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第27話 坂上焙煎珈琲店

 龍平が弾む足取りで坂を下って行く。音丸は黙ってその後を歩いて行く。 「百合絵さんは何でおまえを呼んだんだ? まさか気づいて……」  三弦にカミングアウトして以来、いちいち疑心暗鬼になる音丸である。だが龍平は軽く笑うのだった。 「僕らが恋人同士だと気づいたから呼んだって?」 〝恋人〟という言葉が胸にずしんと来る。〝セフレ〟ではないのか。 「まさか。僕に音丸さんの話し相手になってくれって。仕事を干されて元気がないけど、女の自分が聞いたらプライドが傷つくだろうから男同士でってさ」  また何かがずしんと来て奥歯を噛みしめる。  ふと龍平が歩みを緩めて音丸の胸にとんと後頭部を当てた。 「音丸さんの匂いがする」 「ええ?」 「着物の匂い袋の香りだね。それと、ちょっとアジアンテイストな香りもする」  案の定アパートの香辛料の香りが身についてしまっているらしい。音丸は眼下の天然パーマのつむじを懐かしく眺めている。  坂の下から腕を組んだ男女カップルがやって来る。おそらく坂上焙煎珈琲店をめざしているのだろう。男二人に気づかばこそ互いを見つめ合っている。  その男二人も腕こそ組んでいないが似たような状況ではあった。 「で、あの子は誰?」  唐突に尋ねる龍平である。まっすぐに目を見上げられて黙り込む。きょろきょろ辺りを見回して、 「あの子って?」  と問い直すのは我ながら間抜けな仕草である。 「ああいうサラサラの髪の子が好きだったんだ」  音丸は頭の中で必死にサラサラの髪候補者を探している。 「長野の楽屋にいた子だよ」  思わずぽかんと口を開けてしまう。 「髪サラサラで清潔そうな可愛い子だったよね。ああいうのがタイプだったんだ」 「違う!」  直球で否定する。洒落た回答などする余裕もない。  そこを見計らったかのように龍平は攻め込んで来る。 「駅では腕なんか組んじゃって。楽屋でも楽しそうだったね。長いつきあいなんだ?」 「違うって。あれ、あれは、師匠の、仁平師匠のお孫さんだ。住み込み前座の頃に面倒を見ていたんだ。小学生だったんだぞ」 「今は大学生だって言ってたよ。本当に何もないんだ?」 「あるわけないだろう」  音丸は腹立ちまぎれに龍平の手を握る。まるで仇敵の手を締め上げるような勢いである。 「いたっ」と手を引かれて「すまん」と放すと龍平は改めて身を寄せて来るのだった。そのまま導かれるように坂を下って行く。  坂のふもとに目立たない入り口のラブホテルがある。二人で何か言うことも顔を見合わせることもなく、ごく自然にその玄関を入って行くのだった。  ホテルの部屋に入るのももどかしく強く抱き合い口づけを交わしている。一体何年ぶりの逢瀬かと思う程に激しい抱擁を交わし息を荒げている。  龍平は喘ぎながらも、 「ホントは朝から京都に……出張……薬剤師会の学会に。あん……こないだ……みまかった長野の伯母さんの連れ合い……が、ショックで身体を……ん、ふ、お、お見舞いって嘘……」  と話し続ける。  スーツを脱いだ龍平の手を止める音丸である。ネクタイを緩めようとしている手を阻む。  はっきり言って男のネクタイを解くのは大好きである。  赤いネクタイをシュッと音高くカラーから抜き取る。その音に劣情もいや増して、開いた襟元に噛みつくようなキスをする。  ついでにズボンのベルトも緩めて下も脱がせている。昂っているのはお互い様である。 「だから会社には午後……あん、や、だから……ご、午後の新幹線で……」  うるさいので唇を唇で塞ぐ。何なら舌は話すためでなく愛撫のためにあるのだ。  音丸が慌ただしくデニムも下着も脱ぎ捨てれば、龍平は音丸のそれをしっかり握り込み、 「駄目だよ……まだイッちゃ」  自分の荒い息に合わせて手を動かしている。 「おい。ちょっとシャワーを」 「だって音丸さん、もうこんなだよ?」  結局シャワーを浴びつつ事に及ぶ。互いに抱き合い昂っている物も合わせて何やら奇妙なダンスを踊っているかのようである。  音丸の眼前には湯気で盛大にカールした天然パーマがあり、それをくしゃくしゃに揉みしだきながら陶然としている。  ああ、もう本当にイッてしまいそうだ……と思ったところに、 「ねえねえねえ。これ……何?」  龍平は音丸の首の根元に指先を這わせた。  音丸には目視出来ない襟元やや後方である。音高くそこに口づけされて、あっと思い出す。 「ああ、駅のホームで転んで……師匠が……」  言いかけて言葉に詰まった。  龍平が舌で舐っているのは、仁平師匠の歯が当たって切れた傷跡である。あの時、師匠の差し歯も折れた。  その説明が出来ない。声が出ないのだ。変に喉が詰まっている感覚がある。  のみならず今まで猛っていた下半身がにわかに意気消沈している。 「駅のホームで?」  龍平が言葉を促した途端に遠くで電話が鳴った。 「ごめん!」とバスルームを飛び出すなり龍平は電話に出ようとしている。入り口に放り出したままのビジネスバッグをひっくり返してスマホを探しているらしい。  音丸は救われた気分でバスタブの縁に腰を下ろして、すっかり勢いを失った我が分身を眺めている。信じられない事態である。 「はい、ありがとうございます。……ええ、お陰様で伯父も元気に立ち上がって……はい。午後の新幹線で京都に向かう予定で……」  素っ裸の水も滴るいい男がスマホを耳に当ててぺこぺこ頭を下げている。すっかり素に戻った音丸はバスタオルで身体を拭きながらその様子を眺めている。 「えっ! あの教授が……急遽来日された? それはすぐに伺わないと……」  きょろきょろしているのは、下着を探しているらしい。電話を切るなり、 「ごめん。すぐに出る。今すぐ京都に行かなきゃ」  と身体を拭いて下着を履いている。  二人の服があちこちに散らばっているが、音丸はシャツにワイシャツ、ズボンと龍平が着やすいように順番に手渡していく。前座修行の賜物である。腰にバスタオルを巻いた裸前座ではあるが。  最後に赤いネクタイを首に掛けてやって名残惜しく口づけをする。 「やめて。また勃つ。行かなきゃ」  顔を背けて離れようとする身体を最後にもう一度強く抱く。何か月ぶりの逢瀬だったか。  龍平は結んでいないネクタイをひらひらさせながら部屋を飛び出して行った。腰タオルでうなだれた下半身を隠した音丸を残して。  音丸はひたすら当惑している。やっと二人きりになれたのに、下半身はその歓喜に同意しなかったのだ。  こんな事態に陥るのは初めてのことである。龍平がそれに気づかばこそ慌ただしく仕事に行ったのは不幸中の幸いではあった。

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