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第25話 坂上焙煎珈琲店

8 坂上焙煎珈琲店  坂上焙煎珈琲店は名前の通り坂の上に建つ焙煎珈琲店である。  店主が落語好きでカウンターの上に座布団を敷いて高座にするような小さな落語会を開いている。そこに音丸を紹介してくれたのはコーヒー好きな百合絵だった。  ドアを開けると上部に付けられたベルがからんからんと鳴る。落語会の時には音が出ないようベルにタオルを巻きつける気配りである。  店が開店したばかりの午前十一時。落語家にとってはまだ寝ていたい時間帯である。  音丸がベルの音と共に店内に入ると、奥の席に座っていた百合絵が振り向いて手招きをした。その向かい側には若い男が一人座っていた。音丸同様その男もかなり眠そうだったが。 「あにさん! この人に何か言ってやってくださいよ」  弾かれるように立ち上がって訴えた。顎で目の前にいる百合絵を示している。  よく見れば前座の柾目家桐也(まさめやきりや)だった。 「失礼だろう、桐也。百合絵さんにはいつもお世話になっているのに」  と、たしなめながら二人の間の席に座る。  桐也も渋々腰を下ろすが、目は百合絵を睨んだままである。  音丸の到着を待つ間にコーヒーを飲み終えたらしい百合絵は、膝の上の小さなバッグからハンカチを出して口元を拭っている。  それこそ弁当箱のように小さなハンドバッグである。  あれで一体何を持ち運ぶのか、女性全般に疎い音丸には謎でしかない。 「こちらの店長さんは、音丸さんが女性に暴行を働いたという噂をお聞きになって落語会をキャンセルなさったそうですわ」  いきなり言われて音丸は、ようやく治って来た打撲傷がまたじわりと痛む気がした。  またその話か……。ため息をつかんばかりの音丸である。  百合絵はそれこそ古い邦画の女優のように口元に手を当てて頭を下げた。 「藪から棒に、ごめんあそばせ。ずっと音丸さんとお話し出来なかったから焦ってしまって」  音丸の前に湯気の立つコーヒーカップが差し出された。そして百合絵や桐也の前にもお代わりのカップが置かれる。  恐縮したような表情の店主である。 「菅谷さんに誤解だとお聞きしました。キャンセルなどして申し訳ありませんでした」  と言葉少なに謝ると、またカウンターの中に戻って行った。  店主が自分に向かって謝る訳もわからなかったが、もはや知りたくもなかった。 「その話はもういいです。私も師匠と一緒に謝って歩いて……終わったことですから」  と熱いコーヒーを一口啜って言ったのは本心からだった。  ホームから足を踏み出した時、音丸にとってあの事件は終わったのだ。  線路を疾走して行った快速電車に踏み砕かれたのは事件の不快な記憶なのかも知れない。何故か今はそう思っている。  なのに、思い出す度に今やただの痣でしかない打撲傷が痛む。 「思い出したくないお気持ちはわかりますわ。でも、はっきりさせておくべきです。噂を流したのは、ここにいる桐也さんですわ」 「だから!」  桐也はまた両手を突いて立ち上がった。コーヒーカップがソーサーソの上で揺れてかすかな音を立てる。 「僕はただ楽屋の噂を店長さんに伝えただけです。音丸あにさんの会は他にもいろいろキャンセルになってたし、お店の信用のためにも今回は見合わせた方がいいと……」  音丸は黙って有田焼のコーヒーカップから黒く苦い物を口に含むばかりである。  では音丸が電話でキャンセルを伝えて「はいはい」と二度返事をした桐也は、とうにそれを知っていたのか。 「出過ぎた真似だったら謝ります。すいませんでした。僕、今日浅草の夜席の仕事なんだけど」 「それまでにはお帰ししますわ。ところで〝山の県境落語会〟の前座ですけど」  百合絵がそう言った途端に桐也は言葉を飲み込んで腰を下ろした。 