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第28話 若い夏

9 若い夏 〝文七元結(ぶんしちもっとい)〟は三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)原作の人情噺である。  三遊亭圓朝とは幕末から明治にかけて活躍した人気落語家である。  他にも圓朝には今に残る名高い創作落語が多い。 〝牡丹灯籠(ぼたんどうろう)〟〝真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)〟〝芝浜(しばはま)〟など題名だけでも知っている者は多いだろう。  だが何しろ明治から幕末の落語である。令和の現代にはわかりにくい面も多い。  〝文七元結〟は今風に言えばギャンブル依存症の男が主人公である。  達磨横丁(だるまよこちょう)の左官の長兵衛(ちょうべえ)親方は腕のいい職人だが、博打狂いで借金を作り、妻や娘に暴力をふるうこともある。  娘お久(おひさ)は父親の借金を返すために自ら吉原の大店、佐野槌(さのづち)に身を売る。旧知の女将に父親に博打を止めるよう説得をしてもらうためでもある。  佐野槌の女将は長兵衛に五十両を貸し与える。 そしてお久を預かって女将の小間使いにするが、もし来年の大晦日までに五十両を返せなければ女郎として店に出すと告げる。娘が可愛ければ心を入れ替え博打を止めて仕事に励めと諭すのだった。 うなだれて吉原を出た長兵衛は大川(今の隅田川)にかかる吾妻橋で身投げしようとしている若者を助ける。鼈甲問屋の奉公人である文七(ぶんしち)は掛け取り金の五十両を懐からすられて死んで詫びようとしていたのだ。  長兵衛は迷った末に、借りたばかりの五十両を見知らぬ若者文七に与えてしまう。  そして名前も名乗らずその場を立ち去るのだ。  長兵衛が明かすのは金の由来だけである。  今ここでおまえに五十両をやってしまえば来年の大晦日までに借金は返せない。つまり娘は女郎にされると。 「でも娘は死ぬわけじゃない。おまえは五十両がないと死ぬと言う。だからやるんだ」  この辺が音丸にはどうにも腑に落ちない。 〝江戸っ子の粋〟などと解説する向きもあるようだが。単なるその場しのぎの短慮としか思えない。  父親の借金のために自ら身を売る孝行娘より、大金をすられた間抜けな赤の他人を優先する江戸っ子の心意気とやらに共感できる現代人が果たしてどれだけいることか。    ともあれ、結末はと言えば……  文七は金をすられたのではなかった。掛け取り先に忘れて来ただけだった。  鼈甲問屋の主人や番頭の尽力により、文七に金を与えたのが達磨横丁の長兵衛親方だとわかり翌朝返しに来る。佐野槌から娘お久を身請けして、長兵衛に返すという粋なお礼も付けて。  やがて文七とお久は夫婦になって元結(日本髪の髷を結い束ねる紐)の店を開く。  その元結が〝文七元結〟と呼ばれて店は繁盛する。  めでたし、めでたし。  という噺なのだが。  落語の口伝は、昔からそっくりそのまま伝わったものばかりではない。  時代によって受け入れられやすいように変え、面白くなるよう笑いの部分を加え、少しずつ改編を加えて伝わって来ている。  音丸に〝文七元結〟の稽古をつけてくれた逸馬師匠も通常の高座では自分流に少し変えている。けれど〝山の県境落語会〟では古典に忠実に語ってくれた。音丸に稽古をつけるためである。 「もしおまえが誰かに教えることがあれば、私が教えたとおりに伝えろ。ただ自分で高座にかける分には納得いくように変えてもいい」  上げの稽古ではそう言ってくれた。  だから音丸もどこかを工夫したいとは思っている。今に生きる身として長兵衛親方の行動は今一歩理解しかねるのだ。語る側が納得していなければ、聞く側も首をかしげるだけである。  何も大幅に改編することはないのだ。語りの力点をどこに置くかだけでも噺は違って来る。 だがまだ何をどうすれば良いのか見当もつかないのだった。 〝文七元結〟の口慣らしをする場として、坂上珈琲落語会の代りに選んだのは勉強会だった。  自分で区民会館を借りて催す会だからキャンセルなどない。ここも百合絵が運営を手伝ってくれている。  区民会館は都心の近代的なビルに埋もれるように立っている昭和の遺物である。定員三十五名の会議室を会場に仕立てるのは音丸自身である。  黒板前の演台に座布団を置いて高座にする。客席用にはパイプ椅子を並べて行く。入り口には手書きのチラシを貼り付ける。  当初は数人の客しか来なかったのが、最近はありがたいことに追加の椅子まで出す盛況である。  この勉強会が音丸と龍平の個人的な出会いの場だった。製薬会社の落語会が終わったその月のうちに、中園龍平はここに音丸の落語を聞きに来たのだ。そしてなるようになったわけだが、以後この会が終わると打ち上げの後で別々に帰ったふりで、龍平の部屋で落ち合い一夜を過ごす習いとなっていた。  今回も龍平は来るに違いない。坂下のあのラブホで中途半端に終わったことを今度こそ完遂してやる。音丸自身の不如意も払拭しなければ気が済まない。今夜はあの天然パーマを寝かせてやるまいぞ。などと一人にやにや待ち受けていたのだが。 「音丸さん。来ちゃった!」  と会場前の会議テーブルで受付をしている音丸に駈け寄ったのは蓮見三弦だった。 「え、大学は?」 「試験休み。この後、二十三日が学祭だよ」 「はあ。そうですか」  高卒の音丸には大学の授業システムはわからないが、師匠の孫が学校をさぼったのではないと知って安堵する。またしても三弦は音丸と腕を組まんばかりにして、 「いい報告があったから来たんだ。大丈夫。高速バスで来たからそんなに無駄遣いしてないよ。今夜は横浜じゃなくおじいちゃんちに泊まるしさ」  いや別に三弦の懐具合までは心配していないが。 「咲也さんから返事があったんだ。学祭に来てくれるって!」  と三弦はとうとう音丸に抱き着いて報告する。 「それはよかったですね」  抱き着かれたまま顔を背けたところで、やって来た龍平と目が合う。今ここで師匠の孫を突き飛ばすわけには行くまい。  龍平からチケット代を受け取っている百合絵に向かって殊更に大声で、 「こちら、仁平師匠のお孫さんで、蓮見三弦さん」 「存じてますわ。山のホテルでお会いしましたもの」 「そうでしたっけ?」  と言ったのは、ようやく首っ玉から離れてくれた三弦だった。  龍平は知らん顔で室内に入って行く。  例によってコアなファンである四人のジジババが最前列を陣取って、その後ろに着いた龍平の隣に何故か三弦が座っている。仲入りの際、二人で何やら話しているのが妙に気になる。  仲入り後が〝文七元結〟だったが、身が入らないこと夥しい。噺の工夫どころではない浮ついた高座だった。  終演後、打ち上げの店に移動する前に音丸はタクシーを呼んで三弦を師匠宅に返した。 「何で? 僕もう二十才だよ。ちゃんと大人だし……お酒だって呑めるよ」 「学生は前座と同じ。酒も煙草も禁止です。仁平師匠がそうおっしゃってました。みっちゃんは帰っておしっこして寝てください」  と無理やりタクシーに詰め込んで運転手に行き先を告げていた。  そして気がついた時には龍平の姿は消えていた。百合絵に訊けば、 「龍平さんならもう帰りましたわよ。仕事を持ち帰ったので今夜は徹夜だそうですわ」 とのことである。  何なんだそれは?

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