは師匠と共に救急病院に行ってからだった。  何しろ師匠は音丸の体重もろとも全身を床に叩きつけられたのだ。後頭部には瘤まで出来ている。救急車を呼ぶのを頑なに拒む師匠を、仕方なくタクシーに乗せて救急病院に運んだのだ。   そして頭部のMIR検査も受けたが問題はなかった。ただ全身に打撲傷や擦過傷があるとのことで鎮痛剤や湿布薬を処方された。  それは派手に倒れた音丸もまた同じことだった。医師の診察を受けて同じように湿布薬などを貼られた。 「これは何の傷かな?」と医師が首をかしげながら薬を塗って絆創膏を貼ったのは、背中寄りの首の付け根だった。何かで切ったような傷だとのことだった。その正体がわかったのは帰宅のタクシー内だった。  怪訝そうに指先で口元をいじっていた師匠が、 「しゃし歯が取えた?」  と、にわかに指先で前歯を一本摘み出したのだ。  覗き込んだ師匠の歯列は見事に前歯一本分がぽっかり空いている。ふつうならとても滑稽な顔なのだが、音丸は全身から血の気が引いていた。  師匠の声は「差し歯が取れた」のはずが「しゃし歯が取えた」に聞こえたのだ。  落語家にとって口は唯一の商売道具である。歯が抜ければ滑舌も悪くなる。噺を語るのに影響は大きい。故に落語家は意外な程に口腔衛生には気を使っている。  なのに音丸ときたら師匠の前歯を欠いてしまったのだ。あの絆創膏を貼った部分は、小柄な師匠のちょうど口元に当たる。下敷きにした勢いで差し歯が当たって切り傷になったのだ。いや、あんな傷はどうでもいい。問題は師匠の前歯である。滑舌である。  その場でタクシーの行先を歯科医院に変えた。仁平一門かかりつけの歯医者は落語マニアで落語家の口腔に関してもベテランである。  師匠が外れた差し歯を治してもらっている間、待合室の椅子で音丸は頭を抱え込んでいた。  歯のせいで万が一にも名人柏家仁平の高座に支障が出るようなら、自分は今度こそきちんと線路に落ちて死んでしまえ、などと思っているのだった。  仁平師匠は自宅に帰っても、それらの怪我について家族にも弟子にも、 「うっかり駅のホームで転んじまってな」  としか言わなかった。 「音丸まで巻き込んじまった。年を取るといかんな」  とまで言ってくれる。音丸は言うべき言葉を知らなかった。  今に到るも音丸は、あの時自分が何を考えていたのかまるでわからない。ただ何か見当識障害でも起きて、高座に出るつもりで線路に向かってしまったとしか思えない。  どこか心の奥底で、もう二度と中園龍平に会えなくなる……と考えていた気はするが。  その後しばらくは痛みのために高座での立ち居振る舞いがぎくしゃくした。ささいな仕草にも打撲傷の影響を覚える。キャンセルで高座自体が少なくなっていたのは不幸中の幸いだった。  仁平師匠はもっと痛みがあったろうに、この件に関しては家の外では全く口にしなかった。痛みが動きに現れれば「もう年だから」と加齢のせいにしてくれた。袖で師匠の声を聞いて差し歯を治した影響がないことに安堵したものである。  そして甘党の師匠宅に季節を先取りした栗むし羊羹などを届ければ、 「こんなことはせんでもいい。おまえはもっと自分を大切にしなさい。あれだ。柏家音丸に何かあれば悲しむ人は大勢いるんだ。おかしなことは考えてくれるな」  と腫れ物に触るように言われるのだった。  だが謝罪行脚の霊験はあらたかだった。  仁平師匠が頭を下げてくれたお蔭で逸馬師匠が〝文七元結〟の二度目の稽古をようやく受け 入れてくれたのだ。  空き時間はたっぷりあったから二度目での駄目出し部分を直して、すぐに三度目の稽古も申し込んだ。そして、あっという間に上げてもらった。これでもう堂々と人前で語ることが出来る。  本来ならこの噺は口慣らしとして、坂上焙煎珈琲店で行われる小さな落語会で初披露をするつもりだった。だが今月の回はキャンセルになっていた。 「落語会はキャンセルですけどお店にいらしてください。ファンサイトとしても少しミーティングをしたいと思いますのよ」  気をよくした音丸がたまたま出た電話は、菅谷百合絵からだった。息つく間もなく用件を言い放ってから、 「何度も留守電を入れたのに、音丸さんたらちっとも折り返しくださらないんだから」 と不満を洩らすのだった。  改めて着信履歴に並んだ百合絵の名前を見てため息をつく。

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