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第26話 坂上焙煎珈琲店
「女好きの老人にいたずらでもされれば別れる理由が出来る。そうお考えになったのでは?」
救いを求めるように桐也が見ているのは、カランカランとベルが鳴るドアの方である。
新たな客が入って来たらしい。「いらっしゃいませ」と店主が声をかけているのは入り口近くのカウンター席に座ったらしい。
百合絵が振り向いてちらりと見たが、事の成り行きに呆れ果てていた音丸は視線を動かす気にもなれなかった。
「あの時、咲也さんは月のものがずっとないと心配してらっしゃいました。もともと不順な質で前座仕事の忙しさで途切れがちだったけれど、妊娠の可能性も否定できない……と」
桐也はがくりと音がせんばかりにうつむくと力なく呟いた。
「そんなこと……聞いてませんよ」
「ええ。彼氏には聞いてもらえない。全く相談にのってもらえないと咲也さんもおっしゃってましたわ。そもそも避妊具も使ってくれなかったそうですから。すぐに産婦人科に行くように勧めましたが、その後どうなったのかしら?」
「体調を崩して富山の実家に帰ったそうですよ」
と音丸は腕を組んでため息をついた。
百合絵は変わらず臨戦態勢である。
「どうしてもわからないのは、楽屋に広まった噂で犯人が逸馬師匠ではなく、音丸さんになってることですわ」
「そんなん……大師匠が廃業させられたりしたら、みんなが困るじゃないか。弟子の究馬師匠やその一門まで悪く言われて仕事がなくなったりしたら……」
「そうだな。楽屋で一斉に無視されて居場所も仕事もなくなって、そりゃあ困るな」
と音丸は有田焼のコーヒーカップを手にした。
今やすっかり冷めている黒い液体を静かに飲み干す。上質なコーヒーは冷めてもおいしいと百合絵が自分の手柄のように自慢していたが否やはない。
「あちこちに頭を下げて回らなきゃならないし、自分だけじゃない、師匠にまで頭を下げさせることになる。いい迷惑だ」
空のカップを指先でもてあそびながら自嘲気味に言う。疼痛がようやく癒えた肩や腰の打撲傷がまたじくじくと痛み始めた気がした。そっとカップをソーサーに置くと桐也を見た。
「大師匠の悪い評判は困るから、私のせいにしたのか。確かに落協の私なら芸協内で噂も早く回ったろうな」
「僕、別に僕が言ったわけじゃ……楽屋で二つ目のあにさん方が、咲也がずっと休んでるのは、山の仕事で逸馬師匠や音丸さんに回されたからだって言い出して……」
「言葉に気をつけろ」
相変わらず桐也を見つめたまま言った。
特に大声は出していないが桐也は青ざめて硬直している。
弦蔵師匠を反社と評するなら、自分も桐也から似たような評価を得ているのだろうとまた自嘲する。ならば反社会的勢力で構わない。音丸には桐也の捻じ曲がった発想がまるで理解できないのだから。
「咲也はお前の何が良くてつきあってたんだろう?」
正直な感慨がそのまま口に出る。
「別れたいなら咲也に直接言えばいいものを。他人を巻き込んで小細工する……まるで意味がわからない」
「だって福助師匠も逸馬師匠も女の落語家なんて邪道だって言ってましたよ。何で究馬師匠は女なんか弟子入りさせたんだって怒ってた。楽屋の風紀も乱れるし」
「風紀を乱したのはどこのどいつだ⁉」と言いたい言葉を飲み込んで音丸は、
「さっきも言ったが、この件は私と仁平師匠が各方面に謝って回ってもう終わっている。楽屋の噂もじき下火になるだろう」
「音丸さんはそれでよろしいんですの?」
百合絵がまともに顔を覗き込んだ。
「弁護士を頼んで法的措置をとることも出来ますわよ。二つ目の音丸さんにはまだ長い落語家人生がありますのよ。名誉棄損で訴えておかないと後々この件が災いにならないとも……」
「もういいです。忘れたいだけです」
と音丸は腕を組んで首をかしげる。
これ以上、桐也の捻じ曲がった思考に頭を乱されたくない。話せば話すほど不快になるだけである。
「桐也。ここの前座はもうお前には頼まない。他の仕事も二度と頼まない」
もう一度、桐也を睨めつけると立ち上がった。そして伝票を取り上げると、
「わざわざありがとうございました、百合絵さん」
と丁寧に頭を下げた。
百合絵は音丸の手から伝票を引き抜いて、膝の上のハンドバッグから財布を出すかと思いきや、
「音丸さんがそうおっしゃるなら、今回のところは穏便に済ませましょう」
と取り出したのは銀色の細長い機械だった。ボイスレコーダーである。
音丸はもはや何の感慨もなく「遠慮なくご馳走になります」と再度頭を下げただけだった。
桐也はと言えば、百合絵が手にした機械を指差して口をぱくぱくさせている。
百合絵は録音停止ボタンらしき物を押すと、それをまた弁当箱のような小さなハンドバッグの中に戻した。
「音丸さんには長いことおつらい思いをさせてしまって、ごめんなさい。スマホではなくて、どうしても直接お話しをしたかったもので。こんなに遅くなってしまって……」
いや、遅くなったのは音丸が留守電を無視したせいである。そう思ったが言葉は返せなかった。その代わりでもないが、百合絵から視線を外すとまた桐也を睨みつけた。
桐也はいまだにボイスレコーダーが消えた百合絵のハンドバッグを凝視している。音丸は指先でテーブルを突いて小さな音をたてた。
そして桐也の視線がこちらに向いてから、
「もしこの件でまた私や咲也、それに百合絵さんにも……少しでも迷惑がかかるようなことがあれば、二度と高座に上がれない身体にしてやる」
と腹の底から唸るような声を出した。
「私は回りくどい真似は苦手なんでね。覚悟しておいてくれ」
ここぞとばかりに反社的凄みを効かせたのだった。
桐也が完全に青ざめたのを確認して踵を返した。
いつの間にか傍らに来ていた店長が、百合絵の手から伝票を引き抜いていた。
「お代は結構です、菅谷さん。音丸師匠も、落語会をキャンセルしてすみませんでした」
「私は二つ目なのでまだ師匠ではありません」
機械的に返すと店主も気がついて、
「失礼しました、音丸さん」
と笑いながら頭を掻いた。どこかで他の誰かもくすくす笑っている。
「来月の会は予定通り開催させていただきます。どうぞよろしくお願いします」
と謝る店主の声を音丸は殆ど聞いていなかった。
笑ったのは入り口近くのカウンター席でエスプレッソを飲んでいる天然パーマの客だった。
中園龍平が嬉しそうに笑いながら音丸を見ている。日曜日だというのに相変わらずスーツ姿でネクタイだけが赤く華やかである。
「龍平さんにも話を聞いていただこうかと思って」
と背後で百合絵が言った。
「え、何で?」
「だって同じファンですのよ。お忙しいとおっしゃっていたけど間に合いましたのね」
百合絵はまるで桐也を店内に閉じ込めるかのようにまだ席に着いたままである。
帰りたそうに中腰になっている桐也に、
「桐也さんにはまだお話がありますのよ。大丈夫。浅草の夜席までにはお帰ししますわ」
と落ち着き払って言っている。
「じゃあ、音丸さん、龍平さん、ごめんあそばせ」
頭を下げられて音丸は騙されたような気分で店を出た。
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