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第29話 若い夏

 勉強会の打ち上げに参加できずにタクシーで祖父宅に送り返された三弦である。  未だに子ども扱いされている。もう自分は時次郎じゃないのに! と不満に思うのは、話を聞いて欲しかった側面もある。  少なくとも性に関しては自分と違う視点を持つだろう音丸に。  三弦は落語研究会に入るなりスターになった。  祖父が落語家だからというだけでちやほやされるのは虎の威を借りるようであまり嬉しくはなかったが、散々いじめられて来た身には新鮮だった。  夏休み中は横浜の実家には帰らずに落研の部室に入り浸っていた。  大学で山野草研究会の部員たちを見ることもなかったが、何故かあの茶髪の女子とはよく顔を合わせるのだった。大学近辺のコンビニやファミレスなどで出くわした。  しまいには家の近所の牛丼屋で一人食事をしている所にやって来て隣に座ったりする。文学部二年生の大塚ジュリと名乗るのだった。 「蓮見くん、つきあってる人いないんでしょう。よかったら私とつきあわない?」  と人の丼に勝手に紅ショウガを入れながら言うのだった。 「悪いけど、僕もう好きな人がいるから」  即答してから少し身体が熱くなった。まだ告白もしていないのにと思ったそばから、 「でも別につきあってないんでしょう?」  と言い当てられて「いや」「でも」と口ごもりながら紅ショウガさながら赤くなる。 「片思いなら、先に私とつきあってみればいいじゃない?」  少々強引に言い募るジュリである。 「そしたら私のが好きになるかも知れないし」 「ならないよ」と即答したいが礼儀正しい三弦としては黙っているしかなかった。  以来、ジュリは家の近所に頻繁に現れるようになった。月の湯から出て来るところで呑みに誘われたり、コンビニで出会って買い物について歩いたりする。そのたびに身を寄せては、 「ねえ、蓮見くん。ちょっとだけつきあおうよ」  と攻めて来る。ひょっとしたら三弦の住まいまで突き止めたのかも知れない。  腕を絡めるのみならず、柔らかな胸を押しつけられるに及んで、彼女の言う「つきあう」とは「エッチしよう」ではないかと気づくのだった。  そして何度目かの誘いで断りかねて……いやスケベ心に負けてジュリと共にラブホテルに入ったのだった。  二年生の夏休みも八月半ばに差しかかる頃、三弦はようやく初体験を済ませたのだった。よく知らない大して好きでもない女と。  そしてジュリから逃げるがごとく祖父の家を訪ねたのだった。あまりに自分が情けなかった。咲也から何の返事もないのが不安だからといって他の女性とセックスする奴があるか。  せめて祖父に咲也の動向でも訊こう。協会は違えども同じ落語家ならば何か情報があるかも知れないと期待していた。  そして知り得たのは、咲也は身体をこわして実家に帰ったという事実だった。大学祭の落語会で再会する夢もついえた。  寄席の八月中席。祖父が主任を務める高座を見てから横浜の実家に泊まった。  夏休みなのに実家に顔も見せずに祖父の元に泊ったとなれば継父が快く思わないだろう。父母の関係が悪くなっても困る。三弦にとって実家とは寛ぐ場所ではなく気を使う場所だった。  夏の高校野球の優勝校が決まるまで実家で過ごして長野のアパートに戻った。  そしてすぐに月の湯を出たところでジュリと出会って、凝りもせずにまたラブホテルに行っているのだった。  童貞でなくなれば蒸し暑い夜毎、淫猥な妄想に悶々とすることもなかろうと思いきや、知れば知ったで更に粘っこい妄想に駆られてしまう。あれもしたいこれもしたいもっとしたい……セックスとはまるで麻薬のようだった(いや、麻薬の経験はないが)。  こんな時、仕送りが豊富なのも考えものである。毎日ラブホに通っても資金は尽きない。  ましてジュリはAVで見たような変わった体位も嫌がることなく受け入れてくれる。三弦の好奇心と探求心は深まるばかりである。  もしも咲也とそうなった場合にリードできなければ困るではないか。などと自分に言い訳をしながらセックス漬けの日々である。  夏休みが終われば中間テストがあるのだ。今のうちに勉強をしておかねば。などという正しい思いが抑止力になるはずもなく。  夏休みが終わり中間テストの日程が発表される頃には、ジュリは三弦のアパートまで誘いに来るようになっていた。やはり住処を知られていたのだ。けれど三弦の部屋に上がろうとはせずにラブホテルに直行するのだった。  その理由は三弦にもわかった。この古いアパートが、その際の激しい動きに耐えきれないと察していたのだろう。実際どこの部屋からか時に妙な振動やら喘ぎ声やらが伝わってくることもあったのだ。  淫乱な日々を過ごしながらも、テスト勉強に勤しもうとする三弦である。  学食で教科書やノートを広げながら食べるのは、三角おにぎりだった。あの時、音丸が握ってくれた物がまだいくつか冷凍してあったのだ。これを食べれば身を正して清らかに勉学に勤しめるような気がした。  そこに両脇の席に座ったのは、山野草研究会の男子部員たちだった。  そう言えば、辞める際に合宿の費用を返してもらうと宣言していた。すっかり忘れていたが。そのことでまた因縁をつけられるのかと思いきや、 「蓮見くん、やっちゃったんだって?」  右側に座った尖った顎の男が実に嬉しそうに三弦の肩に手をかけるのだ。 「穴兄弟になってもうたな」  左隣の脂で額をテカらせた男も肩に手をかける。  そのにたにた嬉しそうな顔は、これまでに見たことのない種類の表情だった。三弦はさっさと逃げようとして、おにぎりを無理にも口に詰め込んだ。 「大塚ジュリとやったって? あれ、マンジュリってあだ名なんだぜ」 「マン……?」  三弦は思わず咀嚼する口を止めてしまった。まだ口の中にはおにぎりが入っているのに。 「ヤリマン・ジュリだからマンジュリ。大して可愛くないけど、あっちはいいだろ」 「おっぱいごっつでかいし。口でやるのんうまいやん。ちゃんと顔射したった?」  ようやく二人が言っている意味を理解して、三弦は口中の物を吐きそうになった。けれど意地でも嚥下した。これは音丸が握ってくれたのだ。きちんと食べないと罰が当たる。  呆然としたまま家に帰り試験勉強をする。いや、机にノートや教科書を広げているだけである。  無駄にスマホを開いては益体もない動画を眺めていたりする。するとメッセージが入った。 〈ご連絡が遅れて申し訳ございませんでした。徳丸あにさんからお誘いいただいて、大学祭に前座として伺うことになりました。よろしくお願いいたします。また三弦さんとお会いできるのを楽しみにしております〉  柾目家咲也からだった。  待ちに待った連絡である。  三弦はにわかに笑顔になったが文字が歪んで見えなくなる。どうしたのかと思っているうちにばたばたと画面に水滴が落ちている。泣いているのだった。  一体何をやっているのだろう。咲也は身体を壊して実家に帰るような厳しい前座修行をしているのに。そんな中でも律儀に仕事の返事をくれたのに。  自分ときたら性欲の赴くままにヤリマン女と猥らな夏を過ごしていたのだ。あまりに恥ずかしくも情けない。  三弦は一人おいおい泣いているのだった。  そしてようやく大塚ジュリと別れることが出来た。 「もうつきあうのはよそう。中間テストが始まるから勉強しなきゃならないし」  と今更な理由をつけて、ラブホに行くのを拒んだのだ。  ジュリは言い寄った時のしつこさが嘘のように「そうお?」と、あっさり別れてくれたのだった。

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