「もともと桐也さんの仕事だったそうですわね。それが緊急の用事で咲也さんに交代されたと伺いましたわ」 「そうですけど?」 「すみません、百合絵さん」  にわかに音丸は百合絵の言葉を遮って、飲みかけのコーヒーをソーサーに戻した。そして桐也の顔をまともに見ると、 「桐也。おまえの緊急の用件てのは、海っぺりの落語会だな?」 「そうですよ。弦蔵師匠に呼ばれて断れなかったんです」 「断れないはずないだろう。山の仕事は前から決まっていた。弦蔵師匠のお誘いの方が後だったぞ」 「そ、そうですけど、弦蔵師匠ですよ。ちょっと反社みたいで……怖くて断れませんよ」 「先に決まった仕事を優先するのがこの世界の掟だ。弦蔵師匠もそれはご存知だ。私が断ってもすぐに受け入れてくださったぞ。なのに何でおまえは断らなかった?」 「だから、だって……あの師匠はちょっと怖くて……」 「嘘つけ。これだろう?」  音丸は親指と人差し指を丸めて見せる。あまり上品な仕草ではない。 「弦蔵師匠に聞いた。相場知らずの素人席亭が、とんでもないワリを出したらしいな」  桐也はにわかに冷めたコーヒーをがぶがぶ飲んだ。開き直った風にコーヒーカップ越しに音丸を睨んでいる。 「すいませんでした。金に転びました」  とカップを下に置くついでのように頭を下げた。 「でも前座は貧乏なんですよ。あにさんだって経験あるからわかるでしょう。いくら掟でもフツーみんなワリのいい方に行きますよ」 「そこで何で代理に女前座を出す? 逸馬師匠の女癖の悪さはおまえだって知ってるのに」 「で、でも……喜寿の師匠が孫みたいな年の娘に何かするなんて。フツー考えないでしょう」  コーヒーに入れた砂糖をスプーンでかき回していた百合絵が、かちゃんと音をたててスプーンを止めた。珍しく乱暴な動作だった。咳払いをして、 「よろしいかしら?」  と音丸と桐也の顔を見比べた。 「実はあの夜、咲也さんからお聞きした中にはかなりプライベートなお話もありましたの。性暴力の事件とはあまり関係がないので、音丸さんにも黙っておりましたが」  音丸は黙って頷いた。  菅谷百合絵が他人に心を開かせる手腕には目を見張るものがある。慎重な音丸がどういうわけかファンサイト管理人として全幅の信頼を寄せてしまっているのがいい証拠である。あの夜、取り乱した咲也が百合絵に何を話したとしても不思議はない。 「今後も黙っているつもりでしたけれど……もしこの件で音丸さんの経歴に傷が残るようなら、悔やんでも悔やみきれませんもの」  二人の話を心ここにあらずといった風情で聞いている桐也に向かって百合絵は切りつけるように言い放った。 「咲也さんと桐也さんはおつきあいされているそうですね」 「ちょっと待ってくださいよ⁉」  桐也はまたも両手でテーブルを叩いた。 「あ」と音丸が小さく声を出したのは、全てが繋がった気がしたからである。  逸馬師匠に襲われた咲也の、あの恐怖と衝撃に満ちた様子はつまり、 「恋人に頼まれて大師匠の旅の仕事についた。恋人が自分を危険な場所に送り込むはずがないと信じていたから。そして大師匠が孫弟子に乱暴をするはずがないとも信じていた。だけど裏切られた。咲也は二重に裏切られたんだ。だから、あそこまでショックを受けて……」 「そういうことですわ。性暴力はひどいトラウマになるのに。そのきっかけが彼氏だなんて」  まだテーブルに両手を突いている桐也を音丸は睨みつけた。 「他に男の前座は空いてなかったのか? 何で恋人を危険にさらす?」  口をぱくぱくさせて言葉を探している桐也に向かって百合絵が、 「もう恋人でいたくなかったからですわね」  更に一太刀浴びせかけた。

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